63 名前:No.22 白い血 ◇7CpdS9YYiY[] 投稿日:07/02/18(日) 11:43:22 ID:V50whKxg
アール氏の一日は一杯の牛乳から始まる。
これが並みの人間なら爽やかな朝日と共に、といった具合だろうが、アール氏の場合はちょっと事情が違う。
夜のしじまに満たされた空気の中で、空に掛かる月を見上げながら、いかにも陰気そうにそれを飲むのだ。
青白い頬を歪ませ、土気色の喉を鳴らすその姿はどこか異様な雰囲気を漂わせていた。
目覚めの一杯が済むころになると、アール氏の秘書兼侍従兼性奴隷のエル女史が着替えを持ってくる。
「失礼いたします、ご主人様」
エル女史は感情のこもっていない声でつぶやき、アール氏のナイトガウンを脱がせにかかる。
アール氏は黙って両腕を広げ、エル女史がてきぱきとスーツに着せ替えるのを待つ。
かがんだエル女史の長い髪が肩をすべり、細いうなじなどを目にするとき、アール氏はいつもはち切れんばかりの衝動を感じる。
だがアール氏は生来の紳士であり、自己を律することの出来る高潔な人物だ。
決してその欲望を行動に移すことはなく、身じろぎもせず、ただ黙って乙女の柔肌を渇いた瞳で凝視し続ける。
やがて着替えが終わり、仕上げとばかりにエル女史は一歩下がってアール氏の爪先から天辺までを眺め渡す。
「よろしゅうございますわ、ご主人様。今宵も凛々しくておいでです」
しかしやはり声は平坦で、本当にそう思っているのかアール氏には定かではない。
「ああ、よかろう」
だがアール氏は鷹揚にうなずき、エル女史の誂えた服装を受け入れる。
アール氏の寝室には姿見が無い。アール氏にとってそれは無用の長物であるからだ。
ふと風の気配を感じ、アール氏は窓へと振り向く。
向こう側は闇夜であり、室内灯の光の加減で窓ガラスは鏡のように部屋の中を左右逆に映していた。
エル女史がドアから出て行くのが見える。
彼女と窓の間に立っているはずのアール氏に遮られることなく、エル女史の背が窓に映っていた。
そしてエル女史が部屋を出て行くと、窓に映る者の姿は無くなっていた。
まだそこにいるアール氏の姿を映すことなく。
ぎい、ばたん。
窓に映るドアはひとりでに開き、ひとりでに閉まった。
そして今度こそ部屋には誰もいなくなった。
64 名前:No.22 白い血(2/3) ◇7CpdS9YYiY[] 投稿日:07/02/18(日) 11:44:12 ID:V50whKxg
書斎の机にうず高く積まれた書類の山と格闘しているアール氏の元へ、盆に壜と杯を載せたエル女史が訪れる。
「ご主人様、お食事の時間です」
壜の中身はやはり牛乳である。
まず一杯目を一息に飲み干したアール氏は、二杯目をちびちびと味わう。
「頼んでおいた件はどうなった」
アール氏が訊ねると、エル女史は微かに首を縦に振り、答える。
「はい、ご主人様。ロンバルディアの商社とは条件面で折り合いがつきましたが、
サンフランシスコの船舶会社が若干の問題を残しています。先方は是非に、とご主人様との会食を希望しております」
それを聞いてアール氏は微かに眉をひそめた。
「ふむ、面倒なことを言っているな。まさかここへ呼びつける訳にもいかぬだろう」
「現在、地理的な妥協点を模索しております。先方に欧州を訪問する機会があれば、或いは」
「分かった。その線で進めてくれ」
まったく、とアール氏は首を振る。
商売ほど神経を使うものはない。商談相手を呼びつければ角が立ち、さりとてこちらから出向くわけにもいかない。
距離や煩わしさの問題ではない。
アール氏は、大きな河川や海を越えることが原理的に不可能なのである。
「まったく……人の世は世知辛い」
アール氏は再度首を振り、二杯目の牛乳を乾した。
65 名前:No.22 白い血(3/3) ◇7CpdS9YYiY[] 投稿日:07/02/18(日) 11:44:54 ID:V50whKxg
一日の仕事を終え、アール氏は寝室へ戻る。
すでに夜は明けており、館の外は柔らかな日差しが降り注いでいるのだろう。
だが、アール氏の寝室は薄暗い。
先回りしてベッドを整えておいたエル女史の手によって、窓は分厚いカーテンで覆われ、一筋の光すら入ってこない。
そのエル女史もすでに半裸となってベッドに横たわっている。
「お疲れ様です、ご主人様。どうぞ」
差し出されたのは、一杯の牛乳。
「ああ、ありがとう」
ベッドに腰掛けたアール氏はそれを受け取り、ゆっくりと喉に流し込む。
ふう、と息を吐き、湿った口ひげを撫でる。
「やれやれ……誉れあるヴァンパイアの末裔たるこの私が、金儲けに血道を上げた挙句に牛乳で口を漱いでいるとはな。
実に不甲斐のない話だ。ご先祖様に申し開きもできん」
夜の間とはわずかに印象の異なり、どこか明るい笑みを頬に浮かべるエル女史が、アール氏の首筋にしがみつく。
「でもご主人様、どうして牛乳なんですか? ヴァンパイアなら血をお飲みになればいいのに」
アール氏は襟元のボタンを外しながら、それに答える。
「味や成分の面で言えば、乳が一番血に似ているのだ。
そしてもっとも手に入りやすい乳とは牛乳だ。まさに『白い血』なのだ」
まったく、実に不甲斐ない、とアール氏は思う。
人の血、いや動物の血でも飲めたならそれに越したことはないのだが……。
だが、アール氏の渇きを満たすだけの血を用意するということは、ある別のことをも意味する。
そのことゆえに、アール氏は血の代わりに牛乳を飲むのだ。
昼なお暗い薄闇のなか、真紅に輝く瞳でエル女史を見つめ、その魔力に胸を震わせる彼女を抱えながら
アール氏はうっそうとつぶやいた。
「『人やその他の動物が死ぬのは禁止』。それがどうやら、この世界のルールらしいからな」