【 はっぴゃくそう 】
◆bvsM5fWeV.




946 名前:はっぴゃくそう(1-5) ◆bvsM5fWeV. 投稿日:2007/01/28(日) 23:43:05.35 ID:VOQFBl2A0
 腕の筋が張り腰は曲がり、行灯のほの明かりの下、疲労した眼は木版を注視する。
がり、がりり。一文字彫るごとに得られる達成感を推進力に喜兵衛は木版を彫る。
平時は彫る文字に頓着しない喜兵衛である。だが――これは、これはやりすぎではないか。雑念がよぎる。
 障子の戸がすっ、と開く。「喜兵衛、終わったか」と抑揚のない声。喜兵衛の雇い主、荒田である。
 「へい、後は日付と印を入れるだけっす。ですが荒田さん、やっぱこれ『うそ、大げさ、紛らわしい』ってやつじゃないすかね?」
 「いや、それでいいのだ。お前は黙って彫ればいい」
 「ですがこれは餓鬼の戯言、可愛い嘘の類じゃありませんよ。どっちかつうと詐欺みたいな犯罪寄りの嘘じゃないすかね」
 「だからそれでいいのだ。これはお上、いやお得意さんからの仕事だ」
 荒田は嗤った。
 何かを知っている。喜兵衛の経験則がそう告げる。
 歌川さんの絵を流行らせた荒田さんと言えど、そればっかりはどうかと思いますがね、とは言い止めた。
喜兵衛は以前も荒田に疑問を投げかけたが、その時も返答は同じである。「お前は黙って彫ってればいい」
果たして広重の絵は流行り、喜兵衛はこうして雨風をしのぎ糊口をしのいでいる。表向きにも裏向きにも、素晴らしい雇い主である。
それでも口の減らない男が喜兵衛である。
 「それにしても何を企んでるか教えてくれてもいいじゃないですか。組織なんだから意思の疎通はしたほうがいい感じに事が運ぶ的な感じしません? 歌川さんの時も何も教えてくれなかったじゃないですか」
 荒田は懐から煙管(きせる)を取り出し、行灯の火で煙草に火を点ける。
 「全く経営者みたいなことを言う奴だな、お前は。それに企んでるなどと人聞きが悪い。歌川さんの絵は本物だ。俺がそれに目をつけただけの事。これもそのうち分かるから安心しりゃれ」
 荒田の吐き出す紫煙が喜兵衛を包んだ。最後に荒田が付け加える。
 「この件については他言無用であるぞ」

 かくして喜兵衛の手がけた木版は印刷され、江戸中の薬屋から「八百草」が消えた。


947 名前:はっぴゃくそう(2-5) ◆bvsM5fWeV. 投稿日:2007/01/28(日) 23:44:00.21 ID:VOQFBl2A0
 客人が来るので喜兵衛は外で飯を食ってくるように言いつけられた。
そのような事はこれまで二、三度ほどしかなかったので、喜兵衛は直ぐにに重要な客人であると解した。
 ずるずるっと天そばをすすりながら今回の「八百草」騒動について喜兵衛は考えをめぐらす。
そもそも、この八百草とは「うそはっぴゃく」をもじったもので、薬効も無いし、霊験もない。
正真正銘、ただの草である。それを売り出すのだ、とだけ喜兵衛は荒田から聞いた。
むしろ順序としてはそれを聞かされた上で、喜兵衛は嘘八百の木版を彫らされたのだ。
その事実が余計に喜兵衛を混乱させる。なぜ教えたのか。
 向かいの席で食い終えた男が煙管に火を点けた。煙の匂いがあの晩を思い出させる。
 「お前は黙って彫ればいい」
 黙って彫った結果、八百草は江戸の町から消えた。
さらに疑問は残る。喜兵衛が木版を彫る以前から八百草は薬屋に置いてあった。
これが全て荒田の計算づくというのであれば八百草は今回のためにわざわざ作られた事になる。
 「及びもつかねえ」
 ぼそりと呟き、それを機に喜兵衛の思考に靄のようなものがかかる。喜兵衛は満腹になった。

 街には至る所で八百草ののぼりが立ち、薬屋以外の店でも八百草が売っている。
江戸の町は八百草の熱に浮かれていた。喜兵衛は学も教養もない。だが、自らより優れた商人や武士がこぞって八百草を買い求めているところを見るにつけ、得も知れぬ優越感に浸るのだった。
 屋敷に着く数十メートルほど手前で喜兵衛は四人の男を見た。一人は主人の荒田、もう一人は広重である。
荒田、歌川は喜兵衛の知るところであるが、残りの二人は知らない。一人は荒田と似た中肉中背の背格好で、もう一人は恰幅のよさそうな男だ。
いずれにせよ暗がりの中で、はっきりと視認は出来なかった。

 「ただいま戻りやした。天そば美味かったっす。そんで、あの客人は・・・・・・って教えたくないから外に出したんすよね。いいっす、黙って彫ってますんで」
 「何だ喜兵衛、中々分かるようになったではないか。そうだ、黙って彫ってればいいのだ」
 「それにしても嘘八百、すげー売れてますよね。あれガセだってばれちゃったら絶対打ち壊しとかされちゃいますよ。どうすんすか?」
 「それでいいのだよ」やはり荒田はうれしそうに嗤う。何がうれしいのか。喜兵衛は巻かれてもいない紫煙に巻かれた気がした。

948 名前:はっぴゃくそう(3-5) ◆bvsM5fWeV. 投稿日:2007/01/28(日) 23:44:45.22 ID:VOQFBl2A0
――翌日。
 屋敷の柱かどこかが折れる音がする。投げ込まれた石が障子を突き抜け、喜兵衛の頭に中る。
鋭い痛みに喜兵衛は目を醒ました。怒号。揺れる屋敷。昨日の喜兵衛の言葉が現実のものとなった。
 打ちこわしである。喜兵衛は混乱した。外を見やると恐ろしい数の江戸町民が屋敷に大挙している。
城に攻め入られる武将の気持はこんなものだろうか、恐ろしい事だなあ、などとほんの一時現実逃避をしたのも束の間、喜兵衛の部屋の障子がガラリと開いた。
 「喜兵衛、これをかぶれ!! 急げ!!」主人の荒田だ。荒田は手ぬぐいと木刀を喜兵衛に渡した。
 「戦うんですか?」
 「違う、お前もこの屋敷を打ち壊すのだ!!」早口で強い語気ありながらも荒田の声は何故か平常に感じられる。
 「顔を隠し打ちこわしに紛れるぞ!!」そう言って荒田は屋敷の備品を木刀で叩き壊した。
 「うおー!! あっちに逃げたぞー!!」荒田が群集を扇動する。
 愛用の彫刻刀を懐に忍び込ませ、主人に習い喜兵衛も破壊する。行灯を机を、柱を屋根を。よく見ると広重も屋敷を壊していた。
 「あ、歌川さん、お疲れっす。もしかして歌川さんちもすか?」
 「おう、お疲れ。そうなのよ、俺んちも打ち壊されそうだからさ、荒ちゃんが言ってた通り俺も打ちこわしに混ざったって訳よ」
 どうやら荒田の思惑通りに事が運んでいるようだが、喜兵衛にはさっぱり納得がいかない。

 群集は屋敷を完全に破壊してもなお飽き足らず、各地の薬屋をも破壊した。先頭には荒田と喜兵衛がいた。薬屋を打ちこわしながら喜兵衛は荒田に訊いた。
 「あの、やっぱあれガセってばれちゃったんすか?」
 「ばれたと言うより、意図的にばらしたと言うか、ばらされたというか」荒田にしては珍しく言いよどんだ。
 「今回はさすがに黙って壊せとは言わないんすね」
 「そのうち分かる」


949 名前:はっぴゃくそう(4-5) ◆bvsM5fWeV. 投稿日:2007/01/28(日) 23:45:17.77 ID:VOQFBl2A0
 荒田、喜兵衛が四軒目の薬屋の打ちこわしにかかろうとしたところで与力が現れた。
 「おら! お前ら!! 打ち殺すぞ!!」
 ドスの聞いた声。奉行所の役人がしょっ引きにやってきた。群衆は潮が引くようにいなくなり、
 与力は荒田と喜兵衛、そして広重だけを狙ったように捕まえる。
 喜兵衛は狼狽した。それは喜兵衛がしょっ引かれたことにではなく、主の荒田がこれまでに見せた事が無いほど動揺したからである。
 これはただ事では済まない。喜兵衛は血の気が引いた。
 荒田、喜兵衛、広重の三名を後ろ手に縛り、与力は奉行所へ戻る。
 
 手荒い扱いを受けて牢獄に入れられ、果ては拷問か。喜兵衛は死を覚悟し、奉行所の門をくぐる。

 門をくぐるなり「はいどうも。ごめんね」と言って与力が縄を解く。
 喜兵衛は拍子抜けした。何がなんだか分からない。「まま、こちらへどうぞ」
 先般までの与力の態度が嘘のように丁寧に荒田たちを奥へ通す。


950 名前:はっぴゃくそう(5-5) ◆bvsM5fWeV. 投稿日:2007/01/28(日) 23:46:13.76 ID:VOQFBl2A0
 荒田たちは最も奥の部屋に通された。そこには中肉中背の男がいた。
 「どうも、どうも。荒ちゃん。お疲れね。今回は助かったよ」
 やたら愛想のいい男がそこにはいた。
 「まま、そう硬くならず、ね?」と喜兵衛に話す。
 「家宣さんひどいよ、しょっ引くなんて聞いて無かったですよ」と荒田。
 今起きている事象は喜兵衛の予想をはるかに凌駕するものだった。なぜ荒田が、大名とこうまで親しげに話すのか。
そして、この大名の背格好。どこかあの時の男と似ているが、荒田が親しげに大名と話しているところからこの直感は外れてはいないようだ。
 「あれ、もしかして荒さん、彼に何にも教えてなかったりする?」大名は荒田に問うた。
 「うん。面白いかなーと思って」
 「やっぱり。荒さんひどいなあ、相変わらず。んじゃあ俺から説明するね」
 と言って大名は喜兵衛のところへ歩み寄る。
 「いやあ、今回は迷惑かけてすまなんだ。色々言ってもあれだから、結論から言うね。俺、実は来月増税しようと思ったわけよ。
 財政的な問題で。でも最近打ちこわしとかって怖いじゃん? でもうまいことガス抜きしちゃえば打ちこわしされないかなーと思って、
 荒ちゃんに相談したわけよ。そしたら八百草で町人だまして、そこでガス抜きさせればいいよねって話になってさ。
 まあそいつは名案って感じで荒ちゃんに頼んで広告うってもらったってわけよ。それにしても八百草とかってすごいセンスだよね。
 うそはっぴゃくをもじるなんて馬鹿にするにも程があるよ」

 喜兵衛は二の句が次げなかった。
 「だから、お前は黙って彫ってればいいと言っただろう」
 荒田は嗤っていた。

 了



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