【 魅惑の後姿 】
◆22yk8GNPtM




42 名前:No.12 魅惑の後姿 (1/5) ◇22yk8GNPtM[] 投稿日:07/02/11(日) 17:45:18 ID:IAaxD8zE
 口から漏れた息が、白いモヤになって広がり、消えていった。
 寒さに身を震わせて、俺はジャンパーのジッパーを少しだけあげた。暖冬といわれてい
るらしいが、俺に言わせたら冬は冬。寒いことに変わりはなかった。
 会社帰りのサラリーマンやOLたち、高校生やその他大勢の人々がごったがえしている駅
前。車のエンジン音と人々のざわめきの中で、俺は一人横断歩道の上の歩道橋でギター片
手に腰を下ろしていた。
 ギターを持ち直し、目の前の楽譜をめくる。その時、視線を足元に置かれているギター
ケースへ送った。千円札が数枚と小銭が疎らに入ってある。いつもに比べたら、まあ多い
ほうだろう。
 楽譜の位置を調整して、俺はギターの弦に指をかけた。
 チラっと周りに目を向ける。
 歩道橋の上を歩く人々は、誰一人立ち止まることなく通り過ぎていく。みんな早く家に
帰りたいのだろう。俺だって、こんな寒い日は早く家に帰ってあったかい炬燵に足を突っ
込みたいと思う。
 けど、そこを何とか足を止めて聞いて言ってくださいよ、皆さん。
 そんなお願い事を心の中で呟きつつ、俺は演奏を始めた。
 何度も練習した曲だから、指は滑らかに弦の上を走る。目の前に置かれた楽譜はほとん
ど飾りだった。この曲は、俺がストリートライブを始めた頃からずっと歌い続けている曲
で、俺は目をつむったままでも弾くことが出来る。
 およそ四分半。ミスなしの完璧な演奏が終わったとき、俺の背中には僅かに汗が滲んで
いた。
 ぱちぱちぱち……
 突然の拍手に、俺は一瞬何が起こったのか把握できなかった。見ると、目の前に一人の
中年のおっさんが立っていた。
「いい曲だったよ」
 おっさんはそう言うと、コートのポケットから財布を取り出し、千円札をギターケース
の中に放り込んだ。
 そこでようやく、俺は自分の歌が褒められたのだということに気付き、戸惑いながらも
頭を下げた。
「あ、どうも。ありがとうございます……」

43 名前:No.12 魅惑の後姿 (2/5) ◇22yk8GNPtM[] 投稿日:07/02/11(日) 17:45:42 ID:IAaxD8zE
「歌詞が良かったよ。なんというか、今の僕にぴったりな歌詞だった感じがする」
「は、はぁ……」
 もう一年近くここで歌ってきたが、こうやって直に話してきて、しかも曲が良かったと
言ってくれたのは、このおっさんが初めてだった。だから、俺はちょっとどう反応したら
いいのか困ってしまった。
 と、そこで視界の隅に白い何かが映った。
「おや? 雪か」
 おっさんが空を見上げながら呟いた。つられて俺も空を見上げてみると、確かに灰色の
空からは疎らだけれど雪が降りてきていた。雪はゆらゆらと揺れながら徐々に地面に近づ
いてきて、楽譜の上に落ちた。その場で雪は溶け、紙でできた楽譜に薄黒い染みが出来上
がる。
 もう一度空を見ると、徐々にだが雪の降る量は多くなってきているようだった。今日は
この辺で終わりにしとくか。
 俺は雪でギターが濡れてしまわないように、急いでギターケースにしまいこんだ。楽譜
も全て片付け、さっさとこの場を後にしようとした。
「おや、今日はもう終わりなのかい?」
 おっさんが残念そうに問いかけてきた。
「あ、はい。雪が、ちょっと強くなりそうなんで、今日はこれで終わりにします」
「それは残念だ。できれば、さっきの歌について色々と話し合いたかったんだが」
「話し合う……?」
「あぁ、あの曲の歌詞について、感想とかをね。近くにおいしいラーメン屋がある。僕が
おごるから、どうだい?」

 俺はおっさんの申し出を受け入れることにした。何故かというと、おっさんが俺の曲を
褒めてくれたからだ。俺の歌が良いと言ってくれたのは、友達とかを除いた一般の人では
このおっさんが始めてだったのだ。だから、俺は正直かなり嬉しかった。一時はめげそう
になったプロへの道だが、少し希望の光が差し込んだような気がしたんだ。
 おっさんの名前は種田吉郎というらしい。今年で五十二歳になる普通のサラリーマンだ
った。

44 名前:No.12 魅惑の後姿 (3/5) ◇22yk8GNPtM[] 投稿日:07/02/11(日) 17:46:05 ID:IAaxD8zE
 種田さんの連れて行ってくれたラーメン屋で、俺たち二人はカウンター席に座りそれぞ
れ一杯ずつラーメンを注文した。注文を聞いて店の人が厨房へ入ると、種田さんはさっそ
くさっきの歌について訊いてきた。
「さっきの歌、歌詞を書いたものはあるのかい?」
 俺は「はい」と返事をして、楽譜を取り出した。種田さんはそれを受け取り、熱心に歌
詞を目で追った。そして一通り見終えると、俺のほうを見て言ってきた。
「なるほどね。この歌詞は、単に『夢を諦めるな』と言っているわけではないんだな」
「は、はい。そうです」
 種田さんに渡した楽曲の歌詞。それに書かれている内容は簡単に言うと、夢と現実の二
つの選択肢を迫られたときどうすればいいか、その考えが書かれている。どうやら種田さ
んはその内容に共感してくれたようだった。
「夢を諦めるなではなく、夢は実現するに決まっていると考えろ、か。この考え方は、君
独自の考え方かい?」
「いえ。それは、俺が大学のときの友達の言葉をもとにしてるんです」
「ほぅ……是非聞かせてくれないか?」
 言われて、俺は当時の、俺が大学で就職活動をするか歌手の道を選ぶべきか悩んでいた
ときの話をすることにした。

 当時、俺は大学四回生で就職活動真っ最中だった。本来なら『どこの企業に就職したい
か』などを決めていなければならなかったのだが、子供の頃からの『歌手になりたい』と
いう夢がどうしても捨てきれずにいた俺は、どちらを選ぶべきか迷っていたのだ。
 夢は確かに成功したときの喜びは桁外れに大きいが、失敗したときは取り返しがつかな
くなってしまう可能性がある。対して現実は、失敗の可能性は夢に比べれば非常に小さい。
 成功すれば輝かしい未来が待っている夢か、安定してはいるがありふれた普通の現実か。
この二つの選択で俺は悩んでいた。
 そんな俺に、友達の一人が言った。
『夢か現実かを選ぶときに、夢を実現させるはずの本人が失敗したときのことを考えてど
うする。そもそも夢の失敗を前提に入れることが間違ってる。夢は百パーセント実現する
と考えれば、選択で悩むことなんてないんだから』

45 名前:No.12 魅惑の後姿 (4/5) ◇22yk8GNPtM[] 投稿日:07/02/11(日) 17:46:29 ID:IAaxD8zE
「失敗を恐れるな。ってことか?」
「いえ、それよりももっと強い考え方ですよ。『失敗を恐れるな』ってのは、実は裏では
失敗の可能性を肯定していますよね。だから、そのままだと選択で迷ってしまう。けどこ
の考え方は、夢は百パーセント成功するって考えるんだから、失敗はそもそもないんです
よ」
 そこで出来上がったラーメンが二人の前に並べられた。醤油スープのいい香りが鼻腔に
入ってきて、口の中で唾液が滲み出た。俺と種田さんは、割り箸を手に取りラーメンを食
べ始めた。いい感じの歯ごたえの麺に、濃厚な醤油スープが上手く絡まって絶妙の味を演
出している。これはかなり美味しいな。
 最初の一口を飲み込んだ種田さんは、くるりとこちらを振り向いた。
「なるほど。失敗を条件にいれなければ、選択肢は『確定された輝かしい未来』と、『普
通の平凡な未来』とになるわけか。確かに、それなら誰もが『輝かしい未来』を選択する。
そもそも選択肢としてあげることもバカらしい選択になるわけか」
「そういうことです。その言葉を聞いて、俺はこっちの道を進む決心ができたんです」
 ずるずると二人してラーメンをすする。
「しかし、それは悪い言い方をすると、『妄信』していることにならないかな?」
「それくらい貪欲じゃないと、夢は叶えられませんよ」
「なるほど……」
 種田さんは何か納得したようにうなずいた。
「種田さんは……なにかの選択で迷っているんですか?」
 さっきから抱いていた疑問を、俺はぶつけてみることにした。この歌詞に、こんなにも
興味を持ったのだから、種田さん自身現在何か選択を迫られているのかもしれない。俺は
そう考えていた。
 種田さんは、少し複雑な表情を見せると、苦笑いを浮かべながら話した。
「いやぁ……まぁ、迷っているといえば、迷っているかな」
 これまでの種田さんのしゃべり方にはない、歯切れの悪さが感じられた。あまり人には
言いたくないようなものなのだろうか?
「ずっと悩んでいたんだよな。君の話に置き換えて言うと、夢の方の選択肢がとても魅力
的なんだ。けど、その反面リスクが非常にでかい。で、今まではそのリスクの大きさのせ
いでどうしても行動ができずにいたんだが……」

46 名前:No.12 魅惑の後姿 (5/5) ◇22yk8GNPtM[] 投稿日:07/02/11(日) 17:46:51 ID:IAaxD8zE
 スープを一口すすり、
「今日の君の話を聞いたら、なんだか夢の方の選択肢を実行してみようかなと思えてきた
よ」
 俺の歌詞が、種田さんの心を動かしたということだろうか。だとしたら、こんなに嬉し
いことはない。俺は内心踊りたくなるような気持ちでいたが、それを押し殺してあくまで
冷静にこたえた。
「ありがとうございます。そう言ってくれると、とても嬉しいです」
「いや、感謝をしたいのはこちらのほうだよ。本当に、ありがとう」
 種田さんはそう言って手を差し出してきた。俺はそれを握り返すと、種田さんはさらに
両手で俺の手を強く握ってきた。
 熱い気持ちを胸に、俺と種田さんは強く、強く握手を交わした。







 二日後。
 某ニュース番組にて。
「九日午後七時ごろ○○県××市の住宅街で、通勤帰り途中の女性会社員(27)が突然
現れた男に襲われるという事件がありました。男は女性に性的暴行を加えた後逃走しまし
たが、たまたま現場に居合わせた男性二人に取り押さえられ、駆けつけた警察官によって
現行犯逮捕されました。婦女暴行の容疑で現行犯逮捕されたのは、近くに住む会社員、種
田吉郎容疑者(52)で、調べによると種田容疑者は犯行を認めているということです――」


おわり




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