45 名前:No.16 風と雲と牛乳と(1/3)◇O8W1moEW.I[] 投稿日:07/02/17(土) 22:49:47 ID:yQf6fciz
――胸を揉むだけで銭を稼げる仕事を紹介する
横浜へ職を求めて数年前に旅立ったいとこの留吉の便りには、そう書かれていた。
普通ならこれはおかしいと勘付きそうなものだが、この便りの受取人である喜助という男は、そういう頭は働かぬらしい。
助平な妄想が疑いの心など全て打ち消してしまっている。ある意味幸せな男である。
便りを読むとすぐに旅支度を整え、下総の実家を飛び出して横浜へ向かってしまった。
喜助は足が速いだけがとりえの男だ。下総から横浜までは、道中平坦な道が続くこともあってか四日でたどり着いた。
だが、横浜に着いて早々、喜助はすぐに引き返したい気持ちに駆られた。
そこは、喜助がこれまで見たことの無い一種異様な場所だったからである。
まるで異国であった。
建物は見たこともない造りをしているし、道には金色の髪に青い目をした大男が闊歩している。
幼い時分、喜助は両親に連れられて横浜に来たことがあったが、そのわずかな記憶のどこを探してもこんな光景はなかった。
黒船来航からわずか十年足らずで、街は様変わりしていた。
巨人達に取って食われてしまうのではないかと、今にも脱兎の如く逃げ出したい気持ちの喜助だったが、その時耳慣れた声がした。
留吉である。留吉が、オランダ商館の門前から声をかけてきたのだ。喜助はほっと胸を撫で下ろした。
と同時に、またも頭の中に助平な妄想が去来した。ふっくらとした乳房が浮かんでは消えていく。
しかしふっくらと言っても、どうも感触が想像つかぬ。幼子の頃を除けば、喜助は女性の乳房に触れたことがない。
「よく来てくれたな、喜助」
「留吉さん、お久しぶりっす! あのう、フヒヒ、これこれ」
喜助は手をわしわしと嫌らしく動かす。早く仕事をさせろ、ということらしい。
「そう言うと思ったよ。さあ、準備はできている。こっちだ」
留吉は、商館の隅にポツリと建てられている小屋に喜助を案内した。入った途端、ワラと畜生の臭いがした。
そこには、裸の女の代わりに、十数頭の雌牛が飼われていた。
「あの、これってどういう……」
その場に泣き崩れた喜助を、留吉は小屋の裏の草むらに連れ出してなだめていた。
「すまんことをした。しかし、嘘は書いてなかったではないか」
「うるさい嘘つき野郎! 雌牛の胸揉んで何がしてえんだ、この変態!」
「それはもちろん、牛の乳を搾り取るに決まっている」
「搾り取って……それから?」
46 名前:No.16 風と雲と牛乳と(2/3)◇O8W1moEW.I[] 投稿日:07/02/17(土) 22:50:40 ID:yQf6fciz
「――飲む」
喜助はいよいよもう駄目だと思った。留吉はこっちに来て気がふれてしまった。
しかし、喜助がそう思ったのも無理はないであろう。なぜなら牛の乳は、この頃『白き血』と呼ばれ忌み嫌われていた。
その所以は仏教にあり、明治以前に牛を食する習慣がなかったように、牛の乳もせいぜい馬の治療用に使う程度であった。
それをまさか飲むなどとはもってのほかだったのである。
「……俺、もう帰るっす。おかしいっすよ、ありえないっすよ牛の乳なんて。罰当たりっすよ!」
留吉の制止も聞かず、喜助はその場から立ち上がってスタスタと歩き出した。
小屋の角を曲がろうとすると、向こう側からのそっと出てきた西洋人の大男に喜助は顔から激突した。
その見慣れぬ顔つきの大男に底知れぬ恐怖を感じた喜助は、思わずその場に土下座をしたが、
大男は優しく微笑むと「ゴメンナサイ」と片言の日本語で謝罪した。
「ハーイ、トメキチ。ミルククダサーイ」
その大男は、留吉のところへ牛の乳を求めてやってきたらしい。留吉は牛の乳を保管してある木の桶からひしゃくで茶碗一杯に運び入れた。
留吉はどうやらその男と顔馴染みのようで、簡単な日本語と身振り手振りで会話をしていた。
男は留吉に金を渡すと、グイッと一気に牛の乳を飲み干した。
「すげえ、飲んじまった……」
喜助はその場で繰り広げられている光景に、目を真ん丸にしてただただ唖然とするばかりであった。
大男が留吉に礼を言って戻っていくと、留吉はへたり込んでいる喜助に声を掛けた。
「こっちに来なさい。少し話をしないか」
「やっぱりあいつらは野蛮っすね。畜生の体から出てきたものを直接口にできるなんて。
体が化けもんみたいにでかいだけあって、頭も畜生に近いんでしょうかね」
留吉は、師が弟子に教えるかのように優しい口調で語った。
「そうじゃない。牛の乳を飲むことは、西洋の人間にとっては俺達が米を食うように、ごく当たり前にやっていることだ。
そうだ、西洋人があれだけ背の高い理由、教えてやろうか」
喜助は根っからの単純な男である。ほとんどの悩みなど浮かんでもすぐに忘れてしまうのだが、一つだけ、
この男が常に持ち続けている劣等感がある。背が低いことである。
「ぜ、ぜひ……!」
喜助は即答した。
47 名前:No.16 風と雲と牛乳と(3/3)◇O8W1moEW.I[] 投稿日:07/02/17(土) 22:52:36 ID:yQf6fciz
「ずばり、牛の乳だ。西洋医学では、牛の乳に骨を成長させる効果があることが証明されている。
これを幼き時分から飲んでいる西洋人なら、あれだけ体が大きくなるのも全ては必然であろう。
現に、俺もここで働くようになってから少し背が伸びたのだ。分からんか?」
喜助は留吉の体を舐めるように見回した。
「言われてみれば……そんな気もするような……」
「だろう? 俺は思うのだ。そう遠くない未来、日本人は皆牛の乳を飲むようになる。いや、飲まねばならん。
喜助、俺はこの横浜にいると、絶えず西洋の風を感じる。この風は今はこの場所にしか吹いていないが、やがては日本全土に吹き渡る。
風の流れに雲が逆らえぬように、この日本ももう後戻りはできんのだ」
留吉を始めとする横浜の人々は、朝廷や幕府よりもずっと敏感に、次の時代への展望が見えていた。
攘夷の名の下に、風に流れる雲を押し返すが如き無謀な足掻きをする他の藩を、彼らは冷ややかな目で見つめていた。
「真の西洋化とは、形だけのものではいかぬ。もっと根本的な、日本人の肉体そのものの改革こそが大事だ。
そして技術的にも肉体的にも西洋に追いついた時、はじめて欧米列強と刃を交える。これこそ俺の考える誠の攘夷だ。
そのためには牛の乳を飲む習慣を我々が身につけることこそ肝要であると俺は思っている。それが俺の願いだ。喜助、協力してはくれんか」
喜助には難しいことはよく分からない。京のほうで色々と騒ぎが起きていると耳にはするが、下総に暮らしていてはどうにも実感が湧かぬ。
だが、やはり喜助も男だ。心のどこかに身を立てたいという願望はある。しばらくは周りから白い目で見られることになろうとも、
もしそれで出世ができるのなら、この留吉と乳搾りに精を出すのも悪い話ではないかもしれぬ。
下総で一生うだつの上がらぬ百姓で過ごすよりずっといい。そしてなにより、背が欲しい。
留吉が搾りたての牛の乳を入れた茶碗を差し出すと、喜助はおそるおそるそれを口に運んだ。
その日から三年後、前田留吉は、横浜に日本最初の搾乳所を開設する。
北海道開拓とも時期が重なり、明治政府が畜産政策に大々的に乗り出すようになると、
牛乳をはじめとする乳製品は瞬く間に日本全土の家庭に広がった。
牛乳販売業者も各地で急増し、その中には留吉の下から独立した喜助もいたそうである。
この急速な牛乳普及の裏には、幕末の頃から将来を見据え、新しい文明に早くから理解を示した前田留吉の働きがあった。
そして太平洋戦争以後、ついに牛乳は学校給食に採用され、子供たちの昼食に欠かせないものとなっていった。
ちなみに、留吉の願いを知ってか知らずか、明治以降、日本人の平均身長は昭和の終わりまで年々伸び続けたそうである。
【終】