【 祈る 】
◆hemq0QmgO2




748 名前:祈る(品評会作品)1/5 ◆hemq0QmgO2 投稿日:2007/01/28(日) 17:25:50.41 ID:fyGHIMpm0
 彼、クロダくんが最初に付き合った女の子は高校のクラスメイトでした。男子にも女子にも
人気がある、明るくて可愛らしい女の子です。告白に成功した時、クロダくんは身も心もふわふわでした。
ふっ、と吹いたら綿毛みたいに何処までも飛んで行ってしまうくらい、何もかもが軽くなっていました。
 クロダくんは平均的な男の子でした。今でも、平均的な男の子です。世の中の男の子を全部足して割ったような
男の子です。そして、世の中の男の子が抱える全ての問題も、足して割ったように抱え込んでいるのでした。
 二人は滑稽なくらい高校生のカップルでした。およそ全てのカップルが辿る道を、正確になぞって行きました。
映画館に行き、カラオケに行き、ネズミの国に行きました。手を繋いで、キスをして、
ペッティングをして、セックスをしました。セックスは四回しました。そして、四回目のセックスをした
次の次の日に、別れました。とても曖昧な理由で別れました。当時のクロダくんには、理解不能な理由でした。
「あのさ、クロダくん」
「なに? ミキちゃん」
「別れない?」
「なんで?」
「なんでも」
「答えになってないよ」
「本気だよ、私」
「だから答えに」
「止めて。もう駄目なの。なんか駄目なの……私……本当にごめん。ごめん、ごめんね、クロダくん」
 ミキちゃんは泣いていました。クロダくんはもう、何も言いませんでした。何を言っても
「答え」は返ってきそうにない、ということだけは理解できました。クロダくんは水を吸いきった
雑巾みたいに重く、湿っぽい気持ちになりました。とにかく、苦しい。とても苦しい。
クロダくんは納得できないまま、ミキちゃんとの全てを諦めました。とても夕焼けが綺麗な、九月の月曜日でした。
 次に彼が付き合った女の子は、居酒屋のバイトの先輩でした。さらさらのショートヘアから
職場に甘い香りを無造作に、実は無造作ヘアと同じくらい計算づくなのですが、ばらまいていました。
 彼女にとってクロダくんは間抜けな虫でした。彼女は平均的な男の子が手を出してはいけないタイプ、
娼婦型とでも言いましょうか、どろどろの修羅場で鼻歌を歌うような、したたかな精神を持った悪女でした。
 ミキちゃんとのそれより数倍も魅力的な、もっと言えば職人的な七回目のセックスの後で、
突然、先輩が真面目な顔で別れを切り出しました。クロダくんは食い下がりました。
彼は少なからず、彼女の肢体に魅せられていたのです。

749 名前:祈る(品評会作品)2/5 ◆hemq0QmgO2 投稿日:2007/01/28(日) 17:26:17.26 ID:fyGHIMpm0
「俺の何が駄目なのか、はたまた俺以外に理由があるのか、ちゃんと教えてください」
「頭悪いわね。理由なんて幾らでもあるよ。キミにも、私にも、私と遊んだ他の男の子にもね」
「はぐらかさないでくれ! 俺と高木さんが別れる何か具体的な理由があるんですか、教えてください」
「まあ別に私が言う必要も無いんだけど……いいよ、本当の理由を教えてあげる。
私にしては珍しく本心をそのまま、ね。そのかわり納得してもしなくても帰ってね。予定があるから」
 クロダくんはドキドキしました。高木さんとの関係は最早修復不可能でしたが、そんなことは
どうでもいいことでした。高木さんの柔らかい肉体や、さらさらのショートヘアへの執着も
どこかに消えて無くなってしまいました。ただ、理由を知りたい。あわよくば自分を知りたい。
それだけでした。それだけのドキドキであり、他のものへの興味は消え失せていました。
「キミから見れば私にも責任があると思うんだけど私のことは面倒くさいから省くよ。
とにかく、キミの問題を教えてあげる。キミが知りたいのもそこでしょう?」
 クロダくんは更にドキドキしました。この鼓動が不安なのか期待なのか、彼にはよく判りませんでした。
「あのね、キミねえ、言いづらいけど言うよ、絶望的につまらないの。キミと付き合うくらいなら
四十過ぎの脂っぽくてセックスがメチャクチャ下手なおじさんで遊んだ方がまだ楽しいし、実もあるわ。
鬱陶しいくらい中途半端なの。キミは気付いてる? 苛々しない? ど真ん中にいる自分に」
 なんだ、そんなことか。薄々感付いていたけど、やっぱり人から見てもそうなんだ。そうかそうか。
けど別段大した情報でもないな。そりゃ悲しいけどてめえに言われるまでもねえよ。
 期待も不安も裏切られた彼は自分にも目の前のアバズレにも急速に興味を失いました。鼓動は平常時に戻り、
何もかもが冷え切ってしまいました。目の前のアバズレが豚に見えます。はは、おもろいなあ。
「ぺっ」
 クロダくんは豚の顔に唾を吐いて去りました。三月の冷たい雨が彼の髪や肩を舐めましたが、
心は砂漠のように乾いていました。しとしとの雨に濡れた梅の木の下に、やせ細った雌猫の私が
震えています。クロダくんはゆっくりと近づいてきました。そして私を優しく抱き寄せて、
懐に抱いたまま連れて行ってくれました。彼の懐はとても温かく、私は幸せな気分で眠りにつきました……。

750 名前:祈る(品評会作品)3/5 ◆hemq0QmgO2 投稿日:2007/01/28(日) 17:27:10.81 ID:fyGHIMpm0
 クロダくんは私にリコ、という素敵な名前をくれました。私はその名前をとても気に入りました。
彼は私にたくさんの話をしてくれました。日常のこと、世の中のこと、彼が付き合った女の子のこと。
そして何より彼自身のこと、語り尽くせない大量の問題について、話してくれました。
 私は嬉しくなりました。もちろん、私には彼の問題を解決することはできません。猫ですから。
ただ、彼が私に話をしてくれること、私を信頼してくれていることが、嬉しかったのです。
いつしか、私はクロダくんを愛していました。冗談ではなしに、本気で愛していました。
 クロダくんは私を可愛がってくれましたが、もちろん恋愛対象としては見なしていません。
一人暮らしの大学生だったクロダくんは、私を飼い初めてからも数人の女の子を連れ込み、
そのほとんどとセックスをしました。私は悲しくなります。それでも私は喋ることも、
泣くことも出来ません。鳴き声を上げることは出来ますが、そんなことで行為を止めることは
出来ませんし、クロダくんに嫌われることは、鬱陶しい馬鹿猫め、と思われるのは、私にとって何よりも
苦しいことです。私は何も出来ない自分を呪いました。私にとっての救いは、女の子が居ない時に
彼が話してくれるたくさんのお話、恐らく私と彼以外誰も知らない、秘密のお話だけでした。
 例えば、彼はこんなことを話します。
「リコ、俺さ、今まで付き合った女の子全員に振られてるけどさ、たぶん理由は全部同じなんだよ。
病的なくらい中途半端でつまらないんだって。それどころか、怖くなるって言った女の子もいたな。
はは、馬鹿じゃねえの。なあ、おかしな世界だよ。俺だって真ん中から抜け出そうと努力はしてるんだぜ。
リコ、お前は知ってるよな。女の子の前ではくだらない嘘ばっか吐いて、自分が見えなくなるくらい
虚飾、虚飾。でも結局、俺が右に動いたら世界もそのぶん右に動く、逆もまた然り、
ってな感じでどうしようもないんだ。ほんと、笑えるよ。なあリコ、可愛いなあお前」
 そして、時には哀しい話をします。
「俺、怖いんだ。いろんな問題が俺の中でごちゃ混ぜになってる。矛盾なんてお構いなしに、
具体と抽象が、心と体が、過去と未来が、好きと嫌いが、白と黒と赤と青が、全部ミキサーの中で
ぐちゃぐちゃになってるんだ。リコ、俺はどうすればいい?
時々、前にも後ろにも右にも左にも行けなくなっちゃうんだよ」

751 名前:祈る(品評会作品)4/5 ◆hemq0QmgO2 投稿日:2007/01/28(日) 17:27:39.55 ID:fyGHIMpm0
かわいそうなクロダくん。それでもやっぱり、私に出来ることは彼の話を聞くことと、時々「にゃあ」
とか「みゃあ」とかの鳴き声を上げることくらいしかありません。私はこの国の政治家みたいに無力でした。
 やがて私は悲しい因果の存在に気が付きました。クロダくんが不幸の渦の中で女の子に嘘を吐いている限り、
私は彼と幸福な時間を過ごせるのです。しかし、もし彼が運命の女の子に出逢い、虚飾を全て棄てて
その女の子と幸福を掴んでしまったら……私はたぶん不幸になるでしょう。私は彼の不幸と嘘に
生かされている。私は何を、何を祈ればいいのでしょう? 私のこんな苦悩を知ってか知らずか、
彼にとっての運命の人は意外に早く現れます。それは私が彼の家に来て、二年目の夏のことでした。

 とても暑い八月のある夜、冷房が効いたクロダくんの部屋のベッドで私はゴロゴロしていました。
クロダくんはベッドに腰掛けて煙草を吸いながら、天井を仰いだり、深いため息をついたり、呻き声を上げたり、
なんだか落ち着きがありません。私は不安になってクロダくんの膝に飛び移り、彼の目を見つめながら
「みゃあ」と鳴き声を上げました。クロダくんは煙草の火を消して、私の背中を撫でながら喋り始めました。
「リコ、俺さ、好きな人ができた」
 不安は的中しました。私は力無く「にゃあ」と鳴いて、ああ私は本当に何も……そのまま
彼の膝に甘えていました。彼は明らかにいつもの彼ではありません。私は怖くなりました。
とにかく、ただごとではない。それでも相変わらず私には何もかもが不可能でした。彼は話を続けます。
「あの娘は、宮本さんは俺を、嘘を吐いていない本当の俺を、選んでくれるかもしれない。
でも、怖いんだ。リコ、わかるだろう? 嘘を辞めたら堤防が決壊したみたいに何もかもが
流れて行ってしまうかもしれない。そして二度と戻らない。言い訳も出来ない。リコ……俺は」
「みゃあ」
 話を遮るように鳴いた私は彼の膝から飛び降りると、キッチンへ逃げて水を舐めました。
私が話の途中で逃げ出すのは、これが最初で最後でした。彼は数分間ぽかんとしていましたが、
やがて新しいラッキーストライクに火を着けて、また物思いに耽ります。
 私は舞い上がる柔らかい煙を眺めながら、最早祈ることすら出来ない自分に気が付きました。
私は祈れません。クロダくんの幸福も不幸も、自らの幸福も不幸も、何一つ祈れなかったのです。

752 名前:祈る(品評会作品)5/5 ◆hemq0QmgO2 投稿日:2007/01/28(日) 17:28:09.96 ID:fyGHIMpm0
 それから一週間後、宮本さんが家にやって来ました。とても涼しい目鼻立ちをした、清潔で美しい女の子でした。
クロダくんは大学のゼミで宮本さんと知り合ったらしく、ビールを飲みながら教授や他のゼミ生の話をしています。
 私は宮本さんの膝に飛び乗ってその顔を近くでじっくり見てみました。太めの眉毛とつやつやの黒髪と
薄い化粧、白く瑞々しい肌。なんて素敵な人なんだろう。すると、宮本さんは優しく私に微笑みかけて
「かわいい猫さんだねえ」と言いながら背中から頭まで撫でてくれました。それだけで、私は彼女にならクロダくんを
奪われてもいい、と思ってしまいました。それくらい、宮本さんの指は優しく、温もりに満ちていました。
 宮本さん、そいつはリコだよ、リコって名前、とクロダくんが言います。宮本さんはそうか、リコちゃんか、
素敵だね、と言って私の顔を見つめます。私も宮本さんの深く輝く少年みたいな瞳を見つめます。
クロダくん、良かったねえ。大丈夫、宮本さんは運命の人だよ。だから辞めなきゃ、その嘘を。
頑張ってクロダくん、もう少しだよ。あとはクロダくんの努力だけだよ。私は初めて、本当の意味で
彼の幸せを祈ることが出来ました。私はベッドに移って、二人をじっと眺めながら、ただ静かに待っていました。
 クロダくんは三本目のビールを飲み終えて、八本目の煙草に火を着けます。その時、ゆっくりとですが、
自分の問題と正直な気持ちを宮本さんに語り始めました。宮本さんは一言も喋らず、彼の話に
聞き入っています。そして、五本目のビールが空になって、十四本目の煙草を吸い終えた時、
クロダくんの長い話が終わりました。大袈裟な深呼吸をして、宮本さんが口を開きました。
「クロダくん、大丈夫。私は好きだよ、クロダくんの全部。本当だよ。
クロダくんが吐く嘘も、真実も、白も黒も赤も青も右も左も、関係無しに全部好きだよ」
 クロダくんは一言「ありがとう」と言って、力強く彼女を抱き締めました。
そして二人は、長い長いキスをしました……。

 私はその夜、クロダくんの家を出ました。二人が長いキスをしている時、ベランダからそっと
外の世界へ抜け出したのです。私は後悔していません。私の役目はもうありませんから。
ただ、自分が名無しの野良猫になってしまったこと、愛するクロダくんともう会えないことを
実感した時、どうしても私は悲しくなりました。それでもやっぱり涙は流れませんでした。猫ですから。
 今、私は遠く離れた場所で二人の幸せを祈っています。カラスの黒が曖昧な色の秋空に映えるのを見て、
少し風流な気分です。外の世界も悪くありません。先程もメガネのお兄さんにミルクと缶詰を貰いました。
クロダくん、宮本さん、どうか元気で。そしてこれからも嘘みたいに幸せな日々を……。(了)



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