82 :No.19 栗色の恋心 (1/2) ◇2LnoVeLzqY:07/02/04 23:12:43 ID:YvSIN2jt
原田家はみんな、こいつのことをマロンと呼んでいた。鮮やかな栗色の毛が、こいつの特徴だったから。
マロンはノラ猫だった。オスで、若くて、やんちゃなやつだった。
ノラのくせにやたらと綺麗な毛並み。人懐っこいことこの上ない性格。だからこいつが原田家のハートを射止めたのも、当然というべきなのかもしれない。
ふらりと現れては家族の誰かにミルクをもらう。それが、マロンと原田家の普段の関係なのだった。
そんな中でも、とりわけ美紀は、この栗色のノラ猫をとても気に入っていた。
幼稚園から帰ってくると、彼女は玄関先で名前を呼んだ。「マロン!」。すると美紀の目の前には、必ずマロンが現れた。
美紀は力いっぱいマロンを抱きしめる。マロンは心底嬉しそうに、ごろごろと喉を鳴らすのだった。
マロンを語るおれの口調が全て過去形なのには理由がある。そしてその理由は、おれの目の前にあるお墓が物語っている。
お墓というには少し物寂しい、土が盛られ木の棒が立っているだけのその場所の下には、マロンが永遠に眠っている。
マロンは過去の猫だ。五年も昔に、死んでしまった猫なのだ。
少しだけ盛り上がった土の上に、おれは花を置く。
一本、二本、三本と、黄色い花を置く。けれど本当は、栗色の花を置いてやりたいのだ。
マロンは美紀に恋をしていたようだった。
猫から人間への恋愛感情、それも片思い。
本来ならばありえない。おれだってありえないと思った。けれどあいつは、ありえない猫だったのだ。
美紀が呼べばマロンは必ず目の前に現れたけど、どうして必ず現れるのか、美紀自身は疑問に思ったことなどないだろう。
だけどノラ猫が、幼稚園児の声の届く範囲にいつもいるなんてありえるか?
……あいつは毎日、美紀が帰ってくるのを玄関の傍の草むらの中でじっと待っていたのだ。
そして名前を呼ばれると、何気ない顔をして美紀の前に現れてみせるのだ。
その度に美紀はマロンを抱きしめ、マロンはごろごろと嬉しそうに喉を鳴らすのだ。
じゃあマロンは、抱きしめてもらうために毎日待っていたのだろうか。
それは違う。あいつはありえない猫なのだ。あいつは、美紀の姿を見ればそれだけで幸せだったのだ。
毎朝、美紀が幼稚園のお迎えバスに乗る時すら、マロンは草むらの中から嬉しそうに、じっとそれを見ていた。
いったい何のために? おれにはわからない。けれどそれが、あいつなりの恋だったのだろう。
83 :No.19 栗色の恋心 (2/2) ◇2LnoVeLzqY:07/02/04 23:13:46 ID:YvSIN2jt
その日もマロンは玄関の傍の草むらの中で、美紀の帰りを待っていた。
幼稚園のお迎えのバスが来て、美紀が降りて、マロンは草むらの中で、嬉しそうな顔をした。
だけど美紀は、マロンを呼ばなかった。
バスが走り去った道路の上に、きらりと光る何かがあった。美紀はそれに近づくと、マロンに背を向けてしゃがみこんで、その何かをじっと見つめだしたのだ。
向こうから走ってくる車があるなんて、ちっとも気付かずに。
おれとマロンは同時に気がついた。だけど離れたところにいたおれには、どうすることもできなかった。
車のスピードは全然落ちない。美紀は光る何かに夢中だ。
マロンは迷わなかった。草むらから道路へ飛び出し、背中を向けている美紀のすぐ後ろで、全身の毛を逆立てて、あらん限りの力で鳴いた。
その大声は、家の窓ガラスが震えるほどだ。
美紀はびっくりして、道路の向こう側へと跳ねるように逃げた。
そのときマロンはきっと、心の底から安堵の表情を浮かべたんじゃないかと思う。おれの場所からは、マロンの表情が、最後まで見えなかったけど。
マロンがいるまさにその場所を、車が、スピードを落とさずに走り抜けた。
原田家のみんなによって、マロンは家の庭に埋められた。あれから五年だ。
はじめのうちは毎日のように泣いていた美紀も、数ヶ月もすればマロンのことは綺麗に忘れてしまったようだった。
月日は流れ、美紀は小学校に入学し、道に落ちている何かに目を惹かれることもなくなった。
だけどおれだけは、マロンを忘れない。毎年マロンが死んだ日には、あいつの墓に花を手向ける。
命を賭けて人を助け、助けた人に忘れられたあいつを、おれが忘れたら、一体誰が思い出すんだ?
あいつは本当のところ、美紀に花を手向けてほしいはずなのだ。だけどそれは叶わぬ願いなのだ。美紀の記憶の中には、もうマロンはいないのだ。
だからおれが、美紀に代わって花を手向ける。少し不満かもしれないけれど、勘弁してほしい。
あいつの唯一の友達、名もなきノラ猫のおれにできるのは、それだけなのだから。