【 夜長姫 】
◆hemq0QmgO2




107 名前:No.38 夜長姫(1/3) ◇hemq0QmgO2[] 投稿日:07/02/18(日) 22:54:31 ID:h9YV0QBh
「ここには昔からなんにも無いの。怖いくらいつまらなくて寂しいから、羽虫みたいに人が灯りに群がるの」
 くるみが言った。蜘蛛の糸みたいに細く弱々しい声だった。なんにも無い街、か。
「ずっと渋谷に住んでるの?」
「うん、ずっと住んでる。寂しいけど、病気のパパとママがいるから、住んでる」
「二人共病気なの?」
「うん。病気、病気なの。ねえお巡りさん、私を助けて。誰も知らない所へ逃げたいの、お願い……」
 くるみは静かに泣いていた。嗚咽の一つさえ、聴こえなかった。病気。さて、どうしたものか。
「君を遠くへ連れて行くことは出来ない。でも、とりあえず交番で休ませることぐらいは出来る。不満かい?」
 くるみは何も言わずに、ゆっくりと首を降った。多く見積もっても十代後半の女の子なのに、
その仕草には老婆の貧しさと痛みが混在していた。ああ、本当に、ここにはなんにも無い。
「行こう。歩けるかい?」
 くるみはうん、と小さく返事をして、シミだらけのベンチから立ち上がった。
 夜のセンター街の喧騒を後目に、半年前に僕が配属された道玄坂上交番まで並んで歩いた。二人共黙っていた。
秋風が少女の滑らかな黒髪を払う。白痴的な官能を感じた自分に気が付いて、嫌な気分になった。

「おい、動くな。お前等何してんだ?」
 問答無用に高圧的な声が聞こえた。間違いなく警官の声だ。それでも俺は目の前の男、
些細なことで殴り合いの喧嘩になった学生風の男、に中段回し蹴りを放つ。が、右足は虚空を斬った。
男は警官に恐れをなして駆け出していた。ヘボ野郎! と、俺が叫ぶ。挑発も虚しく、
ヘボ野郎は消えてしまった。俺は背後から警官に取り押さえられた。抵抗する気も起きなかった。
 俺にその気が無いことが判ったらしく、やがて警官は力を抜いた。俺は立ち上がって、ちっ、と舌を打った。
「おい、喧嘩か? 相手は誰だ。知ってる奴か」
 俺はまだいくらか興奮していた。
「知らねえよ。てか俺はどうなんの? 捕まんの? でも相手逃げちゃったよ」
「とりあえず交番まで来てもらう。話はそれからだ」
「あっそ。じゃあよろしく」
 落ち着いてくるにつれて、右頬に鋭い痛みを感じた。唾液は血の味がする。まったく、やられ損とはこのことだ。
煙草をくわえると唇がひりひりした。上着のポケットをまさぐる。ライターが無い。
どうやら揉み合いになった時に落としたようだ。ちっ。俺は煙草をくわえたまま、警官に語りかけた。



108 名前:No.38 夜長姫(2/3) ◇hemq0QmgO2[] 投稿日:07/02/18(日) 22:55:02 ID:h9YV0QBh
「お巡りさん、悪いけど火ぃ貸してくんない?」
 警官は無言でライターを差し出した。三口ほど吸うと、馬鹿らしさが込み上げてきたので、捨てた。
吸い口が赤く染まっていた。化粧の濃い女みたいだな、と思った。相変わらず警官は何も言わなかった。
苛つく街だ。痛みのせいだけじゃあない。なんにも無い街だ。いや、陰鬱な痛みだけがある街だ。

 交番に到着した。駐在していた同僚に適当な理由を説明して、くるみを救護室に連れて行く。
そういえば本名も年齢も聞いていないな。まあ、特に聞く必要も無いのだけれど。彼女の素性を知ったところで
僕に何が出来る訳でも無い。ここに勤めるようになってから、僕は様々な可能性を殺す方法を覚えた。
 そうゆう意味では、僕も「病気」なのかもしれない。優しい病人。口にこそ出さないが、くるみは
僕をそう見なしているのかもしれない。さっき掛けてやった茶色い毛布にくるまっている少女を見ながら、
そんなことを考えていた。冷蔵庫から牛乳を取り出してマグカップに注ぐ。
「温かい牛乳を出すから、ちょっと待っててね。まだ十月だけど、夜は冷えるから」
 くるみは「ありがとう」と、枯れた声で言った。二番目の言葉を紡げない魔法をかけたような声だった。
古い電子レンジが奥歯に染みる音を奏でる。その気だるい低音が、この小さな部屋の音楽の全てだった。

 交番に到着するや否や、取り調べが始まった。俺は住所や氏名、年齢を無愛想に、しかし正直に、答えた。
「新宿区の井沢ヨシノリさん二十七歳、ね。職業は?」
「運送業。あのさ、悪いんだけど顔が痛いんだ。応急処置でいいから済ましてくんない?」
 警官は少し考えてから、俺の要求を呑んだ。案内されて救護室へ向かうと、先客がいた。若い女、いや少女だった。
毛布にくるまってマグカップを傾けている。俺を連れてきた警官が少女の面倒を見ている若い警官に言った。
「杉本、俺巡回行くから頼むわ。この人は手当てして大丈夫そうなら帰してやってくれ。
とりあえずお前一人だけど大丈夫だろ。二十分くらいで朝倉達も戻るだろうしな」
 押し付けるようにそう言い残すと、俺を連れてきた警官は出ていった。やれやれ、適当なもんだ。
押し付けられた若い警官は俺の腫れた顔を見ると、何も言わずに戸棚から消毒液やバンソウコウを取り出した。
そして取り出したそれらを、やっぱり何も言わずに、おざなりな調子で俺の顔に塗ったり貼ったりして
処置は終わった。俺が軽く礼をすると、小さな声で「いえいえ」とだけ言った。
 暗い奴だ。ところで、俺はもう帰っていいのだろうか。唇の傷を弄くっている俺を見て、暗い警官が言った。
「あ、もう帰っても大丈夫ですよ。それともなんか飲みます? お茶とコーヒーと牛乳くらいしか無いですけど」
「うーん、じゃあ温かいミルクもらえる? 一杯飲んだら帰るから」



109 名前:No.38 夜長姫(3/3) ◇hemq0QmgO2[] 投稿日:07/02/18(日) 22:55:26 ID:h9YV0QBh
 警官は俺にホットミルクを差し出すと救護室を出ていった。二人きりになった。向かいに座った少女は
空のマグカップを大事そうに両手で掴みながら、壁に掛かった時計をじっと眺めている。家出少女か。
俺は煙草を取り出して、机の上のライターを拝借した。煙を吐くと頭がくらくらした。ミルクを飲むと傷の痛みが
少し和らいだ。ぼやけた蛍光灯に一匹の羽虫が近づいては離れる。やがてどこかへ消えてしまった。静寂が続く。
煙草を消して少女を見る。目が合った。傷だらけの俺の顔を不思議そうに見つめている。俺が口を開いた。
「どうかしたか? 俺の顔なんかじっと見つめても何の得もないだろう、かわいこちゃん」
 それでも少女は俺の顔をじっと見つめている。やがてゆっくりと口を開いた。消え入りそうな掠れ声だった。
「お兄さん、あなたも病気なの? この何も無い街で私を寂しくさせる人なの?」
 病気? 突拍子も無い質問を受けた俺は戸惑いながらも、可能な限り正直に答えた。
「うーん、たぶん病気じゃあないな。ご覧の通り怪我はしてるけどね。それに俺の家はここじゃない」
 突然、少女が身を乗り出して哀願した。無意味にエロチックな声と顔で。
「お願い、お兄さん。ねえ、私をどこか遠くへ連れて行って。お願い。私このままじゃ……」
 少女は泣いていた。大袈裟で脈絡の無い娘だ。しかし、自分の職業が長距離トラック運転手である
ことを思い出して、少女の家出に手を貸すのも悪くないな、と思った。思った時にはもう答えていた。
「わかった。いいよ、連れて行ってやる。そのかわり二日だけだ。最後に聞くぞ、本気か?」
 少女は涙目を擦りながら、力強く頷いた。俺は温くなったミルクを飲み干す。少年のように浮ついた気分だった。
「よし、じゃあ行こう。正面は駄目だ。あいつがいるからな。裏口から静かに出るぞ。ところで名前は?」
 少女はくるみ、黒沢くるみ、と答えた。
「くるみか。俺は井沢、井沢ヨシノリだ。よろしく」

 無意味な書類を整理しながら思う。僕はくるみをどうしたいんだろう。くるみは少女、少女だ。それでも
僕はくるみを愛している。愛しているんだ。道端でうずくまっている彼女に声を掛けて美しいその顔を見た時、
僕は一瞬で恋に落ちた。本当に落ちたんだ。何も無いのに。病人なのに。違う。僕は愛しているんだ。
くるみを、その全てを。言い訳するな。逃げるんだ。出来るんだ。彼女と世界の果てまで……。
 僕は覚悟を決めて立ち上がった。彼女と僕の夢を叶えるために。この仕事はクビになるだろう。
それでもいい。後のことはあの人、あの怪我人に説明してもらおう。格好つけるな。僕はくるみを――。
救護室には誰もいなかった。空っぽのマグカップと蛍光灯に群がる二匹の羽虫が何もない世界の象徴だった。(了)




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