【 嘘つき 】
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904 名前:嘘つき 1-4 投稿日:2007/01/28(日) 23:10:53.66 ID:86EQgZ9y0
 美香が、死んだ。眠りに落ちるような安らいだ表情で、彼女は俺を置き去りに、この世から去っていった。
 僧侶の唱える経の中、俺は呆然と彼女の遺影に目を釘付けていた。次第にぼやけていく視界に、ただただ下唇を噛む。堪えきれずこぼれた雫が、喪服に染みこんでいく。
 目を閉じれば、生前の彼女の笑顔がある。長く美しい黒髪に縁取られた、白磁が如く白い整った顔。俺に笑いかける、彼女の屈託のない笑顔。それは永遠に、失われてしまった。
 彼女は病弱だった。病に臥せり、嘆き、苦しみながらも生き抜いてきた美香。いずれこうなることはわかっていた。死に別れること、それは彼女を愛すると決めたとき、覚悟はした。
 それなのに。それなのに、俺はこの事実にとても耐えられていなかった。死というものはあまりに理不尽で、唐突なものだった。彼女は運命に抗うことも出来ず、ゆっくりとその人生に幕を下ろしたのだ。
「……大丈夫ですか、悟史さん」
 呼びかける声で我に帰る。気がつけば既に読経は終了し、進行係を任せた男が挨拶をしている。とても自分は、話せる状況に無かった。
「ええ……ご迷惑をおかけします」
「いえ……。姉がいままで、本当にお世話になりました。……美香は本当に、幸せものでした。最後の最後まで、あなたに想われていたんですから」
 彼女は美香の妹だった。優しい言葉が、彼女に似た声が、俺の心にしみる。ハンカチを手渡され、一礼して受け取る。
「それでは、最後のお別れを……」
 進行係の男がそう告げる。立ち上がらねばと思うも、体に錘でものせられているかのように、動かない。最後という言葉が、今はこんなにも、重く辛い。
「悟史さん……」
 気を利かせて、美香の妹が肩を貸してくれた。遠慮がちに彼女を支えにして、立ち上がる。よろよろと棺の前に、足を運んだ。
 棺の中には、美しい花に彩られた美香が静かに眠っていた。微笑んでいるかのような死に顔に、再び堪えていた涙が溢れてくる。美香とももう、お別れ、なのだ。
 美香の顔のすぐ傍に、花を添える。その時急に、立ちくらみのような感覚を覚えた。自分のしている行動が、まるで現実味を伴わない。離人症でもなったような感覚。
 美香が今にも起き上がって、嘘でしたと、言ってくれるような気がしてならない。全て嘘だと、こんな……美香がいなくなることなんてことは、すべて嘘なのだと。また明日からも、いつもどおりの日々が続いていくのだと。
 そう、言って欲しい。最後のお別れなど、したくない。ありえない。美香はここにいるじゃないか。こうしてここで、眠っているのに。
「……大丈夫ですか」
 そのとき不意に、美香の声が聞こえた。つい先日まで聞いていた、美香の声。鈴の音のような、濁りのない澄んだ声。
 いや……違う。今の声は、俺のことを案じてくれている、美香の妹の声だった。
 そういえば美香も、同じことを言って、俺のことを案じてくれた。あの日も俺は、目に涙をためて、取り乱していたように思う。
 最後のときには、泣かないで下さいと、言われたのに。指を絡める約束を、俺は確かに美香と交わしたのに。結局こうして、破ってしまった。
「美香……」
 出棺する手順となって、俺は棺を数人の男と霊柩車へと運んだ。誰一人として、言葉を発するものはいない。
 車に乗り込み、俺は同乗者に気取られないよう、涙を拭った。車が発進される。これから俺は、美香を燃やしにいくのだ。
 シートにもたれかかって、首を持ち上げる。目を瞑って、口を紡ぐ。まぶたの裏には、在りし日の美香。
 一生を共に連れ添うと誓ったあの日のことを、俺は鮮明に思い出していた。

905 名前:愛のVIP戦士 投稿日:2007/01/28(日) 23:11:24.00 ID:86EQgZ9y0
「悟史……さん」
 息を切らせて病室へ入ると、美香がこちらに顔を向けた。周囲にいた医師や美香の家族も、俺に気がついて振り返る。危険な状態らしいと、彼等の表情から悟る。
 よろよろと美香の横たわるベッドへと近づく。美香の体のいたるところから、チューブが伸びている。痛々しいその姿に、思わず顔をしかめた。
「……覚悟はしておいてください。助かる見込みは、あまり……」
 医師の中で一番老齢の男が、沈痛な面持ちでそう言った。取り乱しはしない。わかっていたことだ。そうですか、とだけ返して、美香に顔を寄せる。
「美香……大丈夫か」
 出来るだけ穏やかな語調で話し掛ける。それでも声は水気を孕み、震えていた。美香は静かに微笑むと、俺の頬に手を添えた。骨ばった、冷たい手だ。
「大丈夫です。心配しなくても、大丈夫ですから……」
 今にも消え入りそうな声を出す人間を、どうして心配せずにいられようか。思わず歯を食いしばる。心配することしか、俺には出来ることがないというのに。
 頬にある美香の手を取って、両手で握る。握り返してくる力が弱々しい。逝かないでくれと、すがるように手を強く結ぶ。気を利かせて病室から出て行く医師たちの足音が、酷く遠くに感じられた。
「前言を……撤回してもいいですか」
 たった二人しかいない空間でも、美香の声は電子機器にかき消されてしまいそうなほどだった。そのか細さと、言葉の意味に、胸が締め付けられるように痛む。
「ダメだ。嘘をつくのは、よくない。俺は今まで、美香に嘘をついたことはないはずだ」 
「ふふ……そうでしたね。でも、許してください……きっと、最初で最後です」
 眉根を寄せる。今すぐ病室を出て行った医師の許へと向って、なんとかしてくれと、どうにかして助けてくれと怒鳴りたくなる。土下座でも何でも、したっていい。失いたくないのだ、なんとしても。
 美香とは、恋仲だった。幼い時間から、今この瞬間までを連れ添った、かけがえのない存在なのだ。じき、これからの時間も俺にくれと、頼む予定だったのに。
 彼女は病弱だった。病に臥せり、嘆き、苦しみながらも生き抜いてきた美香。こうなることはわかっていた。死に別れること、それは彼女を愛すると決めたとき、覚悟はした。
 でも、望んでいたわけじゃない。彼女が死ぬことなど、心のどこかでありえないと思っていた。大切な人間が死ぬ。そんなドラマのような現実は、フィクションの世界での出来事だと決め付けていた。
 結局、俺の言う覚悟など、言葉の上だけの存在だった。今こうして、俺が涙を流していることが、そのことを確かにしている。
 愛すると決めたとき、俺は決して彼女の死に涙を見せないと美香に誓った。互いに微笑みながら、別れようと。
 俺の顔に、再び手が添えられた。俺の目に指がいって、涙をすくう。美香がくすりと、蒼白な顔に笑顔を作った。
「悟史さんも、これで嘘つきになりました。わたしは、嘘を許しません……」
「美香……」
「でも、わたしも……嘘をつくでしょう。これで……おあいこです」
 喋ることも辛いのだろう、美香の言葉は途切れがちだった。刻一刻と、美香の傍らの死神が姿を顕わにしてくる。抗う術はない。死なないでくれと願っても、鎌はいずれ振り下ろされる。必ず。

906 名前:愛のVIP戦士 投稿日:2007/01/28(日) 23:11:56.34 ID:86EQgZ9y0
 美香が死ぬ。まだ、生まれて二十と少ししか生きていないのにもかかわらず。あまりに理不尽だ。何故美香がこれほど早く、この世から去らねばならないのだ。
 無情な現実に歯噛みする。いずれ必ずやってくる死。どうにもならない。
「……あなたはそこに座っていました。わたしはいつものように……ここにいて。あなたの話を聞いています。死が隣にいようとも、心安らぐ、至福の時間です……」
 美香の目は、既にどこにも焦点をあわせてはいなかった。俺の方に顔を向けていても、俺を見てはいない。思い出の中の、俺を見ているのだろうか。
「いつか、あなたの様子がおかしくなった時が……ありました。いつも泰然としているあなたがですよ……。わたしは、不安になって……聞きました。……もう、わたしといるのは、嫌ですか……」
「そんなことはない。むしろ逆だ。……これからもお前と、ずっといたい」
「は……い。……嬉しい……です」
 告白した時のやり取りが、今一度再現される。一字一句同じセリフを、俺は記憶から引っ張り出して、復唱した。美香の表情が、幾分か安らいだように思える。
「覚えてて……くれたんですね。とうに、忘れたものかと……」
「馬鹿を言うな。忘れるわけがないだろう。あのときのことほど印象に残っている記憶など、他にない」
「……わたしも……です」
 涙がとめどなく溢れてくる。未だ俺の頬に添えられた手に、涙がかかる。嘘つきですね、と美香が言う。弁解の余地もない。俺は、世界で一番情けない嘘つきだ。
 美香の息が荒くなっていく。それに反して、心音を測る機械は次第に音の大きさを控えめにしていく。時間が迫っていた。
「美香、聞いて欲しいことがある」
 返答はない。かろうじて意識があるのが、俺の涙を拭ってくれる手の感触でわかる。もし美香が喋れるのなら、様子が変ですね、と言われていたことだろう。 
「俺はお前と、ずっと同じ時間を過ごしてきた。何度も辛い思いをさせてきた。何度も辛い目にあってきた。でも、それでも、おれはこれからもお前といたい。無論、死ぬまで」
「……」
「だから……だから……」
 言葉が出てこない。時間をかけて考えたセリフが、感情の奔流に流されていってしまった。代わりに出てくるのは、ただただ嘘つきの証拠。
 間に合わないかもしれないのに。早く言わなければ、彼女は永遠に失われてしまう。焦れども、何も言えないでいる。彼女が笑顔で別かれようといったのは、このためか。 
 その時、不意に彼女の手が頬から離れていった。とす、とベッドに落ちる、彼女の腕。美香はこちらを向いて、微笑んでいた。彼女は確かに、俺を見ていた。今の、俺を。
「……わたしも……です」
 それを最後に、すっと、目が閉じられた。信じられない思いで、彼女を見る。彼女の体から、力が、抜けていく。気付けば目尻から、一筋、涙がこぼれていった。
 俺はただ、慟哭するしかなかった。

907 名前:4-4 投稿日:2007/01/28(日) 23:12:42.08 ID:86EQgZ9y0
「悟史さん」
 声が耳朶を打ち、意識が今へ戻ってくる。どうやら火葬場へとついたようだった。車から降り、棺を場内へ運ぶ。
 再び、読経が始まった。耳を右から左に抜けていく言葉の波を気にとめず、俺はただ、呆然としていた。
 美香は死んだ。いつか必ずこのときがくるということを、俺は知っていた。きっと誰よりも、知っていた。何故なら美香は、常に死と密接であったから。
 人は死ぬ。当たり前のことを、おそらく皆忘れているのだ。不可避の出来事。遅かれ早かれ、必ず起こることなのにだ。
「故人とのお別れを」
 火炉の前の棺に近づく。花に縁取られた美香は、やはり微笑んでいた。美香とした約束を、今一度思い起こす。別れは、笑顔で。涙はいりません。最後の最後に、泣き顔は見たくありませんから。
「またな、美香……」
 涙を無理矢理押し込めて、震える声で小さく別れを告げる。どうにか、笑顔を作れていたように思う。最後の最後、俺は約束を守れたのだ。
 火炉に棺が飲み込まれていく。しかし美香との思い出は、決して焼き消えることはない。俺は再び、口の中だけでさよならを告げた。

 あの日、から四十余年。深く深く刻まれた美香との記憶の最後を、俺たちは共に笑顔で締めくくったのだ。



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