【 ダイアモンド 】
◆51rtpjrRzY




51 名前:No.18 &  ◆0IGmCNSmtU [] 投稿日:07/02/18(日) 00:28:47 ID:tywl3YxX
 一年前の自分は、何をしていただろうか。一ヶ月前は。一週間前は。昨日は。私は一体何をしていただろうか。
覚えていない。どうして覚えていないのか。きっと、毎日同じことを、無為なことをして過ごしているから覚えていないのだろう。
きっと昨日の私も、一週間前の私も、一ヶ月前の私も、一年前の私も。今の私と同じように一日を過ごしていたのだろう。
こうやって草を食み、仲間たちとじゃれあったりしながら、ただ何となく時間を送っていたのだろう。
 時々、代わり映えのしない毎日に変化を求めたりする。何か起きやしないだろうかと、何かしてやろうかと考える。
だが、実際に行動に起こしたことはない。柵を飛び越えて外界に身を投げ出すことも、一日で辺りの牧草を食い尽くしてみることもない。
 思うに、実際の行動に何ら影響を与えない思考や思想、信条といったものには一片の価値もないのではないか。
「認識できないのなら存在しないのと同じ」の理屈だ。なら、今自分がこうやって思考にふけっているのにも意味はないのだろうか。
それは何と空しいことであろうか。確かに私は今こうして物思っているというのに、その思考は存在しないのと同じなのだ。
 ふと仲間の方に目を向けると、人間が彼女の乳を搾っていた。毎日毎日飽きもせず、まあご苦労なことである。
しかし何ゆえ彼らは我々の乳を搾り、それを飲むのだろう。人間は人間の乳を飲めばよいではないか。何ゆえ牛の乳を飲む。
これは小さなようで大きな疑問だ。そもそも何故、彼らは牛の乳を飲もうなどという考えに思い至ったのか。阿呆なのか。
最初に牛の乳を飲んだ人間は何を考えていたのだろうか。規格外の阿呆であったのか。
 しばし考え、一つの考えが私の脳裏をよぎった。最初に牛の乳を飲んだ人間。最初の彼こそが、行動を起こす者ではないのか。
代わり映えのしない日常に嫌気が差しつつ行動を起こせない者を尻目に、次々と新しいものを発見していく者。彼がそれなのだ。
私は想像の彼に思いを馳せ、憧れを抱く。私にも出来るだろうか。彼のように、日常に変化をもたらすことが。
今日という日をただ過ぎるだけの時間で終わらせず、新しい何かの始まりとする事が。私にも出来るだろうか。
彼は運命のその日、何を思い、どう考え行動に移したのだろう。私などには想像もつかない強大な困難に、
勇気と共に立ち向かったのであろうか。いや、きっとそのようなものではない。彼にとってそれは何ということのない
日常の一コマだったのだ。何気ない行為が周囲に多大な変革をもたらす。天才というのはえてしてそういうものだ。
 彼はどのような人間であったのであろうか。私は偉大なる先駆者を心にイメージする。

52 名前:No.18 『ダイアモンド』(2/3)◇51rtpjrRzY[] 投稿日:07/02/18(日) 00:31:23 ID:tywl3YxX
「おっぱいが吸いたい。おっぱいにむしゃぶりつきたい」
 男は独りごちた。つもりだったが、周囲の人たちに聞こえたようで、怪訝な目を向けられた。
 この男、おっさんである。誰の目にも明らか、紛うことなきおっさんであった。吹く風に幾分の頭髪を持っていかれるような。
「俺はおっさんだ。おっさんである俺が、合法的におっぱいにむしゃぶりつくにはどうすればよいだろうか」
 男は考えていた。声が漏れ、あからさまに距離を取られるのも構わず。それだけ必死だったのだ。
家に帰りついても男は考え続けた。何故急にそんなことを考え始めたのか、その経緯は不明である。
いや、兼ねてより考えていたのが貯まりに貯まって、とうとうそれ以外のことが考えられなくなってしまったのかもしれない。
とにかく男は、それだけをただひたすらに考えていた。
「子供の頃はよかった。無条件でおっぱいが吸えた。おとなになるというのは斯くも悲しいことなのか」
 男には伴侶がいなかった。恋人と呼べる女性がいたわけでもない。母親はまだ健在であったが──
「いや、それはない。それだけはない」
 ──男は、誇り高い人間だった。
「しかしならばどうする。どうすればいい。……ええい! おっぱいにむしゃぶりつきたいのだ、俺は!」
 ダン、と強く床を殴りつけ、沈黙する。恐らくこのとき、男は世界の誰よりも真剣であった。
 結局答えの出せぬまま一日が終わろうという時間にまでなったが、男はどうしても納得出来ず、寝付くことも出来ない。
空が明るくなっても男の表情が晴れることはなく、食事も喉を通らなくなった。
それから三日三晩のあいだ、男は飲まず食わず眠らず外に出ず、ただおっぱいのことを考え続けた。
「いかん。死ぬ」
 ようやく男は自分の状態に危機を覚えたが、ここまで我慢しておっぱい以外のものを口に含む気にはならない。
取り敢えず外に出てみたが、その日は運がいいのか悪いのか快晴であり、家に引きこもっていた男には辛い日差しだった。
「めまいがする。腹がへった。喉がかわいた。……おっぱい……」
 おぼつかない足取りで、どこを目指すでもなくフラフラと男は歩き続ける。男に声をかけるものはいない。
いたところで無駄な話だ。男には既に会話をなすことすら難しかったのだから。
「……ああ、おっぱいが吸いたい。おっぱいにむしゃぶりつきたい」
 おっぱいが吸いたい。おっぱいが。おっぱい。……おっぱい。おっぱい。おっぱい!おっぱい!おっぱい!


「──あ、牛がいる」


53 名前:No.18 『ダイアモンド』(3/3)◇51rtpjrRzY[] 投稿日:07/02/18(日) 00:32:41 ID:tywl3YxX
 何ということだ。これではただの変態ではないか。私はイメージした男の姿をすぐに頭から消した。
例え一秒でもこのような存在が自分の脳内にあったかと考えると、思わず総毛立ってしまう。
 気を紛らわそうと再び仲間の方に目を向けると、人間は搾乳を終え、小屋へと帰っていくところだった。
しかし、始まりはともかく彼らは我々の乳を飲み続けている。牛の乳とはそんなにも美味しいものなのだろうか。
私も小さな頃に飲んだことがあるのだろうが、如何せん小さな頃は小さな頃。味まで覚えてはいない。
特に美味しかったというような記憶があるわけでもないのだが……。
何とはなしにそのまま彼女の方を見遣っていると、視線に気づいたのか、向こうから話しかけてきた。
「モォゥモ〜(訳:どうしたの?)」
「モゥモゥモォ〜ォモォゥ(訳:いや、牛の乳ってそんなに美味しかったかな、って)」
「モ〜モォモ〜(訳:さあ、どうだったかしら)」
「モ〜モ〜モォゥモ(訳:飲ませてくれる?)」
「……モゥ(訳:……もぅ)」
「モ゙〜ッホッホッホ(訳:冗談だよ、バーカ)」
「モォ〜!(訳:もぉ〜!)」
 ああ、楽しいな。こうやって彼女と他愛ない話をしているのは本当に楽しい。
意味があるとかないとかじゃなくて、ただ、楽しい。
「モ〜モゥモォ、モォモ(訳:そういえば、さっきは何を考えてたの?)」
「モモ(訳:さっきって?)」
「モォモモォ〜モゥ(訳:難しい顔してた)」
「モ(訳:ああ)」
 ──ああ、本当に。何を考えてたんだっけ。
「モォォモ〜(訳:忘れちゃったよ)」
「モモフモフ(訳:ふふ、おかしな牛ね)」

 暖かい牧場に優しい風が吹く。今日も、いい天気だ。




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