36 名前:No.13 牛乳を飲もう!(1/3) ◇7CpdS9YYiY[] 投稿日:07/02/17(土) 16:25:22 ID:vU1INAKQ
わたしの平穏な時間を破るのは、いつも伊佐子だ。
その日も、わたしが演劇部の部室で脚本書きに一人いそしんでいるなか、
「十和子!」
ずばんとドアが蹴り飛ばされ、腰まで届く黒髪を泳がせるセーラー服が飛び込んできた。
ドアノブが壊れてしまうのではという心配が脊椎反射的に浮かぶほどの騒々しさに、
ルーズリーフの上を走っていたシャーペンが予定の軌道を大きく外れる。ゼウスエクスマキナのマが長い尾を引いた。
呆気に取られるわたしの目の前で、伊佐子は手にしていたスーパーの袋をどっかと長机の上に置く。
「えっと……なに、これ?」
「牛乳!」
いちいち感嘆符をつけなければ喋れないのだろうか。しかしそれはそれとして、目の前にあるものは確かに牛乳である。
紙パック入り(一リットル)の牛乳が五本。白く透ける袋の中で、それらはきちんと整列していた。
「……なんで牛乳なんか部室に持ってきたの?」
メガネをちょっとずらして裸眼で伊佐子の顔をのぞき込むと、妖しく光る切れ長の眼が見返してきた。
「調理実習で余ったやつをもらったのよ」
「へえ。で、これどうするの」
「飲むのよ。あたしとあなたで」
「へ? わたしも?」
「いやいや、どっちつーかあなたに飲ませるために持ってきたのよ。
前々から思ってたんだけどね十和子ちゃん、あなたには背と胸が足りない。ちょっとはあたしを見習うといいわ」
……なんつー言い草だろうか。
そりゃわたしは背丈は小さいし幼児体型だし、未だにファミレスに私服で行くとゼリーをもらっちゃうくらいの
内心忸怩たるアレなのだが、それでも伊佐子と比べるのは少しばかり酷じゃなかろうか。
バレー部やバスケ部などのわたしにとってはおとぎ話の住人のような集団から熱烈な勧誘を受けるその伸びやかな肢体や、
F85とか正直笑っちゃうようなカップサイズの前には、大抵の女子高生は素直に敗北を認めざるを得ないだろう。
「いいこと、十和子ちゃん。ホルスタインがなんであんなに爆乳か分かるかしら?」
びし、とわたしの胸に指を突きつけ、続ける。
「仔牛の頃から牛乳を飲んでいるからよ!」
きっぱりと言い切った伊佐子に、一瞬返す言葉を忘れる。……なるほど、言われてみれば確かに一理ある──訳がない。
「その理屈でいくと、キリンと同じものを食べてれば首が伸びることになるけど」
わたしとしては極々真っ当なことを言ったつもりだが、伊佐子は会心の微笑でそれをスルーした。うわ、ずるい。
37 名前:No.13 牛乳を飲もう!(2/3) ◇7CpdS9YYiY[] 投稿日:07/02/17(土) 16:25:59 ID:vU1INAKQ
「まあいいからさ、ぐびぐびっと飲むのよ。そしてあたしに負けない巨乳になりなさい。あたしは揉み応えのあるおっぱいが好きよ」
「な、なに言ってんの、いきなり。ったくもう、飲めばいいのね? コップそっちにない?」
「なにを言うのよ十和子。そんなまだるっこしいことしないでラッパ飲みすればいいでしょう」
と、伊佐子は自分でも一本袋から取り出すと、器用にも片手で口を開く。
平行四辺形の注ぎ口に唇をつけると、伊佐子は一気に紙パックを傾けた。それはありえない角度だった。
こくこくこくこくと白くて細い喉が蠢き、一リットルもの牛乳が見るみる間に伊佐子の胃へ送られてゆく。
あれだけの速度や仰角にも関わらず、その口元からは一筋の牛乳も漏れていなかった。
「ふはっ。ごちそうさま」
コトン、と軽い音をたて、紙パックが長机に放り投げられる。
唇を拭う必要すらなく、伊佐子はおよそ完璧とも思える行儀の良さでそれを飲み終えてしまった。
ラッパ飲みが行儀良いのかどうかはこの際措いておく。
「さて、あなたの番よ、十和子」
わたしの番。率直に言って飲み乾せる気がしなかった。牛乳とは一日に二五〇ミリリットル飲めば十分なシロモノであり、
決して一本丸ごと飲むためのものではないのだから。何のために加熱殺菌や防腐処理が施されているのか。数日に分けて飲むためである。
「ねえ十和子ー、は・や・く〜」
しかしこんなに眼をきらきらさせている伊佐子を前に「わたしやっぱやだもーん」とか言えるほど肝が据わっているわけではない。
仕方がない。わたしは覚悟を決め、一リットルの牛乳に挑んだ。
まず最初に、あの独特の紙パックの味が口いっぱいに広がる。
かなり長い間、その味こそが牛乳の味だと思っていたのだが、まあそれは今は関係ないだろう。
わたしに言えることは、富岡副部長のクソガキもたまにはいいことを言うな、ということだけだ。
次に乳脂肪の味。なんとなく丸っこいイメージがする味だ。
牛乳が白く見えるのは乳脂肪のせいで、脱脂乳なんかは光にかざすとうっすら青いとか聞くけど、本当なのかしら。どうでもいいのかしら。
「ファイトッ十和子っ」
ふと現実に引き戻される。手に感じる重みで、まだ三分の一も減っていないことにがっかりする。
何秒くらい経ってるんだろうか。十秒くらい? 十秒で三分の一ということは時速に換算して、
えーと割り算のやり方を忘れてしまったぞ、いやいや違う秒速換算だ、一秒で三十分の一、およそ三十三シーシーか。合ってる?
「手が止まってるわよ」
さすがに苦しくなってきた。喉を通る生温い感触にうんざりする。やっと半分くらいだろうか。
いけない、長引けば長引くほど不利になる。雑念は捨てよう。今のわたしはマシーンだ。
牛乳を飲むただそれだけのために存在する鋼鉄の機械に徹しよう。
38 名前:No.13 牛乳を飲もう!(3/3) ◇7CpdS9YYiY[] 投稿日:07/02/17(土) 16:26:21 ID:vU1INAKQ
口の端から垂れる白い雫も、能天気な伊佐子の応援も、すべては遠い世界の出来事に──。
飲む、飲む飲む飲む飲む飲む飲む。
この一本を飲み終えたら、きっとわたしは伊佐子なんかまるで目じゃないスーパーバディの持ち主になる。
そしたら今まで散々わたしを弄んだ伊佐子を逆にからかってやるのだ、それはとても愉快な想像だったが
それすらも薄い膜を隔てた向こう側のような、おぼろげな感覚だった。
そうだ残り三本の牛乳は鍋で温めて飲もう。その時にできる膜はわたしが独り占めして絶対伊佐子にはあげないんだから。
まあ、どうしてもってお願いするのなら分けてあげてもいいのだけれど。
──腕が軽くなった。コトン、となにかが落ちる音がする。
「おー、おめでとう十和子。やるじゃない」
「あ、あれ?」
いつの間にか完飲していたらしい。
「しっかし、すごい有様ね」
言われて気が付く。口の周りはもちろんのこと、胸元までもがしっとりと濡れていた。
「拭いてあげるから動いたら駄目。まったく、子供みたいね」
伊佐子はくすくす笑いながら、ハンカチでわたしの首を拭う。文字通り目と鼻の先に伊佐子の顔があった。
伊佐子とわたしの視線が交差し、瞬間、伊佐子が首を伸ばす。
まるで小鳥がついばむように、伊佐子の柔らかい唇がわたしの首筋を這い、そしてわたしの口に覆いかぶさった。
しばらくして、伊佐子はゆっくりと顔を離す、
「牛乳の味がする」
しかしわたしは間抜けな仕草でこくんと頷くしかできなかった。その顔はきっと赤かっただろう。
「いいこと思いついたわ。イチゴ食べよう、イチゴ。十和子はイチゴミルク好き?」
その「いいこと」がなんかエッチな感じに聞こえて、わたしは返答に詰まる。
「あれ? 嫌い?」
「……す、好き」
わたしがやっとのことでそう言うと、伊佐子はにっこりと笑って立ち上がった。
「ちょっと待ってて。家庭科室の冷蔵庫にあったはずだからパチってくるわ」
足取り軽く部室を出て行く伊佐子を見送り、わたしはなんとなく溜息をつく。
書きかけの脚本を進めようとシャーペンを手に取るが、なにも浮かんでこなかった。
伊佐子についていって、先の牛乳を温めるというアイディアを実行すればよかったな、とだけ考えた。
机の上を見る。牛乳はまだ三本あった。