84 :No.20 残像 (1/5) ◇dx10HbTEQg:07/02/04 23:18:31 ID:YvSIN2jt
今日、兄貴が嫁さんを連れてくるという。まだ大学生だっていうのにな。
いいなあ。幸せなんだろうなあ。俺の目から見ても兄貴はかっこいい。俺みたいな最低な男とは違って。
本人は確か義理堅い人間になるのが目標だって言っていた。それが具体的にどんなものなのかは分からないけれど、多分成功してるんだと思う。
いいなあ、結婚か――。
思いを馳せていたら、一瞬でも早く忘れ去りたい記憶が甦った。
最低な俺の、最悪な出来事。あの時を最後に、俺は恋愛をしていない。
妊娠、したんだけど。
寒空の下の公園。学校帰りの夕暮れ時は、いつも二人の貸切となっている。小さくて遊具もほとんどないから、子供のための公園としての機能はほとんど果たさない。
だからこそ、そこは俺にとって真希との絶好のデートスポットだった。付き合い始めて四年経った今でも、それは変わらない。
寄り添い合って、幸せを全身で感じながら彼女を見ると、やっぱり幸せそうに微笑んでいるから嬉しくなっていた。過去形。
緊張した面持ちで告げられた一言に、俺は固まった。にんしん? え? なんだそれ。ニシン? それは魚だ。あれ、何の話だっけ。そうだ、にんしん。にんしん。
…………妊娠?
優しげに下腹部を擦りながら、真希ははにかんで頬を赤らめている。
何週間目だとか、性別の希望だとか、名前だとか、九月だとか。九月に? 産むって? は?
避妊したのにね、と真希が苦笑する。そうだ、避妊したはずだ。中出ししてはいない。そうだよ、そうそう。
学校は辞めなきゃならないね、との言葉に俺の何かが弾けた。
「え、待てよ、おい、だって。お、堕ろすんじゃないのか?」
ひゅ、と真希が小さく息を呑んだ。ひゅ、と真希の手が空を切る。
ぱちんと軽い音の後、小さな熱が、頬を撫でる風の下で疼いた。
「堕ろすって! 私と正紀の子供だよっ?」
その裏返った声に、我に返った。
そっか。俺の子供なんだ。美希は俺の子供を身ごもったんだ。
涙目で去っていった背中の残像を眺めながら、俺はぐるぐるとした思考を収めようと必死になっていた。
だって、妊娠ってことは。産むってことは。俺の子を産むってことは。結論。おめでとう、俺は父親になります。うっそぉん。
あ、そっか。嘘か。美希は嘘ついたんだ。だってほら、避妊ちゃんとしたよ、俺。本当だって。でもなんで嘘付く必要が?
あの様子は、産む気満々だった。なんかアパート借りたいねとか言ってたような。二人暮しか。ちょっと憧れるよな、そういう生活。
85 :No.20 残像 (2/5) ◇dx10HbTEQg:07/02/04 23:18:51 ID:YvSIN2jt
なるほど。学校辞めて、働いて金稼いで、子供育てて。なるほど。なるほど?
いやいやいやいや無理無理無理無理。俺も美希もまだ高校生。無理。無理絶対。冗談はよし子さん。誰。
堕ろさせるべきだろ、普通に。だってさ、無理だぜ。無理。本当に無理。なんであんなに張り切っちゃってたわけ? 意味ぷー太郎。誰。
ぱかぱかぱかぱか。無意味に携帯を開けたり閉じたり、電話帳を眺めたりしてみる。
親? 嫌だ。気まずい。
友達? 問題外。噂が広がったら死ねる。
ぱかぱかぱかぱか。この音、軽快で結構好き。なんか落ち着いて来た気がする。
よし。
「もしもし。ああ、兄貴? 俺だけど」
大学へ行くために上京した兄。頼れるのはこいつだけだと、その場で電話をかけた。幼馴染の美希のことは、兄貴も知っている。
あのさ、俺、彼女妊娠させちゃって。子供育てるとか無理だから堕胎させたいんだけどどうすればいい? ――ってなんだこの人でなし! 俺か! 俺だ!
電話越しに、兄貴が色々喋ってた。お前から電話なんて珍しいな。そうだね。何か用でもあるのか。そうだよ。
ああ、もう黙ってたって仕方ない。腹を括って自供した。ついでに首も括って自爆したい。ばっこーん。
「……彼女が、妊娠したって。それで、だから、あのさ」
どうすればいいでしょうか、お兄様。どうかご教授お願いイタシマスデス。
いやーな沈黙が流れた。いやーな気分だ。
「で、何?」
あああ、なんていやーな返答。そうか。これが実の兄弟から軽蔑されるという状況か。そうか。うん。
自分でもいやーな弟だって自覚はあるから、仕方ないんだけどさ。とりあえず、がんばって考えを伝えてみる。
堕胎させるべきだよな。だって無理だもん。避妊はした。でも無理だったっぽい。
なんだか話していたらちょっと気分が楽になった。全然状況は楽になってないんだけどな。
「彼女は産みたいって?」
「……うん」
でも、無理だ。無理に決まっている。そのことは兄貴だって分かってるはず。俺はただの高校生で、彼女もただの高校生。経済的にも世間的にもどうにもならない。
なにより、覚悟がないのだ。
父親になるだなんて。それも、九月に? アホか。無理、無理。無理。とにかく無理。つまり無理。すなわち無理。
「ふーん。で、義理は果たしたのか?」
「義理? ……ああ。えっと、だから、それは中絶費用出すから、それで」
「そうじゃなくってさ」
86 :No.20 残像 (3/5) ◇dx10HbTEQg:07/02/04 23:19:12 ID:YvSIN2jt
お前の言ってるのは義務だ、と兄貴はほざいた。なんだ、それ。義務と義理って違うのか?
「なんていうか、ほら。男としての義理。彼氏としてのっていうか、まあどっちでもいいや。それ、果たしたのか?」
なんだよそれ、産ませろってことか? 産んだら子供が現れるんだぜ? ペットじゃない。自我とか持っちゃってる。なのに一人じゃ何にも出来ない赤ん坊だ。
種植え付けたのは俺だからさ、手術費は出すさ。どれくらいするんだか知らないけど、二万くらいならすぐ出せる。
俺は別に逃げる気なんてない。そんな卑怯な真似するほど落ちぶれちゃいないさ。なのに、なんで兄貴はそんなに冷たい。妊娠させたから?
「まあいいけどさ」
そのどこか投げやりな言葉が、何に対して発せられたのかは分からなかった。堕胎させることに対して? それとも、義理とかいうものに対して?
分からなかったけれど、聞き質す勇気は俺にはなかった。
俺の心は、完全に美希に堕胎させるということで決着していた。
問題は彼女への説得だ。俺と彼女双方の両親に言うべきだろうかと悩んだが、結局やめた。
これはまず俺たちの間でどうにかしなければならないと思ったし――先送りに、したかった。
「おっはよー」
学校の門を潜ると、そこは別世界でした。あれ、なんかピンク色してる。空気が。
なんだか可愛らしい包み紙を、女の子が男に渡して、って、そっか。バレンタインデーだ。
俺の気も知らないで浮かれやがって。ちくしょう。
去年はでっかい美希からのチョコレートを、友人に見せびらかして惚気てたのになあ。なんという落差。
鬱々としながら教室の扉を開くと、すでに美希はいた。俺の友人に、義理チョコを渡している。包装紙の真ん中には大きく書いた“義理”の文字。
俺を嫉妬させないようにとの配慮だってことは、いつのバレンタインデーに聞いたんだっけか。
「あ、正紀おはよ」
普段通りの美希に、ちょっと怖気づいた。昨日堕ろせって言ったことは、彼女の中でどうなってるんだろうか。気にしてないわけ、ないよなあ。
手提げ袋を持って駆け寄る美希の肩に手を置き、耳元で囁いた。ちょっと屋上に。
屋上には、数組の男女がいた。皆して頬を上気させて、あらまあ嬉しそうに笑っちゃってこんちくしょう死ね。
小声で話せば大丈夫だろうと、俺は切り出した。どうせみんな自分の世界に入りこんでいて、他人なんて見ちゃいねえさ。
「あのさ、単刀直入に、言う。堕ろして欲しい」
「……正紀? でも、でもさ」
87 :No.20 残像 (4/5) ◇dx10HbTEQg:07/02/04 23:19:40 ID:YvSIN2jt
「ごめん。あの、でも、無理だろ? 本当にごめん。金とか、学校とか、世間体とか、そういうのあるだろ。だから、その、ごめん」
最初は美希の顔を見ていたはずなのに、俺の視線は地面にあった。頭が上げられない。彼女の表情が見れない。見たくない。
「あんた、何言ってるか分かってんの?」
「分かってる。ごめん」
「分かってない! 正紀、殺すの? 殺すの? 殺すってことなんだよ? 分かってないよ」
「おい美希……」
声、大きい。ちらりと一組のカップルが俺たちの方を見た。誰にも知られたくないのに。
そう窘めると、美希はぶわっと音が出るんじゃないかというくらいに涙をこぼした。心が揺らぐが、でも父親なんて無理。
いつまでたっても訂正しない俺を美希が睨みつける。でもさ、あの。無理なんだってば。
「馬鹿!」
そして、昨日と同じパターン。走り去る彼女を追えないままに、俺は背中の残像をボンヤリと眺めた。
教室に美希は戻っていなかった。下駄箱に残っているのは上靴。多分、あの公園にいるんだろう。
美希と顔をあわせる勇気もなく、でも授業を受ける気分にもならず、俺は家に帰った。
親は両方とも仕事でいないし、ゲームでもやろう。現実逃避。いやもう現実とか投棄したい。不法投棄、でも犯人は分からないので市町村で処理します。ラッキー。
なんかもう頭の中がぐるぐるごちゃごちゃでぐらぐらしてると、もっと不可思議な物体と遭遇した。正確には有機物。つまり生物。種族は人類。
……なんで兄貴が?
「お、おはよ? あ、あれ。なんで? 大学は?」
「おはようじゃねえ愚弟。お前こそ学校サボりやがって」
殴られた。いってえ。超いってえ。文句を言おうと口を開いたが、兄貴の眼差しに射抜かれて、言葉は何も出てこなかった。
あ、そっか。昨日電話したからか。俺のため、か。
なんだかんだ言って兄貴って優しいんだよなあと思いつつ、そう告げるとまた殴られた。
「自惚れんなボケ。美希ちゃんのためだ」
それに、お前じゃ義理は果たせないんだろうし。
付け加えられた一言に、心の中で反発する。だからなんだよその義理って。
気まずすぎて俯いてると、はーっと長いため息が降ってきた。美希ちゃんの居場所は? 多分公園。
玄関で直立不動の俺を押しやって、兄貴が外に出た。どこに行くんだよ? 公園。
「愚弟の行いを謝って、慰めて、話してくる」
88 :No.20 残像 (5/5) ◇dx10HbTEQg:07/02/04 23:20:05 ID:YvSIN2jt
それがまあ、兄貴としての義理ってやつさ。
付け加えられた一言に、やっぱり心の中で反発した。だからなんなんだっての、その義理ってやつは。
……何時間だろうか。兄貴が戻ってくるまで、俺はその場を動けずに玄関にしゃがみこんでいた。
ごめん、美希。ごめん。でもさ、無理なんだって。本当に、無理だって。冷静に考えれば分かる。絶対無理。ごめん。ごめんなさい。
「これ」
だから、頭に硬いものが当たったのにも最初は気付かなかった。いや、気付いてはいたのだけれど現実の出来事として把握できなかった。
蹴り飛ばされて、一回転して靴箱に激突したら、頭上に兄貴の顔があった。
手には、可愛い箱が一つ。包装紙の真ん中に、大きく書いた“義理”の文字。
「美希ちゃんから」
中身は多分、本命として用意されていたはずのハート型のチョコレート。
その文字の下に、黒のマジックでぐしゃぐしゃに潰された言葉が見えた。最初はラメ入りの赤で書かれていたために、判別はついた。
“ずっとずっと愛しているよダーリン”
ダーリンとか今時寒いんだよ馬鹿。本当に馬鹿だ。
黒く塗りつぶされた、更に下に小さく書かれていたものを見て、俺は頭を抱えた。馬鹿は俺だ。本当に馬鹿だ。
“さよなら”
ああ、さよなら。
結局、兄貴の帰省によって美希の妊娠は双方の両親にバレた。
土下座ばっかした。美希の両親には怒鳴られながら土下座して、俺の両親には中絶費用を貸してくれと土下座した。
でも、美希には土下座しなかった。会ってくれなかったし、会う意気地もなかった。
だから、全部兄貴が取り持ってくれたように思う。美希への何もかもを、兄貴に任せてしまった。
それから美希がどうなったかは知らない。誰も知らせてくれなかったし、聞く意気地もなかった。
そして今日、その兄貴が嫁さんを連れてくるという。俺の義理の姉になる女性だ。
すでに妊娠しているというから、出来ちゃった結婚というやつか。やるなあ、兄貴。
秋の紅葉を窓の外に見ながら、俺はぼんやりと過ぎ去った日々の残像を眺めていた。
<どっとはらい>