【 見栄を張る 】
◆YaXMiQltls




756 名前:見栄を張る(1/4) ◆YaXMiQltls 投稿日:2007/01/28(日) 17:44:28.39 ID:bzyrFTGt0
 居酒屋の座敷はだいたい奥まったところにあって店員がなかなか来ないから、一番端に座った人間がわ
ざわざこうして廊下に顔を出して、間の抜けた馬鹿でかい声で遠くを通った店員を呼ぶことになる。イケ
メンの兄ちゃんが、慣れた声で「少々お待ちくださいませ」と言い、明らかに注文が決まっていなくてそ
の場でメニューを広げているリーマン軍団にたっぷりと時間をかけてから、慌てる様子もなくトコトコと
こちらへやってくる。イケメンだからって調子乗ってんな、死ね。と思いながらも、丁寧に敬語でドリン
クを注文すると、なぜかイケメンは喜んだ。なんでかは知る由もないが、自分でそう言った。
 全員分の注文をし終えた俺が席に戻ると、俺が座るやいなや、向かいに座っていた新村が俺に話し掛け
てきた。
「高木、おまえどっち?」
 新村は、右手の人差し指と中指を、左手の中指と薬指を立てて、遠くから見れば両手でファック・ユー!
的なポーズをして、両手の立てた指先を少し丸めて前後に細かく動かした。両手でファック、あながち間
違いでもなかった。俺の居ない間に、話はずいぶんと下品な方向に向かっていたようだ。
「こっち」新村の右手を指すと、俺の隣に座っていた坪井が即座に突っこんだ。
「おまえ童貞じゃん。何かっこつけてんの?」
 一瞬にして空気が凍った。全員が何を言えばいいかわからない様子で黙っている中、坪井は一人で笑い
ながら熱燗を注ごうとするが、坪井の数本目の徳利は既に底をついていた。こいつは酔うと面白いからと、
坪井を放っておいた俺の選択肢は、どうやら間違っていた。
「まあ、二十歳で童貞とか全国にはたくさんいるって」
 坪井が真っ赤な顔を揺らしながら俺の肩をたたいた。追い討ちをかける坪井のせいで、何か言わなきゃ
とフル回転していた俺の思考回路が軽く吹っ飛んだ。もう開き直るしかなかった。けれど、俺は童貞だけ
ど空気が読めるくらいには大人だから、坪井も童貞だとは言わなかった。
 夕方、同じゼミの坪井と放課後に街中をうろついていたら、偶然新村たち三人と出会った。新村と川上
と清水は俺たちと同じ学科だけど、俺は面識がある程度であまり話したことはなかった。俺とはちょっと
タイプが違う奴らだったから、ある種当然の関係だと思う。けれど坪井はそれなりに喋ったこともある様
子で、話は挨拶だけで終わらず、なぜか俺たちは五人で呑みに行くことになった。
「えっ、付き合ったこととかもないの?」
 新村が真剣に驚いた表情で俺に聞いてきた。俺はちらと坪井を見てから答えた。
「……高校のときはあるけど」
「その高木が付き合ってた女ってのがさ――」

757 名前:見栄を張る(2/4) ◆YaXMiQltls 投稿日:2007/01/28(日) 17:44:58.95 ID:bzyrFTGt0
 俺を遮って、坪井が俺の過去の恋愛話を語りだした。いつか坪井に話した話にかなり尾ひれがつけられ
て、彼女はとんでもない女になっていた。
「最悪じゃん、その女。それで高木、女性恐怖症ってわけ?」
 新村の隣から、川上が話に入ってくる。
「いや、そういうわけじゃないけど」
「自覚してないだけだって。高木別にかっこ悪くないし普通なんだから、ちゃんとすりゃ女の一人や二人
できる感じじゃん、なあ?」
 川上に話を振られた清水は、奥の誕生日席ポジションで「うん」と頷いただけで、あまり話題に興味が
なさそうだった。
「でも今どき高校生で付き合ってたんなら、キスくらいはしたんだろ?」
 なんで新村が俺のキスの話を聞きたいのかは甚だ疑問だけれども、世の中にはそういう人種もいる、と
いうかむしろ多数派であることを、俺は二十年の人生経験から知っていたから、空気を読んで答えざるを
得なかった。空気を読む、とは言い換えれば多数派の思考回路に合わせた物の言い方をするということだ
と俺は思う。
「うん、キスはした」
「でもそれから先へ行かなかったのはどうして?」
 今度は川上だ。本当にこいつらは俺の何を知りたいのだろう。坪井は俺を見てにやにやしながらチャン
ジャに手を伸ばしていて、清水は横を向いてタバコに火をつけていた。
「なんかそういう段階じゃないうちに、ギクシャクしだしたっつーか、そんな感じ。つかごめん、ちょっ
と小便」
 二対一の尋問がどこまでも続きそうな気がして、俺はぼろを出さないうちに立ち上がった。ぼろと言う
のはつまり、俺は適当なことを言っていたのだ。高校のとき付き合っていた彼女なんて本当はいなかった。
彼女は今日のような坪井の問い掛けによって、俺が作り出した架空の人物だった。
「高木待って、俺も行く」
 そう言って清水が俺についてきた。本当は小便なんてしたくもなかったのだが、清水がついてきたから
しないわけにも行かず、振りだけでもと思ったら、結構飲んでいたからか小便が勢いよく飛び出した。清
水とはほとんど話したこともない上さっきの会話の後だったから、俺は何を喋ればいいかわからず、目の
前の教訓話を読んでいると、清水から話し掛けてきた。
「なんかごめんな、あいつら」

758 名前:見栄を張る(3/4) ◆YaXMiQltls 投稿日:2007/01/28(日) 17:45:37.11 ID:bzyrFTGt0
 俺が嫌がっていたことがばれていて、俺はちょっと動揺したけれど冷静を装った。
「いいよ、そんな気にしてないし」
「新村最近初めての彼女が出来たばっかりでさ、えらそうなこと言ってるけど、調子乗ってるだけだから」
「そうなんだ……経験豊富そうに見えた」
「川上は結構遊んでるみたいだけど。まあ気にしてないならよかった」
 そう言うと、清水は早々と便器から離れて、手を洗ってから髪型を直し始めた。もしかしたら小便をす
る振りをしていたのは清水の方なのかもしれない。清水は前髪が気に入らない様子で、何度も上げ下げし
ていたが、俺には違いがわからなかった。鏡越しに清水と目が合って清水が言った。
「俺そろそろ帰るわ」
「えっもう?」
「なんつーかさ、ぶっちゃけ俺ああいうノリ苦手なんだよね」
 俺もそうだと言いたかったが、単純に同意することが「わかるよその気持ち。なんか下品だよね。とこ
ろで俺たち気が合うね」ほどの意味を帯びそうで、大嘘をつきまくってごまかしていた手前、言えるはず
もなかった。
 席に戻ると、話題は下品な話に戻っていた。童貞と童貞を捨てたばかりの奴とヤリチンが、お互いのセ
ックスについて論議をしていて、俺はうんざりすると同時に、俺の話題から離れたことにほっとしていた。
俺と清水の後ろから、さっきのイケメン店員が注文したドリンクを運んできて、「お待たせいたしました」
と言い、ドリンクを一つ一つテーブルに乗せていった。
「お兄さん、イケメンっすね」
 店員に絡む新村を見て、こいつも酔っ払っているだけなのかもしれない、と俺は思った。こんな無礼な
奴と清水が、仲がいい訳がないと思った。
「正直モテるでしょ?」
 新村の次の標的がこのイケメンになったことを察知して、俺はイケメンに同情した。
「そんなことないです」モテることの否定。一般的にイケメンの模範解答だ。
「あっそうだ。お兄さんどっち?」
 新村がさっきのジェスチャーをすると、イケメンはすぐ理解したらしく、ドリンクを置きながら笑顔で
こう言った。
「すいません、僕童貞なんでよくわかんないです」
「そんなことないっしょ。怒んないからはっきり言ってよ」

759 名前:見栄を張る(4/4) ◆YaXMiQltls 投稿日:2007/01/28(日) 17:46:10.58 ID:bzyrFTGt0
 無理強いする新村に、イケメンはちょっと困ったような顔をした。困った顔がさらにイケメンなところ
が、イケメンのイケメン度合いを推し量っている。
「いや、マジで童貞なんですよ」
「お兄さん、いくつ?」
「二十二っす」
「えっ、マジで? マジで童貞なんすか?」
 年上と聞いたからかなぜか敬語になった新村の声が店内に響く。隣の集団の何人かがこっちを向いてす
ぐに目をそらした。清水は一人興味なさそうに、テーブルの奥から手を伸ばして、自分の頼んだカルーア・
ミルクを取ろうとした。清水に気づいたイケメンが、気を利かせてカルーア・ミルクを清水に渡してから
質問に笑顔で答えた。
「マジっすよ。ダメっすか?」
「……いや、いいけど。……てゆーか、え、なんで?」
「まあ特に縁がなかったんで」
 遠くから店員を呼ぶ甲高い女の声がして、イケメンは「只今伺います」とそっちを向いて大声で言って
から、俺たちに軽く会釈して立ち上がった。
 俺は後ろ姿のイケメンの足の長さに気づいた。本当に完璧な容姿だと、そんな趣味は無いにも関わらず
見惚れていると坪井が俺の背中をたたいた。振り返るとイケメンとは比べ物にならない下品な笑い顔があ
って、俺はうんざりした。死ね童貞、と心の中でつぶやくと同時に、あ、俺も童貞だ、と気づいて、俺は
坪井の背中をたたき返した。自分からたたいてきたくせに、坪井は俺の反応に驚いたようだった。
「まあ、高木もがんばれよ」
 新村がそう言うと、川上と坪井が頷いた。清水を見るとカルーア・ミルクを飲み終えるところで、
「ごめん、俺そろそろ帰るわ」
 と言いながら立ち上がった。引き止める新村たちに、清水は「ごめん明日早いんだ」と言って、コート
を着出した。通り道に坪井と俺が後ろを空けてやると、清水は俺の後ろを通ったときに俺の頭を軽くたた
いて「がんばれよ」と笑った。
 引き止めていたくせに、清水を惜しむでもなくすぐに新しい話が始まった。
「そういえば正月に俺、地元で成人式に出たんだけどさ――」
 成人式の最中、友人に野次を飛ばすよう促されたという、どうでもいい新村の話をよそに、俺は来たば
かりのビールを一気に飲み干した。



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