【 異国の月 】
◆59gFFi0qMc




106 名前:No.28 異国の月 (1/5) ◇59gFFi0qMc[] 投稿日:07/02/11(日) 23:54:46 ID:bq2pvqJO
 大きなヤシの幹にもたれかかり、胸ポケットから煙草入れを取り出した。
 蓋を開けるとあと二本。一本を口にくわえて火をつけた。吐き出す煙が、高い樹木から漏れる空を霞
ませた。
「負けたな」「負けたよ」
 周りから口々にそうつぶやくのが聞こえた。誰かの微かな嗚咽も耳に入る。
 俺が煙草をトントンと叩くと、先端の灰が一塊、足元に広がる艶やかな緑の葉の上に落ち、枯葉の混
じる地面へと砕け落ちていった。
「わざわざインドネシアまで来て、頑張ったんだがなぁ」力の抜けた調子で俺は言った。
「仕方がありませんよ。これからは日本へ戻って頑張りましょう」
 岡野さんが俺達の前に立ち、高い声で両手を伸ばしながら言った。
 彼女の腕に縫われた紅い十字は、緑と茶色の世界の中で、ひときわ浮き立って見えた。

 その夜、焚き火の向こうで橙色に染まる彼女は、漆黒の天に広がるような高音を響かせた。
『春高楼の 花の宴 巡る盃 かげさして 千代の松が枝 わけ出でし 昔の光 いまいずこ』
 終わった瞬間、一斉に雷鳴のような拍手が起こった。
「あは、どうも。久しぶりですね、歌うのは」
 彼女は笑顔で首筋に手を沿わせ、何度も何度も頭を下げながら地面へと腰を降ろした。彼女の頬が赤
いのは、焚き火の熱に当てられたせいだけでも無さそうだ。
「いやあーいい!あんた絶対に日本に戻ったら歌手になれよ!」
「俺、なんだか涙が出てきた……」
「岡野さんじゃなきゃな。それに比べて、軍曹殿が歌う荒城の月は酷かった」
 そんなに下手だったか? 子供の頃は民謡を習ってたんだが。俺は拍手をしながらも、少し首を傾げた。
 気を取り直して、焚き火の中から小枝で芋をひとつ転がした。皮のこげ具合が丁度いいようだ。
「おうし、現地人から貰った芋で乾杯だ。皆、そろそろいい具合だから取れ」
 そう言うと、めいめいが焚き火へ小枝を差し込み始めた。
 タロイモだから甘藷のように甘い訳ではない。だが、補給などというものが皆無の今となっては、現
地人の好意だけが食に関して頼みの綱なのだ。
「人のつながりというのは大事ですね」通信兵が木々から漏れる星を見上げた。「現地人は、我々が戦
争に負けたことを知っているのに、今でも自分達に笑顔で手を振ってくれますよ」

107 名前:No.28 異国の月 (2/5) ◇59gFFi0qMc[] 投稿日:07/02/11(日) 23:55:09 ID:bq2pvqJO
「軍曹殿、一度塹壕と土嚢を見直しませんか?」
 部下の一人にそう言われ、ふむ、と俺は辺りを見回した。
 只でさえ粗末な密林防衛陣地の塹壕が、少し崩れつつある。それ以外にも防衛上まずい部分がいくつ
か目に付く。これは、彼が進言してくるのも納得がいく。
 俺達がここへ上陸した直後こそ、激しい戦闘を繰り広げたが、その後は銃声が響くことが無かった。
戦闘から遠ざかっていたこともあって、油断していたのだろう。この辺は反省せねばなるまい。
「そうだな。後で使う者の為にも、きちんとしておこう」
「了解。それでは、施設の再点検を致します」
 敬礼、そして回れ右で部下は俺の前から去っていった。
「ヘータイさん」
 岡野さんとは違う、幼い高い声が俺の後ろで呼びかける。いつも聞くその声に俺は振り返った。
「お、ミーちゃんにヤムさんか」
 そこには、小さく青い葉で包まれたものを持つ、おかっぱ頭の浅黒い女の子と、大きな袋状の荷物を
背負った、ひときわ背が高くて天然パーマの男が立っていた。
「軍曹殿、お世話です」
 中途半端な日本語でそう言い、背中の荷物を降ろして袋の口を開いた。俺は覗き込んでから、思わず
声を上げた。
「おお、凄いな。鶏かぁ」
 彼らが住む村の雑用を手伝ううちに、こうして時々食料を分けてもらえるようになって随分経つ。我
々は軍隊、戦争のために必要な作業を一通りこなすことも仕事のうちなので、農地開拓や村の道路建設
などはお手の物だ。
 続いて、ミーちゃんが小さな手で葉を開くと、こげ茶色の塊が顔を覗かせた。
「黒砂糖じゃねぇか!」
 俺は狂喜した。こんなもの、彼等の村でも貴重だというのに。
「日本兵、日本へ帰るか」
 ヤムさんが首を横に振りながら言った。
 そうか、知っているのか。だから彼らにも貴重な、鶏や黒砂糖なのだな。
 俺は背筋を伸ばし、真っ直ぐ彼らを見つめてから口を開いた。
「明後日の午後、引き上げ船が、すぐそこの砂浜にある岸壁へ来る。自分達はそれで引き上げる」
 彼等に農林水産指導、日本語教育、衛生看護、軍隊教育等を行ってきた日本人は、既に引き上げている。

108 名前:No.28 異国の月 (3/5) ◇59gFFi0qMc[] 投稿日:07/02/11(日) 23:56:39 ID:bq2pvqJO
 俺達守備隊が最後の日本人なのだ。
「オランダ、もう来た。日本兵、守ってくれないのか?」
「すまない」俺は深々と頭を下げた。
 俺達がここから追い出したオランダは、再び植民地化を狙って、今、侵攻しているのだ。三百年以上、
過酷な植民地支配を行っていた奴等が再び甘い汁を吸いに。しかも数万の兵力で相当な重装備だ。それ
に比べて我が守備隊は二十四人、これと現地人の村民とを合わせたところで焼け石に水だ。
 そもそも、俺達もここを植民地にしようと占領したのだ。オランダのことを偉そうに言えない。
「オトウサン、つよい。オトウサン、オランダ、やっつける」
 ミーちゃんが子供特有の笑顔でそう言った。
 俺は、ゆっくりとしゃがみこんで、ぐっと顔を近づけた。
「そうだ、ミーちゃんのお父さんは強い。オランダなんて逃げていくよ」
 俺はそう答えた。作り笑いが見抜かれないよう、祈りながら。

 俺が鶏と黒砂糖を両脇に抱える姿を見かけた守備隊の連中は、一斉に万歳三唱を始めた。
 現金な奴等だ、ちゃんと村の人に感謝しろよ。
 その中で、くすんだ緑のワンピースで身を包んだ岡野さんだけが、浮かない顔をしているのが目についた。
「どうした?」
 俺は彼女へ声をかけた。
「軍曹殿、私、ここに残ってはいけませんか?」
 何を言っている、と一笑に付そうとしたが、彼女の表情から伝わる感情が、それを押しとどめた。
「事情を話せ。判断はそれからだ」
 俺がそう言うと、彼女はぽつりぽつりと語り始めた。
 オランダ軍の一部が既に上陸を開始し、ゲリラとして志願した村人のうち、負傷したものが毎日のよ
うに村へ送り返されているのだそうだ。彼女は今まで、一般的な傷病の治療をするために毎日、村まで
足を運んでいたのだが、最近は戦傷者が爆発的に増え、このまま自分が離れると、次々と患者が死んで
いくだろうというのだ。
「患者ある限り、看護婦は患者から離れる訳には参りません」
 口を一文字に結び、彼女はそう言った。
「日本へ帰るんだ。それ以外の選択肢はお前に無い」
 俺は冷たく言い切った。俺は彼女の命も預かっているのだ。いまや、日本赤十字社看護婦へ命令する

109 名前:No.28 異国の月 (4/5) ◇59gFFi0qMc[] 投稿日:07/02/11(日) 23:57:00 ID:bq2pvqJO
権限なぞ無いのだが、彼女にも家族はいる。今になって彼女の身に何かあれば、俺はどうすればいいのだ。

 引き上げ船が着岸したその日、俺は船の甲板で全員を集めた。彼等それぞれの足元に荷物は手荷物とい
う表現がぴったりな程に小さい。装備を持たない兵隊というのは、これほど少ない荷物で日々の生活を送
れるものなのかと改めて思う。
「番号!」「1!」「2!」「3!」……
 俺は、整列した兵隊と岡本さんが加わる列をゆっくりと眺めてから口を開いた。
「もう俺達は兵隊じゃないから堅苦しいことは抜きだ、階級も無いから敬語も必要ない。これから数十日
の船旅になるが、各自健康には留意し、ゆっくりと休息を取るように」
 お決まりのような言葉を簡単に終えた俺は、舳先近くの手すりにもたれかかり、さっきまで俺達の居た
ジャングルを眺めた。
「潜んでいた時はそうでも無かったが、こうして見ると広いもんだな」
 煙草を吸いたいところだが、ずっと前に切らしたままだった。それでも右手が自然に胸元を探る仕草が
自分でも可笑しい。
 船の振動が一段と大きくなった。下方からは大きく低い水音が響く。いよいよ出航か。
 その時、後方で一斉に叫び声が上がった。
 俺が駆けて行くと、そこにはさっき点呼を取った兵隊全員が、口々に何かを叫びながら一方向を指差している。
「どうした?」「岡本さんが、岡本さんが、飛び込みました!」
 何だと?
 俺は、身を乗り出して船縁から真下を覗き込んだ。すると、水面には緑色の布が広がり、その中心で頭
と手を振り回す彼女の姿があった。
 誰かが赤と白の救命浮き輪を投げ込むと、彼女はそれにしがみついた。
 俺は足から飛び込んだ。錐のように一旦海中へ突き刺さり、ゆっくりと水面まで顔を浮かび上げた。
 彼女は、やっと命を取り戻した浮き輪の上で、顔を伏せたままじっとしている。
「おい、何を無茶やってんだ」
 立ち泳ぎで少し苦しい中、声を搾り出した。すると彼女は、俺を睨みつけてきた。
「私、戻ります! 村の人たちを放っておけません!」
 濡れた髪を振り乱し、半狂乱になって叫んだ。
 少しずつ、俺達が船から離れていくのに気が付いた。潮で流されているのか?と思ったが、俺の位置は
岸壁と比べても変わっていない。つまり、船が動き始めたのだ。

110 名前:No.28 異国の月 (5/5) ◇59gFFi0qMc[] 投稿日:07/02/11(日) 23:59:43 ID:bq2pvqJO
 空全体から爆音が響き始めた。空を見上げると、小さな飛行機が目に止まった。戦闘機か、それとも雷撃
機かは分からないが、恐らく、オランダ軍が船の動向を見張っているのだろう。
 俺は、甲板でオロオロする部下達に素早く敬礼をしてから、彼女と一緒に船から遠ざかるよう、泳ぎ始めた。

 なんとか砂浜まで泳ぎ着いた俺と彼女は、その場で倒れ込んだ。
 俺はそのまま顔を横向けにして、少しずつ小さくなる船を眺めた。上空では忌まわしいオランダ軍が哨戒を
続けている。これでは、船が俺達の方へ戻ることは出来ない。
 目の前の砂が急に黒くなった。顔を起こすと、そこには例のヤムさんとミーちゃん、それに近くの村の若い
連中が、俺達が残置してきた歩兵銃を手にし、影を落としていた。
「日本兵、戦うか?」
 ヤムさんが、歩兵銃を縦にして、俺の目の前に突き出した。
 だが、俺は半身を起してから、それをゆっくりと手で払った。
「お前達は間違っている」彼等が受けた短い間の日本語教育でも分かるよう、ゆっくりと、はっきりとした声で
言った。「誰の戦争だ? 日本の戦争じゃない、インドネシアの戦争だ」
 銃の操作音があちこちで響いた。
 だが、俺はその圧力を完璧に無視した。
 貴様等に俺というものを教えてやる。
「俺が指揮を執る、指揮官に銃は不要だ。第一、お前達は戦争を知らないだろ?」
 彼等はお互いの顔を見合わせ始めた。
「俺のせいでお前達が死んだら、俺もインドネシア人として一緒に死んでやる!」
 自分でも怒りに震えているのが分かる、だが、誰に怒りを燃やしているのかは、自分でも分からない。

 その夜、岡本さんは、村人の前で荒城の月を歌おうとしたが、俺が強制的にやめさせた。
 インドネシア独立の願掛けとして、インドネシア国歌が出来上がるまで、彼女には歌わないようにお願い
をしたのだ。
 いつか歌えるその時まで、俺は戦い、彼女は人々の治療を続けようとお互いに誓い合って。

――完




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