【 現実はミルクの湯気の向こうに。
】
◆D7Aqr.apsM
75 名前:No.26 現実はミルクの湯気の向こうに。 (1/3) ◇D7Aqr.apsM[] 投稿日:07/02/18(日) 17:03:32 ID:+whaIOjc
誰もが他人には見せない顔を持っている。そして、その顔こそが本当のその人
なのかもしれない。そんなことを思ったのは四日前。駅に止まる電車から、雨の中を
一人、傘もささずに歩く絵美さんを見かけた時だった。冬の雨にぬれながら歩く彼女の
顔は、凍り付いたようにこわばっていた。
絵美さんは、あたしが通っている英会話教室の先生。親曰く、遠縁の親戚にあたる
のだそうだ。長いストレートの髪と、日本人離れした白い肌をしていて、美人の部類に
はいると思う。なのに、かなりのいたずら好きで……年下の人間が言う事じゃあない
けれど、可愛らしい、という言葉が似合う。高校三年にもなって、あたしが受験には
あまり関係の無い英会話教室に通い続けているのは、彼女に会うためというのも
多分にあるのだと思う。何となく落ち着くのだ。絵美さんと一緒にいると。
その絵美さんは、今、ベッドに弱々しく横たわっていた。
寝乱れた髪と、辛そうに顰められた眉。額に手を当てると、体温計なんかいらない
くらいはっきりと熱い。
「絵美さん、しっかりしてください! もう! 昨日来たときに様子がおかしかったから
きてみたら……。大丈夫ですか? ドア開きっぱなしだったんですよ?」
驚かさないように、小声で声をかける。絵美さんは家の居間をカフェのように改造して、
教室として使っていた。前に大雪で帰れなくなったときに泊めてもらったことのある
寝室には、ベッドと作りつけのクローゼット、とオイルヒーターくらいしかない。
さっきスイッチを入れたヒータが軽い金属音を立てながらゆっくりと部屋を暖めはじめていた。
「ん……。あ、香織ちゃん。わざわざ来てくれたの? 大丈夫ただの風邪……」
辛そうに、かすれた声で絵美さんがつぶやく。目の焦点が合ってない。
「ただの、って。すごい熱ですよ? 薬とか飲んでます?」
「人間にはね、治癒力ってものがあってね……」
「飲んでませんね? もう! すぐ持ってきまから。待っててください」
はだけていた肩口布団をかけ直すと、あたしはキッチンへ向かった。勝手知ったる
なんとやら。冷蔵庫から牛乳を取り出し、ミルクパンに入れて暖める。あたし自身が風邪を
ひいた時によくやる手。ついでにぬらしたタオルを五本、固く絞って
レンジへ放り込んだ。さっき肩に手をかけたとき、ずいぶん寝汗をかいていたから。
できあがったミルクとタオルを持って、あたしは寝室へ急いだ。
76 名前:No.26 現実はミルクの湯気の向こうに。 (2/3) ◇D7Aqr.apsM[] 投稿日:07/02/18(日) 17:04:00 ID:+whaIOjc
「牛乳嫌ぁい。水と薬だけでいい」
絵美さんは子供が駄々をこねるように首を振った。
「砂糖いれてあるから飲みやすいですよ? それとも、ココアがいいですか?」
「甘いのはだめ……ごめんね」
普段甘い物好きで、ココアが好物の絵美さんが、こんな事を言うのは珍しかった。
思い返せば、昨日もクッキーや甘いものは食べていなかった様に思う。
「うん、じゃあ先に体を拭きましょう。いいですか? 着替え取ってきますね」
小さく頷きながら、絵美さんはゆっくりと体を起こした。タオルが入ったボウルを渡す。
クローゼットの中の引き出しから着替えを取り出して振り返ると、絵美さんはパジャマを
脱いで、ゆっくりと体を拭いている所だった。長い髪と背中が見える。
息をのんだ。
首筋から背中にかけて、大きな傷跡が長い髪の間から見えた。気配に気づいた
のだろうか、絵美さんが振り返る。
「……ん? あー。知らなかったっけ? ちょっと昔にね。ドジ踏んで」
「今はもう、いいんですか?」
「傷はね。――失った仲間達は帰らないけれど」
そういった絵美さんの背中に、雨の中で濡れていた時の顔が重なる。
「絵美さ――」
「なんてね! なんてね! ちょっと格好良かった? ね、どう?」
Tシャツを被って、彼女は笑って見せた。でも、その笑顔はとても寂しげで。
「絵美さん」
「はい?」
「あの、何かあったんですよね? あれだけ好きだったココアも飲まないし……。あの、
良くはわからないですけど。あまり自分を責めちゃ――ダメな事もありますよ?」
最後の方は、少し涙声になってしまった。多分、あたしの言葉は、この人のつらさには
届かない。それはわかっていた。
「そうだね。うん。そういってもらえると、ちょっと救われるかな。――なんかお母さん
みたいだなあ。香織ちゃん」
「こんな年の娘を持った覚えはありません」
絵美さんは、あたしにそうっと寄りかかると、「そうだね」と言って少しだけ泣いた。
77 名前:No.26 現実はミルクの湯気の向こうに。 (3/3) ◇D7Aqr.apsM[] 投稿日:07/02/18(日) 17:04:25 ID:+whaIOjc
しばらくして、あたしはぽん、と絵美さんの肩を叩いた。
「と、いうわけで。ミルクを飲んじゃいましょう。ね?」
「えー? 良い雰囲気なのに。仕方ないな。何か食べればいいんでしょう?」
絵美さんはベッド脇のサイドテーブルから、小さな箱を取り出した。
「チョコレート。ね? これでいいでしょ? 一緒に食べよう?」
差し出された薄いチョコレートは一口サイズに包装されていた。黒地に金の騎士のマーク。
絵美さんは、ぱくん、と一つ、自分の口に放り込んでから、もう一つを剥いてあたしの
口元に差し出してきた。どっちがお母さんみたいなんだか。と、思いながら食べさせてもらう。
絵美さんの口角がきゅいっとつり上がる。いたずらをするときの顔。
なめらかな舌触り。風味も……でも、何か――!
「なんですかこれ! チョコなのに全然甘く……っていうか、ちょっと塩辛いですよ!」
あたしは口に入れたチョコレートを吐き出すこともできずに、そのまま叫んだ。
絵美さんはえへへーと笑っている。
「ヴェルノシチ カチェストヴゥ社謹製、カカオ九十九パーセントのチョコレートだよん。
ちなみに、残りの一パーセントは食塩と香料ね?」
巻き舌の発音を無視してパッケージを奪い取ってみると、キリル文字が躍っていた。
「こんなのあり得ないですよ! 苦いだけなんて!」
「見た目に甘くても、実際は苦い。ね、現実っぽいでしょ?」
絵美さんは信じられないことにもう一枚を口に含んで、にっこりと笑って見せた。
そして、置かれていたミルクをゆっくりと飲む。
「うん、でも、少し甘い現実も良いのかも。……ありがとうね、香織ちゃん」
そんな感謝のされ方したくない。というか、この仕打ちはいったい。
「ミルク、半分残してるけど、いる? 甘いよ?」
掲げられたマグカップを横目で睨みながら、あたしは首を振った。
「いいから、全部飲んでください。それから、薬です」
あたしは薬と水を差し出す。
ちぇっ、とかなんとか言いながらミルクを飲み干す絵美さんは、可愛らしく見えた。
彼女の背負っているものや見てきたものは、この先もあたしにわかることはない
のかも知れない。でも。できるかぎり、あたしは彼女にホットミルクを作り続けようと思う。
苦さと甘さが半分半分。それくらいが丁度いい。