【 夕立 】
◆D8MoDpzBRE




18 :No.5 夕立 (1/5) ◇D8MoDpzBRE:07/02/04 00:26:40 ID:U4UVSXof
 高三の冬休みは長い。
 僕の通う某全寮制男子校では、冬休みは受験対策期間と位置づけられ、十二月の中旬には学校での授業
が打ち切られる。決して楽しい冬休みが待っているわけではない。大手予備校での講義を受けるよう教師陣か
らしつこく勧められ、ほとんどの生徒は最後の追い込みに賭ける。僕とて例外ではなかった。
 この頃には周りの連中はこぞって目の色を変えていて、誰々と一緒に何々の講習を受ける、だの甘ったれた
ことを口走れるような雰囲気はなく、隣の級友の顔色をうかがうことすら憚られるような気がしたから、僕は僕
で僕に合った僕なりの日程を組んで講習に臨んだ。周りには知り合いも連れ合いもいない。大人数がすし詰め
にされた中での孤独な講習の日々は、土日祝日を問わず一月の下旬まで続いた。
 二月に入り、僕は都内にある寮から荷物を引き揚げ、長野県にある実家へ久し振りに里帰りすることになっ
た。両親の迎えの車に乗って、中央道を北へ北へと向かう。周囲の景色がだんだんに、雪の白を帯びて行く
のが分かった。
「あともう少しだから、わき目も振らずにがんばりなさい」
 実家に到着し、居間に上がるなり、母から分かり切ったアドバイスを貰った。僕は適当に相づちを合わせる
と、早くもこたつの中で丸くなる。猫のような幸せも捨てたもんじゃないな、と心の中で呟いた。
 二月の上旬から中旬にかけて、私立大学の入試が行われる。僕は、私大二校と国立大二校に願書を出し
ていた。私大を受けるときは、二泊三日くらいの日程で都内の安ホテルに宿泊して受験した。それ以外の時
期は、ひたすらこたつの中でだらだらと勉強するのが日課になっていた。

19 :No.5 夕立 (2/5) ◇D8MoDpzBRE:07/02/04 00:26:59 ID:U4UVSXof
「今日はお父さんもお母さんも遅くなるから、近所でお食事を済ませなさい」
 既に日は暮れ、夕食を今か今かと待ちかまえていた僕に、母から携帯メールが届いた。
 空腹感と相まって、やるせない落胆が胃の底にもたれかかる。悪いことに、家の中の何処を探しても非常食
となりうるものを見つけることが出来なかった。例えカップラーメンであったとしても、この日は御馳走たり得た
だろうに。
 やむなく、僕は近所に出かけることにした。厚手のコートの下に、セーターを二枚着込んで。
 寒空に広がる星の群れが凍てつく氷の破片のように瞬き、地上に向かって絶対零度の冷気を振りまいてい
る。昼間にはうっすらと溶け出していたであろう雪が再び凍結し、暗闇に包まれた足下を一層おぼつかないも
のにしていた。田舎の夜は果てしなく暗い。
 最寄りのコンビニまで徒歩十五分。都内では考えられないキャッチフレーズだ。僕は、おでんや肉まんから
立ち上る湯気を想像しながら、渋る自分の体に言い聞かせるようにして歩いた。
 コンビニの手前に一つ踏切があり、そのすぐ脇には小さな無人駅がある。電車が一時間に一本程度しか通
らない、寂れた単線の停車駅だ。小さな灯りがホームの上を遠慮がちに照らしている。照明を絞った舞台演
劇の、ワンシーンみたいな光景だった。
 僕がその舞台に上ったのは、ちょっとした好奇心からだ。舞台袖からスポットライトを向けられることもなく、
薄暗い駅のホームの上をゆっくり歩いた。
 屋根がついた一角の隅に、待合室がある。中は薄暗くてよく見えないが、人の気配がした。暖房がたかれて
いる様子もなく寒そうではあったが、何とはなしに僕はその待合室の中に足を踏み入れた。
 中は、外に比べてほんの僅かだけ暖かかった。広さは二畳分に満たない、狭い待合室だった。だから、中
にいたのが女子学生らしいことに気づいたときには、危うく心臓が止まりかけた。女性、それは全寮制の男子
校で、三年間絶ってきたもの。未知との遭遇と言っても大袈裟ではなかった。
 グレーのコートに白いマフラー。真冬でも生足にスカートというのは都内でも田舎でも変わらない、普遍的な
取り決めなのだろうか。その娘はベンチに座って膝掛けをしていたので、スカートの丈を窺い知ることは出来
なかった。
 僕の視線が注がれていることに気づいたのだろうか、その女の子は控えめに咳払いをし、体の方向を僕か
らやや背けた。呼吸の仕方まで、息を潜めるように静かになる。何となく気まずくなって、僕もその娘が座って
いるベンチの逆端に腰掛けた。
 何となく部屋を出て行くタイミングを失った。相変わらず、部屋の向こう隅に座っているその娘はそっぽを向
いている。白い頬の一部だけが肩越しに見える。僕は、頭の中で雪見だいふくを思い出していた。
 氷点下の相部屋。時間も空気も凍り付いたように動かない。底冷えした体の芯が、焦れてくる。

20 :No.5 夕立 (3/5) ◇D8MoDpzBRE:07/02/04 00:27:27 ID:U4UVSXof
「寒いですね」
 僕の口から、無意識のうちにその言葉が出た。独り言にしては大きすぎる声。その娘が、ぎょっとした目で
こちらを向いた。表情からは嫌悪も歓喜も読み取れない。僕は、少し後悔し始めていた。
 女の子が、視線を手荷物のカバンに向けた。カバンの脇ポケットに手を突っ込み、一つ小さな包みを取り
だす。簡易ながら、包装されているようでもあった。
「これ、あげます」
 少しくぐもった声だった。その娘が僕に向かって、タバコの箱くらいの小さな包みを差し出している。思わず、
僕はそれを両手を伸ばして受け取った。耳の裏が、少し暖かくなった。
「ありがとう」
「これ、クラスで配った義理チョコの余りなんです」
 遠くの方から、電車が近づいてくる音がして、次いで近くの踏切が警告音を発し始めた。
「ごめんなさい、余計なこと言って」
「いいんだよ、ありがとう」
 電車の前照灯が待合室の中をほの明るく照らし出す。その一瞬、その娘の顔が鮮明に映し出され、辺り
は少し白飛びした写真のような雰囲気になった。
 僕はベンチから立ち上がり、待合室の外に出た。目の前で電車がゆっくりと速度を落として停車する。続
いて、プシュとガスが抜けるような音がして、車両の扉のロックが外された。
 僕は、到着した電車に乗り込んだ。しかし、女の子はついてこなかった。なぜ乗らないのだろう。僕が振り
返ると、その娘はまだ待合室のベンチに座っていた。うつむいたまま、まるでこちらに視線を合わせようとし
ない。長い髪で顔を隠すように、ただうなだれているだけだった。
 無情にも扉が閉まり、電車が走り出した。明るい車内に目が慣らされて、暗い待合室の中を見通すことが
出来ない。電車はなおも速度を上げ、無人駅が背後に遠ざかっていく。
 手元の包みを眺める。薄グリーンの包装紙に包まれ、重さは携帯電話より少し軽い。この場で開封するに
は気が引けたので、僕はそれをコートのポケットに突っ込んだ。
 しばらくして、電車がその場で一旦停車した。車内放送が、逆方面への電車とすれ違うことを告げる。
 思い出した。この路線は単線だから、これからすれ違う電車も先ほどのホームに停車するのだ。あの娘は、
僕とは逆方面へ向かうのだろう。
 さっきの娘の顔が、網膜に焼き付いていた。

21 :No.5 夕立 (4/5) ◇D8MoDpzBRE:07/02/04 00:27:45 ID:U4UVSXof
 大学受験を無事に乗り切り、僕は春から都内の私立大学へ進学することになった。
 僕の新居は大通りに面した安下宿に決まった。部屋からの眺望は向かいの高層マンションにさえぎられ、
夜になると表通りの喧噪が住む者に不眠の弊害をもたらすために、ここは貧乏学生の吹きだまりになってい
た。隣人が麻雀に打ち興じる音も、階上の住人がセックスをしたがために生じる軋みも、生活音の一部として
受け入れなければならない。
 大学生活という、キャンパスライフともいうらしいが、とにかくその新しい環境の中で、僕は数多くの付き合い
の浅い友人に恵まれた。
 毎日が砂のように流れていく。
 都会の夏がアスファルトを溶かすような熱気を帯びるようになった頃、僕は夏休みを利用して実家に帰省す
ることにした。
 長期休み前の最後の講義が終わり、新宿の高速バス乗り場へと向かう。高層ビル群の谷間をうねる熱風
が、新宿駅西口の雑踏を行き交う歩行者から生気を奪う。僕は、砂漠から逃げ出す難民だ。
 クーラーでキンキンに冷えたバスの車内で、僕はようやく安堵のため息をつく。しばらくしてバスが発車する
頃には、僕は浅い眠りに落ちていた。夢の中で再生される冬の光景。網膜の中であの日の残像が、鮮烈な
イメージとなって甦る。気まずい時間も耳の裏の熱も、眠りの中で繰り返される。
 僕が目を覚ました時、バスは夕暮れの山道をひた走っていた。肌に感じるのは冬の冷気ではなく冷房の風。
窓の外は相変わらずの夏盛りで、緑映える山の連なりがどこまでも続いていた。

 僕の実家は眺望のいい丘の上に建つ一軒家だから、部屋の窓からは盆地の底に広がる市内を一望でき
る。入道雲が空に伸びても、南アルプスの連峰に阻まれるため、我々の住む地域まで近づいてくるのをあま
り見ない。快晴の日など、空に見えるのが太陽と飛行機雲だけだったりして、案外空ってのも近いんじゃない
かと錯覚する。
 家でダラダラ過ごすのもやはり退屈だ。セミの鳴き声は嫌に耳につくのに、肝心のセミの姿そのものを見な
くなったのはいつ頃からだっけ、と思う。
 近所を散歩することが日課になった。多い日は一日三回ほど、小高い丘を降りて踏切を渡り、コンビニの角
から続く田んぼ道をひたすら進んだ。

22 :No.5 夕立 (5/5) ◇D8MoDpzBRE:07/02/04 00:28:06 ID:U4UVSXof
 期待していたのかも知れない。いや、きっと期待していたのだろう。半年前のあの出来事が、また僕の身に
起こらないかと。あの日貰った義理チョコは、その日の内に平らげた。何となく悔しかったからである。夏まで
取っておいたら、間違いなく部屋の隅で溶けてしまっていただろう。
 来る日も来る日も若い女性を見つけては注視する僕を見て、周りの人は気味悪がったかも知れない。僕は
僕で、何を馬鹿なことをしているんだろうという思いが消えなかった。
 なのに、件の駅のホームに立っているあの娘を再び見つけたとき、話しかけようという衝動をどうすることも
出来なかった。セミの声がうだる暑さをかき立てる、夏のとある午後のことだった。
 スモークピンクのキャミソールに身を包んだその娘は、ゆらゆら揺れる木の葉越しに見ただけで分かった。
下はそよ風に軽くなびく白のフレアスカート。陽炎が立ち上る景色の中で、凛とその存在感を示している。動
悸が止まらなかった。
 ホームへと続く階段に足をかける。人生最大の大舞台へ上っているような気分だ。まだ僕は、人が愛しい
だとか恋の酸い甘いだとかも知らないけれど、この気持ちだけは本物だ。
 段差を登り切ると、すぐ目の先にあの娘が立っていた。網膜に、脳裏に刻み込んだ記憶と寸分違わない。
ただ季節だけが違う。忘れられなかった。
 目が合う。必死で目をそらさない。少し、僕の表情は強ばっていたかも知れない。
 彼女が、微笑んだ。
 気づいてくれた……? 僕も、微笑み返して、やあ、と手を挙げようとした。
 しかし彼女は、僕の横をすり抜けた。
 釣られて僕も振り返る。そこには、日に焼けて体格のいい男と談笑する彼女の姿が見えた。
 男と目が合う前に、僕は元の方向へ向き直った。
「知ってる人?」
「ううん、知らない」
 背中越しに、そう聞こえたような気もする。分からないし、分かりたくもなかった。ただ、その場から逃げるよ
うに、ホームの向こう端へ早足で歩いた。
 目の前には、うずたかく天へと背を伸ばした入道雲がそびえ立っていた。青い空を押しやるように白く輝い
て、近づいてくるようにも見える。
 太陽が隠され、緑を基調とした明るい原色の光景が、薄灰色のトーンに覆われた。
 風の匂いが夕立の予兆を運ぶ。次第に、遠くの方からサーっと葉を叩く雨音が聞こえてきた。
 僕は、駅のホームに立ち尽くしていた。屋根の下に隠れようなどとも考えなかった。ただ、激しい雨に打た
れたら、きっと気持ちがいいだろうなと思った。                    <了>



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