【 成長 】
◆FVCHcev9K2




66 名前:No.23 成長(1/3) ◇FVCHcev9K2[] 投稿日:07/02/18(日) 11:45:48 ID:V50whKxg
 それはまだ寒い春の休日、コタツに入りながらテレビを見ている時のことだった。
 ガラガラと玄関の引き戸が開く音が聞こえた。「ごめんくださーい」
 僕は声を無視して、テレビを見ていた。祖母が応待した。
 芸能人が旅先で食い歩く番組は暇潰しにしかならなかったので、
数分経ってもまだ帰らない訪問客と祖母とのやりとりに耳を傾けた。
「ここらへんは○○(注:業者名)さんが多くて、なかなか取って貰えないんですよ」「そうですよねぇ……」
 どうやら、牛乳の宅配の売り込みのようだった。しかも、話のスジから察するに、祖母は契約してしまいそうだった。
 うちは誰も牛乳を飲まない。しかし、当時高校一年の僕には、話に割って入って断る勇気はなく、だんまりを決め込んだ。
 はたして祖母は、週に三回、二本ずつの契約をしたのであった。

――その日の夕食、
「母さん、困るよ。うちは牛乳誰も飲まないんだから」父が祖母に向かって一言言った。
「だって、引っ越してきたばかりって言うし、ここいらへんには○○ばっかりだから、
契約してくれない人が多いっていうじゃないか」祖母が返す。
「そんな話してるんじゃない、誰も飲まないものを買うなって言ってるんだ」
「だって、かわいそうだろう?」
「かわいそうでも、だ。そいつらも○○があることを知ってて来たんだからそれなりに覚悟してたんだろう?
それに、誰が飲むんだ。結局俺が処理しなきゃいけないんだろ」
「でも、」
 祖母は、時々感情的になり意固地になる癖がある。こうなると論理的な説明は効果がない。
 僕は心の中で父に同意しつつ味噌汁をすすりながら静観することにした。
 ちなみに、嫁である母もこういう時に口を出すことは出来ない。僕と同じく黙々と食事を続けていた。
 幾度かの応酬の後、「んだこといってねぇべ! あー、もう、勝手にしろ!」と父がキレた。
 祖母も黙った。不可侵条約が締結したようだった。その後一家四人の食卓は静かに進んだ。

 それから一ヶ月くらいは、祖母も毎日のように配達された牛乳を飲んだ。父の手前、意地もあったのだろう。
 僕もたまには飲んだ。僕も母も牛乳で腹を壊しやすい体質だったので、あまり飲めなかったのだ。
 それでも夏は飲む機会が増えた。しかし、秋が来てやがて冬になる頃には、僕や母だけでなく祖母も体にこたえるらしく、
牛乳をあまり飲めなくなっていた。供給量が消費量を上回って、冷蔵庫内を牛乳が圧迫していった。

67 名前:No.23 成長(2/3) ◇FVCHcev9K2[] 投稿日:07/02/18(日) 11:46:20 ID:V50whKxg
 庭の梅の木に花が咲いていたある日曜日、台所に行くと父が牛乳の瓶を数本手にしていた。
「父ちゃん何してんの?」思わず声を掛けた。
「処理」簡潔だった。
 父の言う『処理』という響きには抵抗を覚えたが、冷蔵庫内の一画を占める牛乳には妥当な言葉だと思った。
 父は、賞味期限が切れていても「自分の鼻と舌とで確認してから飲め」という人だった。
 だからその時持っていた牛乳を、賞味期限の切れたものもかなりの量あったが、一つ一つ匂いを確かめていた。

 数時間後、夕飯のデザートに父が牛乳と寒天で作った牛乳寒が出た。あっさりとした味が美味かった。
 その時の父がどういう思いつきで寒天を作ったのかわからなかった。美味そうに食べていた父を見ると、
単に食べたかっただけかもしれないし、せっかく作られた牛乳を捨てるのはもったいないと思ったのかもしれない。
 しかし、加減を知らない父は明らかに作りすぎた。体積にして二リットルほどの牛乳寒が冷蔵庫行きになった。

 夕飯の後は風呂だ。この家で風呂を沸かすのは僕の仕事であり、今時分そんな家は珍しいだろうが、我が家はいまだ
ボイラーに薪をくべていた。湯舟に湯を張ってボイラー室で温度管理をしていると、風呂場から父の足音がした。
 一番風呂を貰うのは風呂を沸かす僕に対する褒賞みたいな部分があるのだが、
その日は僕より先に入っていたものがあった。先ほど父が入れたとおぼしき、大きな瓶に入った牛乳だった。
 次の日の朝、それはヨーグルトとして食卓に並んだ。皆スプーンですくって食べる。
 思ったより美味い。上品な酸味と、ピリピリとした食感が口に残る。同時に食べた父が言った。
 「あ、これ雑菌入ってるわ。ピリピリするもん」家族全員がスプーンを食卓に置いた。

 当時、僕は早起きだった。朝勉強すると効率がいい、という名目だったが、実際は深夜アニメを見たいがため
早寝をし、アニメを見た後、朝まで勉強するという感じだった。その際、幾度か牛乳配達を知らせる音が聞こえた。
 宅配用の箱に瓶を入れる際、瓶同士が当たる音が聞こえるのだ。かちゃからーん、という音が明け方の庭によく響いた。
「大変な職業なんだな」とは思っていたが、それ以上深く考えなかった。

 それから数ヶ月は平凡な日々が続いた。牛乳は冷蔵庫で余るもの、という位置づけになった。僕は飲まなかった。
 たまに寒天になったりヨーグルトになったりして大量消費されたが、そんな日々はある事件によって大きな転換期を迎えた。
 報道陣にもみくちゃにされたスーツ姿の男がテレビカメラに向かって叫んでいた。「私は寝てないんだよ!」

 2000年6月 某牛乳業者による集団食中毒事件が起きた。

68 名前:No.23 成長(3/3) ◇FVCHcev9K2[] 投稿日:07/02/18(日) 11:46:54 ID:V50whKxg
 最初は近畿地方での食中毒だけだったが、関連した不祥事が数日の内に相次いで報道された。
「この食中毒って、うちで取ってる業者じゃない? 近畿はだいぶ遠いけど」テレビの前に揃った家族に話題をふった。
「そうだねぇ、牛乳は生ものだから食中毒もよく出るしねぇ」と祖母の感想。
「飲む前に匂い嗅げよな。しかし、こりゃこの企業は潰れるかも知れんぞ。関連株も暴落だな」と父。
「……」興味がないらしく小説を読み続ける母。皆、まるで他人事のようだった。事実、他人事だった。

 僕はその頃、牛乳を宅配用の箱から台所へ持って行く役目を担っていた。
 ある日牛乳と、一枚の紙切れが入っていた。不祥事に対する謝罪の文章だった。
 そして最後に、急で申し訳ないが今週一杯で牛乳の提供を止める、という旨が記されていた。

 ――目を通した瞬間、心臓が跳ね上がり血液が沸騰したようだった。弱者に対する義憤に駆られたとも言えた。
「なんで企業の一部が起こした不祥事で、遠く離れた場所の配達業者が被害を被るんだ!」思わず心の声が漏れた。
 確かにこの配達業者に罪はないだろう。しかし、企業に属した以上、メリットとデメリットがある。それは理解していた。
 今回はそのデメリットが重なっただけだ。しかも食中毒の被害者が僕の身近にいないからこんなことが言えるのだ。
 もし自分や家族が被害者だったら、そんな企業は潰れて当然、と言っているかもしれなかった。
 そこでふと、疑問が湧いた。僕は何故今更配達業者をかばう? それは簡単だ。今、事件の直接の被害者を知ったからだ。
 だが、彼らが売り込みに来た時も、牛乳が余った時も、配達の瞬間さえも僕は「自分とは関係ない」と黙ってきた。
 父のように「処理」という言葉を使いながらも牛乳をどうにかしようとしなかった。そんな僕が今だけは企業は悪だと非難するのか?
 そう思い至り、正義面している自分に腹が立った。これではいじめを見て見ぬふりしておきながらいじめっ子の陰口を叩いてるのと
変わらない。自分に出来る精一杯をしていれば、一本でも多く牛乳を飲む努力をしていれば糾弾は正当なものだ。
 しかし、僕は逃げていたじゃないか。僕には企業を糾弾する資格はない。いまや自責と後悔と怒りとが僕の胸中に渦巻いていた。

 週末、配達業者の夫婦が最後の集金をしに来た。窓からその様子を見ていた。
 何度も頭を下げていたのが印象的だった。良い人そうに見えたのは、謝罪文で情が移っていたからだろうか。
 多分、この夫婦は職を変えねばならないだろう。ここに来て一年強で転職なのか。解雇手当とか出るんだろうか。
 去って行く夫婦の後ろ姿を見た時、こんな人たちをこれ以上見たくない、と強く思った。
 だから将来、立場や職業がどうあれ、人を陥れない、誠実な人間になってやる。そう思った。その思いは青臭かった分、真剣だった。

 あれから丸6年以上経った。僕は、あの時思ったような人間になれたのだろうか。
 牛乳を見ると時たま当時を思い出し、我が身を振り返るのだった。 <了>




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