102 名前:No.36 特別な時と事情(1/3) ◇iiApvk.OIw[] 投稿日:07/02/18(日) 22:22:58 ID:h9YV0QBh
牛乳配達の仕事を始めてから、俺の生活リズムは
極端な朝型になった。まだ真夜中と言ってもいい頃から動き始め、
ようやく朝焼けを見る時には仕事はほぼ終わっている。
ずっしりと重い牛乳瓶を、時には高層マンションの最上階に
運ぶことだってある。それは決して楽ではないが、それでも
俺はこの仕事が気に入っていた。
理由は二つある。
一つは朝の空気が好きだからだ。
昼間は辺りに飛び散っている埃も、この時間帯は地面で静かに眠っていて、
上澄みのような透明な空気を独占できる。都会を汚いと嘆く人はいるが、
こんなにも素晴らしい姿があるのだ。
そしてもう一つはあの人に会えるからだ。
初老の女性で、その洗練された立ち振る舞いは正に淑女と呼ぶに相応しい。
まだ日すら出ていない時間にも関わらず、必ず玄関の前に立っていて、そして
柔らかな笑顔で出迎えてくれる。さらには俺が牛乳を渡すと、丁寧にお礼を言って
労いの言葉をかけてくれるのだ。
今の世の中にこんな人がいるとは思わなかった。
「毎朝、大変でしょう」
「若いのに偉いのね」
そんな聞き慣れた言葉も、彼女の口から発せられると新鮮に聞こえ
心に響いてくる。俺はそれを聞くたび、今日は素晴らしい日に
なりそうだと思えるのだ。
103 名前:No.36 特別な時と事情(2/3) ◇iiApvk.OIw[] 投稿日:07/02/18(日) 22:23:38 ID:h9YV0QBh
ある日の夕方、買い物の帰りにたまたま彼女の家の前を通りかかった。
毎朝見る感じとはやはり少し違う。
家は良く見積もっても築二十年を超えているだろうが、しかし玄関から
庭に至るまで丁寧に手入れがされていて、俺は彼女の気品さを再認識した。
彼女はずっと昔から一人でここに住んでいるそうだ。
俺は老人が一人で住むには大きすぎる家だと思った。
家族はいないんだろうか。
特にこれ以上立ち止まる理由もないので、歩き始めようとしたとき
彼女の家から何かが割れる音が聞こえた。続けて、男の罵声が周囲に
響き渡った。男は相当激昂しているようで、また何かが割れる音がした。
俺が呆然と立ち尽くしていると、今度は女性の悲鳴に似た
叫び声が聞こえた。想像はできないが、恐らく彼女の悲鳴だろう。
それと同時に何かが窓ガラスを突き破って俺の足元に飛んできた。
よく見るとそれは俺が今朝、彼女に配達した牛乳瓶だった。
まだ飲まれていなかったらしく、割れれた窓周辺に牛乳が
飛び散っていた。
俺はこれ以上この状況が続くようだったら警察に通報しようと考えたが、
窓ガラスが割れたのを最後に物音一つしなくなった。
どう対応していいか分からず、俺はその場を逃げるように立ち去った。
104 名前:No.36 特別な時と事情(3/3) ◇iiApvk.OIw[] 投稿日:07/02/18(日) 22:24:13 ID:h9YV0QBh
次の日も俺はいつも通り、朝早く彼女の家に向かう。
あんな事があったのだ。もしかしたら今日はいないかもしれない。
しかし俺のそんな予想は完全に裏切られた。
彼女はいつものように高貴な雰囲気を漂わせながら、俺を親切に
出迎えてくれたのだ。それだけなら理解できた。品のある人間は
自分の都合によって対応を変えたりなどしない。
しかし、何事もなかったかのように牛乳瓶を返してくれたことは
理解ができなかった。わざわざ瓶を用意したのだろうか。しかしこの牛乳瓶、
関係者以外が手に入れるのはそう簡単ではない。また窓も修復されていた。
俺は一つ彼女に質問をしてみた。
「昨日の牛乳はどうでしたか?」
表情を伺おうと考えたが、何の曇りもない笑顔で
「大変、美味しかったですよ」
と答えるだけであった。
飲んでるはずがない。
それどころか、彼女は牛乳を飲んだことがあるのだろうか?
そんな疑問が俺の中で沸きあがってきた。
「今日も一日、頑張ってくださいね」
怪訝な顔をしている俺に対し、彼女はいつも通りの落ち着いた
口調だった。
それを聞いて俺は詮索するのを止めようと思った。
今日も空気は澄んでいて、そして彼女はいつも通り清清しいのだ。
これ以上、何も望む必要などない。
俺にとっても、そして恐らく彼女にとってもこの素晴らしき朝だけは
特別な存在なのだ。