16 名前:No.06 遠い歌声(1/3) ◇BsiDcPBmpY [] 投稿日:07/02/10(土) 23:19:00 ID:JdNtvfuI
秋の青空に映える、散り散りの白雲。穏やかに吹く風が、歩道のイチョウ並木を鮮やかに揺ら
せていた。食わえていた煙草を右手に持ち、目を閉じて大きく息を吸い込む。身体全体を巡る、
秋の匂い。中秋の昼間の住宅街は、どの季節よりものんびりとした空気が漂う。通りには人っ
こ一人おらず、車さえ走っていない。とても静かだ。
歩いていると、ふと聞き覚えのある歌声が耳をかすめる。
パッヘルベルのカノン。
それを元にした合唱曲だったように記憶している。
周囲を見回すと、住宅の軒並みの背後に、のっそりと白い校舎が顔を出していた。中学校だろ
うか。
男声と女声の入り混じった、あまり上手いとは言えない合唱。けれど、メロディをなぞる形で
その歌詞は脳裏にはっきりと浮かび上がる。“遠い日の歌”、だ。合唱コンクールか何かある
のだろう。
雑で、バラバラで、ヘタクソで。けれど、真っ直ぐで、一生懸命だ。それはここで歌の切れは
しを拾っているだけでも伝わってくる。
合唱コンクール、か。
ふと呼び起こされた記憶を辿っていると、吹く風がほんの少し、冷たく感じた。
17 名前:No.07 遠い歌声(2/3) ◇BsiDcPBmpY [] 投稿日:07/02/10(土) 23:19:23 ID:JdNtvfuI
中学三年生、受験真っ只中。学年全体に、緊張感が漂い始めた頃だった。
「かったりい」
隣に立っている級友が、ぼそりと呟く。その周囲の男子達は、それに同意するようにそれぞれ
に溜め息をついた。
「ちゃんと歌って下さい!」
指揮者に立候補した女の子が、顔を真っ赤にしてヒステリックに叫ぶ。女子の集団から、クス
クスとその様子を笑う声が聞こえる。
僕は、そんな冷めた嘲りの中でただ黙って立っていた。
指揮者の女の子は端から見ていても滑稽だった。彼女の指揮は、指揮というよりは単に棒を
乱雑に振り回しているだけだったし、そもそも立候補が内申点稼ぎなのは周知の事実だった。
僕が黙っていたのは、ピアノに向かっている長谷川の背中が震えていることに気付いたからだ。
幼い頃にピアノをやっていたというだけで、長谷川はこの伴奏を押し付けられていた。
その役を決定した学級会が終わった日、たまたま放課後に音楽室の前を通りかかった僕は、彼
女が独りでピアノに向かい、伴奏の練習しているのを目にする。
18 名前:No.06 遠い歌声(3/3) ◇BsiDcPBmpY [] 投稿日:07/02/10(土) 23:19:49 ID:JdNtvfuI
「頑張ってるね」
僕が廊下側の開いた窓から声をかけると、長谷川は驚いた顔でこちらを向いた。
「……疲れた」
哀しそうな顔で、長谷川は呟く。譜面をたたみ、鍵盤の蓋を閉じて、彼女は続ける。
「みんな、無責任だよ。本気で歌う気なんてないくせにさ、嫌なことは人に押し付けて」
「そんなことないよ」
僕は、思わずそう言った。夕焼けに照らされた長谷川の物憂気な表情が、僕にそう言わせたの
だ。そして彼女が続けた言葉に、軽々しい発言を後悔することになる。
「じゃあ、あなたは真面目に歌ってくれる?」
有名なカノンのフレーズを越え、混声の澄んだ和音で曲は終わりを迎えた。そして住宅街に静
寂が戻って来る。
視線を通りに戻す。
色付いたイチョウの葉は風に踊り、歩道を彩る。
それを中心に揺れ動く景色は、黙して季節を語り。
遠い歌声は風紋のように心を震わせ、時間の隙間を埋める。想いを伴って。
悔いても戻らない時間。
それを想った時、僕はもう昔には戻れないことを悟った。
それは何かの例えでもなんでもなく、しっかりと手に取れる事実として。
―了―