【 聴覚版プルースト効果 】
◆mJQBnN/BeU




64 名前:No.17 「聴覚版プルースト効果」(1/4) ◇mJQBnN/BeU[] 投稿日:07/02/11(日) 21:34:26 ID:bq2pvqJO
 雲ひとつない青空が広がり、澄んだ空気には春の湿気がわずかに混じり始めている。
 吹き巻く風は梳かすように髪の隙間を抜けていく。優しく弄られる草がウェーブを描き、所々
に色づいた気の早い花は波間に揺れる小船のようだ。
 聞こえるのは風のざわめきと、時折それを切り裂く鳶の鳴き声のみ。踏みしめる細かい石の下、
陽光に照らされた土の温かさが足の裏に沁みてくる。この丘は、遠くに見える山並みの深緑より
も幾分柔らかい緑に包まれている。
 丘を覆う草原に通る一本の登り小径。スコットは稜線を目指してゆっくりと歩を進めた。
 一歩ごとに汗ばんでくる体は、単純に気温と運動だけによるものではないだろう。約束の場所
はこの丘の上。そこに待つ人を思い浮かべるたび、期待と緊張とで心拍が騒ぐ。
 この場所も何ヶ月ぶりだろう。久しく目の当たりにしていない季節の移ろい、中でも殊更優し
く包むヴェールのような春の気配が、以前は当たり前に感じていたものだと思い出し、戻った
平和に安堵のため息が漏れる。
 近づいてくる頂上。稜線と同じ位置に見えていた青空は、もうこんなに遠く離れている。ああ、
会ったらまず何と言おう。
 辿り着いた丘の上には、ちっぽけな草原とただ一本立ち尽くす大樹。根元にある古ぼけたベン
チはささくれだち、ペンキは剥げてまるで樹の幹と同化しているよう。全て記憶のままの姿だ。
 そしてベンチに座る人影。手元の分厚い本に目を落とし、まだこちらには気づいていない。
 紛れもない彼女の面影。少し痩せたろうか。あと、髪がずいぶん伸びている。小首を傾げ、耳
にかかる髪をかきあげるという本を読むときの癖は変わらないまま、挙動は前よりどこか大人び
ていた。
 ざく、少し大きな足音。彼女が顔を上げる。
 こちらを確認すると、呆けたような表情で立ち上がる。彼女の顔から笑みがこぼれかけ、次い
で表情が歪む。みるみる目尻に涙が溜まり、頬を伝って零れ落ちた。
「メアリー……」
 こちらも目頭が熱くなるのを抑えられず、気取られないように急いで駆け寄り、彼女を抱きす
くめた。彼女の腕もスコットの胴に回る。
「帰ってきた……よかった……」
 胸に押し付けられた口から、くぐもった声が漏れる。腕に感じる久しぶりの温かさに、しばし
声も出せなかった。


65 名前:No.17 「聴覚版プルースト効果」(2/4) ◇mJQBnN/BeU[] 投稿日:07/02/11(日) 21:35:06 ID:bq2pvqJO
 頭上の葉が風に煽られるたび、木漏れ日が水面の煌きのように揺れる。狭いベンチに、二人は
肩を抱き合って座っていた。
 さわさわと揺れる草の音。もう少し暖かくなれば花も咲き乱れ昆虫も飛び回るようになり、完
全に春を彩りを呈すことになるだろう。
 この場所で二人の間に流れる穏やかな空気は、何も変わってはいないという確信を得る。
「町も、大変だったみたいだね」
「そうね、やっぱり辛い目にあうのは弱い人ばかり」
 メアリーは地主層の娘。一般労働層の家に生まれたスコットとの交際は方々からの反対を受け、
それゆえに人目につかないこの丘で落ち合うことを日課としていた。
 戦争が始まっても彼女の生活に不便は出なかっただろうが、それでも飢えや戦火に苦しむ人々
をその目でたくさん見てきたのだろう、最近の生活を思い出すときの表情は暗く沈んでいた。
 眼下には二人の育った町並みが見下ろせる。戦争が始まる前には、多くの人が行き交い、店は
威勢のよい声で客を惹きつけ、家々の窓に干された洗濯物が生活観を振りまくような活気のある
町だった。
 それが今では徴兵と疎開で多くの人々が町を去り、窓を閉め切った建物と、空襲か暴動か、打
ち壊され煙を上げる寂れた家並みが見えるだけ。戦禍の爪あとが、瓦礫の山となってそこら中に
生々しく残っていた。
「そうだな。これからは、僕達の手で復興させなくちゃならない」
 そして、こんどはあの町で、堂々と彼女と……。
「でも、本当によかった。あなたが帰って来てくれて」
 彼女の悲しそうな声が胸に響く。戦場へ行ったことはやむを得ぬことだったとはいえ、スコッ
トの心はちくりと痛んだ。
「当たり前じゃないか。君が待っているんだもの。絶対に帰ってくるよ」
 彼女を安心させる精一杯の言葉を紡ぎ出す。同じことを発つ前にも言ったが、そのときは絶望
の中で祈りの言葉のようにつぶやいたはずだ。だが今、この言葉はもう気休めでも嘘でもない。
「もう戦いは終わったんだ。これからはずっと一緒にいられるよ」
 彼女を真っ直ぐに見つめ、はっきりと口に出す。
「嬉しい……」
 潤んだメアリーの瞳に笑みが宿り、我慢できずにもう一度強く抱きしめた。


66 名前:No.17 「聴覚版プルースト効果」(3/4) ◇mJQBnN/BeU[] 投稿日:07/02/11(日) 21:35:33 ID:bq2pvqJO
 どれくらいそこにいただろうか。
 語るべきことも語り尽くし、二人とも言葉少なに座っていた。これからいくらでも話す時間は
あるという安心感と昼下がりの気だるい空気が相まって、スコットのまぶたは下がってくる。
「スコット、眠いの?」
「あ、いや」
 心を見透かされたような気分になり、しどろもどろになる。
「ふふっ、どうぞ」
 いたずらっぽく微笑み、メアリーが自分の膝を叩く。ここに頭を乗せろ、というサインか。
「それは、ちょっと恥ずかしいなぁ」
「なあに言ってんの。前はやってくれやってくれってうるさかったのに」
「それは言わないでくれよ、それじゃあ失礼して」
 はみ出す足を折り曲げ、スコットはメアリーの膝を枕にベンチに横になった。
 柔らかい感触。彼女の髪が揺れ、甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「なあ、前みたいに歌ってくれよ」
 唐突に蘇る記憶。メアリーは町でも有名な歌い手で、よくこの場所でスコットのためだけのリ
サイタルを開いてくれた。
「えぇ? うーん。久しぶりで恥ずかしいけど、いいよ」
 メアリーが喉を整え、目線を上に向ける。歌うときに見せる遠くを見るような表情。前と変わ
らないようでもあり、前よりも少し強い意志が宿っているようでもあった。
 紡ぎ出される賛美歌「主よ御共に近づかん」。
 伸びのあるソプラノが響き渡り、正確なリズムと快い抑揚が全身を包み込む。
 歌声が、耳ではなく心に沁みてくる。巻いていた風が止んだ。風の神様も聴き惚れているのだ
ろうか。
 心地よい眠気。体の力が抜け、だんだん意識が朦朧としてくる。もうまぶたを開いていられな
い。フェードアウトしていく彼女の声を少しもったいないと思いながら、この心地よさに抗うこ
となく身を任せた。
 なぜか一粒、涙が頬を流れた。

67 名前:No.17 「聴覚版プルースト効果」(4/4) ◇mJQBnN/BeU[] 投稿日:07/02/11(日) 21:36:02 ID:bq2pvqJO
「ちぇっ、今日も振られちまったか」
「そりゃそうさ、あんな美人がお前のことなんか相手にするわけないだろ」
 談笑しながら軍病院の廊下を歩く医療班の二人。
 戦争が終結し、目の回るような忙しさも一段落着いた昼下がり。行き交う人々にもゆとりと笑
顔が戻り始めている。彼らも早春の陽気に誘われ外で昼食を食べた帰りだ。
「しっかしメアリーさんは身持ち固いよな。それに金持ちなのに孤児院で仕事なんかして、天使
みたいな女だよな」
「そういやあ、彼女は恋人の帰りを待ってるって噂もあるぜ」
「なんだそりゃ。そんな男がいんのか。絞め殺してやりてぇもんだなぁ」
 笑い合いながら、担当の病室に戻る。友人とのこんな時間も久しく持てなかった。
 扉を開けると、中から流れてくるノイズ交じりの「主よ御共に近づかん」。歌手の高い声が特
に割れて響く。
「いけね。ラジオ消し忘れてた」
 急いでラジカセに向かい、電源ボタンを押す。
 患者が起きてしまってはいないかと一瞬見回し、この部屋にいる6人は全員、目を覚ましてく
れることを期待して病院に入れられた連中だということを思い出し苦笑した。
 と、医療班の一人が異変に気づいた。
「あ……おい」
「どうした」
 気づいた方が一番端のベッドに横たわる男を指差す。窓からの眩い陽光に照らされ、男の顔は
酷く真っ白だった。
 医療班はその男のまぶたを開き、ライトを当てて瞳孔の収縮を確認する。そしてもう一人の方
を向き、首を横に振った。また一人。国を守った勇敢な兵士が逝ったのだ。
「まあ、内臓が大方損傷してたからな。よく頑張った方だよ」
 このやりきれなさにも、随分と慣れた。精一杯の哀悼の意をこめ、男の顔に優しく白い布をか
ける。時刻をメモし、センターに報告しなければならない。
「スコット・パーカー。12時40分。死亡確認」
 遺体の顔にかけられた布。頬の部分が少し湿っていた。 fin




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