【 真実 】
◆D8MoDpzBRE




718 名前:品評会用 『真実』 1/5 ◆D8MoDpzBRE 投稿日:2007/01/28(日) 15:36:18.62 ID:5hXihUmf0
「ちょっと、何なのよ。このキスマーク」
 朝日が差し込む寝室に、和美の怒声が響き渡った。二月の肌寒い朝の空気が、布団から出ようとする気力
を奪う。だが目の前に仁王立ちしている和美は、コートまで着込んで既によそ行きの格好だ。
「ん? なんのことだ」
「とぼけるのもいい加減にして。これを見てもしらを切るつもり?」
 まだ目が醒めやらぬ僕の前で、和美は怒りにうちふるえていた。彼女とはつきあい始めてまだ一年に満たな
い。これまで喧嘩らしい喧嘩をしてこなかった二人にとって、このような展開は初めてだった。
 和美が差し出した鏡に映った僕の首筋には、なるほど、口唇で吸ったような跡がくっきり残っている。しかし、
当の僕にはそのような記憶は一切ない。身に覚えのない罪を着せられて大いに当惑する。寝耳に水とは、この
ことだ。
「いや、待ってくれよ和美。本当に何のことだか分からないんだ」
「出て行きます。二度と会うこともないでしょう、さようなら」
 あまりに突然の展開に、寝起き状態の僕にはついていくことが出来なかった。いつの間にか手際よくまとめら
れた荷物を両手に抱えて、和美が乱暴に部屋のドアを開けた。ほぼ毎週末、僕の家に泊まりに来る和美の荷
物が、大きめのボストンバッグ二つ分にようやく収まっている。周囲を見渡すと、和美の持ち物は綺麗さっぱり
消えていた。なんと手際のよいことか、泥棒も舌を巻くであろう仕事ぶりだ。
 バタン、とドアが閉まる。感心している場合ではない。まず、これは誤解なのだと言うことを和美に知らしめて
やらないといけない。僕は寝巻きのまま、大急ぎで和美の後を追いかけた。アパートの階段を下りると、ちょう
どタクシーが遠ざかっていくのが見えた。和美はあれに乗ったのだろう。こんな住宅街の路地裏に、タイミング
良く流しのタクシーが通るとは思えない。予め呼んでおいたと言うことか。なんと用意周到な女なんだ。
 僕は部屋へ戻ると、携帯電話を取りだして和美へかけてみた。着信拒否。全て、先手を打たれた格好だ。
 和美は昔からこういう女だった。奔放さと几帳面さが同居した、一言で言うなら抜け目のない女だったのだ。
 それに加えて、最近はすれ違いが続いてた。こちらは土日出勤も当たり前だったし、向こうの仕事にはそも
そも定休日という物がない。すべからく、結果も見えていたということか。
 僕は、部屋で深くうなだれた。うなだれながら、考えた。ほとぼりが冷めたらしっかり話し合おう。それからでも
遅くはないだろう。何せ、今回は僕の方に非はないのだから。
 いや、和美は僕を見限ったのかも知れない。だから、難癖を付けて僕と別れようとしたのだ。なんてことだ。
みすみす和美の罠にかかったと言うことか。今頃、新しい男でも見繕っているに違いない。
 様々な思いが頭の中を巡り、僕をひどく混乱させた。どう考えても、すぐに結論の出る問題ではなさそうだ。
 くしゃみを一つして、僕は再びベッドの中に潜り込んだ。

719 名前:品評会用 『真実』 2/5 ◆D8MoDpzBRE 投稿日:2007/01/28(日) 15:36:38.46 ID:5hXihUmf0
 中瀬和美と僕が知り合ったのは、大学一年生の頃だ。きっかけはサークル活動。テニスサークルだ。
 社会科学部に在籍していた同学年の彼女は、当時から華があって目立つ存在だった。垢抜けた身なりと勝
ち気な性格が前面に出た、自由奔放な娘だなあ、という印象を受けていた。
 当の僕はと言うと、政治経済学部でちょい真面目キャラを通していた。二人とも、その辺は当時からあまり変
わっていない。
 だが、僕には和美とは違う恋人がいた。衣川智子という、同い年で第一文学部の、ちょっと目立たない娘だ
った。真面目キャラ同士、ウマが合ったのかも知れない。僕らは自然に付き合い出すようになった。
 かねてから、僕は軽い疑問を抱いていた。女の子って、キャラが全然違うのに妙に仲がいいことがある。そ
れは何故なのだろうか。
 和美と智子は、ちょうどそういう間柄だった。陰と陽、とまでは行かないにしても、二人の印象はそれに近いく
らい違った。そして、僕は智子の方を選んだ。
 そんな関係に劇的な変化が訪れたのは去年の春、大学卒業を迎える頃だ。
「一回、智子抜きで飲も?」
 ある日、和美に突然そう提案されたのがきっかけだ。和美は既に新日本空輸の客室乗務員として働いてい
た。いわゆるスッチーってやつだ。彼女の天職、だと思う。
 対する僕は、大東京銀行への勤務が始まっていた。「銀行マンって、ちょっと憧れなの」という和美の言葉に、
すっかり乗せられてしまった。
 居酒屋のカウンター席に二人並んで座り、僕はしこたま飲んだ。何となく智子に対する後ろめたさがあったの
だろう。それを打ち消すように、忘れるように、必死で飲んだ。
 僕は、快感に酔いしれていた。和美は、智子とは決定的に何かが違う。その違いを、ベッドの上で確認しあ
った。そしてこの快感の代償として、僕は智子を失った。二人で積み上げてきた四年間の、あっけない幕切れ
だった。

 年度末が迫り、僕の仕事はますます忙しさを増していく。和美がいないことで開いた僕の心の隙間を埋める
物は、この多忙な日々だ。折しもリストラ・団塊世代の退職という時代の流れが、残された僕たちの労働量を
日増しに増大させていた。
 仕事帰り、就寝前。時間を見つけては和美に電話をかけてみる。携帯電話は、やはり着信拒否だ。家の固
定電話からかけても同じ。会社の電話からかけても、呼び出し音が鳴るばかりで繋がることはなかった。
 ええい、もう勝手にしろ。電話口に出ない相手を無言で罵る。
 もう駄目かも知れないな、という気持ちが芽生えた。

720 名前:品評会用 『真実』 3/5 ◆D8MoDpzBRE 投稿日:2007/01/28(日) 15:37:07.53 ID:5hXihUmf0
「昌文、さん。突然で悪いんだけれど、今日会えるかしら」
 四月も過ぎて、職場が比較的落ち着きを取り戻した頃、智子から電話があった。こうして、電話越しで話すこ
と自体何年ぶりだろう。しかし、カレンダーから逆算するとせいぜい十ヶ月くらいだ。遙か昔の思い出のようで
いて、実はさほど時間は経っていなかったのだ。
「今更何だよ。僕と和美が別れたってのを聞きつけたのかい」
「そんなこと……。ええ、知ってはいたけれど」
 僕の意地悪な応答に、智子の声が曇る。
「まあ、いいよ。仕事帰りに連絡する」
 そう言うと、僕は返事も確認せずに携帯電話を切った。智子に対しては悪いと思っている。そういう後ろ向き
の気持ちが、逆に僕を素直にさせないんだろうな、と思った。
 定時より一時間遅れで銀行を出て、智子に電話をかける。待ち合わせ場所に、居酒屋を指定された。
 智子は、地味な出で立ちのスーツ姿で現れた。和美と比べるとやはり華がない。この一年間で、僕の嗅覚は
すっかり和美の放つ毒気にやられてしまったのだろうか。智子では物足りないような気分がした。
「昌文さん、私たちやり直せないかな」
 居酒屋のカウンター席。僕の意識がアルコール成分でいい具合に醸成された頃、智子がそう切り出した。酔
った席でのお誘いか。智子のやつ、いつこんな技を覚えたんだろう。惜しいかな、そんな陰気な口調で言われ
ても、酔いが醒めるばかりだと言うのに。
「僕は、和美を待つ。ごめん、勝手なことを言うようだけど、あの時の過ちを繰り返したくないんだ」
「あの時って、昌文さんが和美とくっついた時?」
 僕がこくりとうなずく。智子が、ますます陰気なオーラに包まれる。何とも不味い酒になった。
「こんなこと言っちゃいけないんだけど……和美がうらやましいよ」

 和美は帰ってこなかった。あれ以来音信不通が続いており、僕の方から積極的に連絡を取ろうという気も失
せていた。僕の心が諦めで満たされていく中、時折未練の泡沫がぷかりと浮いては消えるだけだった。
 智子とは、月に一度くらい食事を共にするようになった。会食を重ねる内に、最初は悩みで押し潰されそうな
顔色を呈していた智子の顔から、次第に悲壮感が消えていくのが分かった。
「やり直そうか」
 和美が僕の前から消えてちょうど一年経った頃、僕は智子に向かって切り出した。これ以上智子を待たせる
わけにはいかない、と思ったのだ。それを聞いて、智子の顔がパアッと明るくなる。和美のような華はないけれ
ど、例えるなら小さなタンポポくらいの笑顔が、控えめに咲き誇っていた。

721 名前:品評会用 『真実』 4/5 ◆D8MoDpzBRE 投稿日:2007/01/28(日) 15:37:30.43 ID:5hXihUmf0
 平日の市民病院外来待合いでは、溢れかえった患者の群れが喧噪をなしている。中瀬和美は、自分の診
察カードを握りしめながら順番を待っていた。予約を取っていても待たされるのが、市民病院外来の宿命だ。
「中瀬さん」
 ようやく名前を呼ばれた和美は、よいしょと心の中で掛け声を挙げながら椅子から起き上がる。そのままお
ぼつかない足取りで診察室の扉を開けた。
「うーん、最近食べれてないんだって? じゃあ入院だね」
「よろしくお願いします」
 中年医師の言葉に、和美は力なくうなずく。次いで、看護師に入院の手順を説明をされ、入院病棟へと案内
された。今度の入院は長引くのかな、と和美が思う。
「あら、和美ちゃん。いらっしゃい」
 大部屋の窓際から古参の入院患者が和美に手を振っている。前に和美が入院したときから、気軽に話をす
る仲になっていた。六十歳くらいの婦人だ。ベッド脇のネームプレートには『中山』と記されている。
「お久しぶりです、中山さん。お具合はいかがですか?」
「いやだわ、和美ちゃんったら。先生みたいなことを言うのね」
 和美が、自分のために用意されたベッドへ向かう。二畳分のスペースが、和美の生活空間となる。
 昌文と過ごした日々が、今となっては遠い思い出のようだ。親友から奪ってしまった愛。それは同時に、四年
間秘め続けてきた想いが結実した瞬間でもあった。
――神様は、私にそれを永くは与えてくださらなかった。
 和美が溜息をつく。
 次いで、和美は手荷物の中から一枚の便せんと筆記用具を取りだした。これが最後の入院になるかも知れ
ないから。そんなことを思いながら、和美は手紙をしたため始めた。

722 名前:品評会用 『真実』 5/5 ◆D8MoDpzBRE 投稿日:2007/01/28(日) 15:37:52.61 ID:5hXihUmf0
 僕と智子は結婚した。
 二人で住める都内のアパートを奮発した。ローンを完済する頃には、僕の髪の毛は白髪交じりになっている
だろう。智子のために、ガーデニングが出来るテラスのついた小洒落た部屋を選んだ。
「ねえ、昌文。何か届いてるよ」
 僕は、久しぶりに自宅で休日を満喫していた。秋空がすがすがしい日のことだった。智子が、玄関から小綺
麗な封筒を持ってきた。見ると、宛先は僕の旧住所になっている。
――中瀬和美
 差出人の名前を見て、思わず胸騒ぎがした。智子もそれに気づき、ばつが悪そうに顔をそむけている。
 とっくの昔に別れて音信不通になった女が、今更何だろう。逸る気持ちを抑えつつ、僕は手紙を開封した。
『  木田昌文様
 前略 いかがお過ごしですか。智子とは、上手くいっていますか。上手くいっていたら、嬉しいです。もし他の
女の方がこれを見ていたら、昌文さんを許してあげてください。全ては昔の話ですから。
 私はあなたたちに、今までついてきた嘘を謝らなければいけません。昌文さん、ごめんなさい。別れた日のこ
とは、全て私の狂言でした。理不尽な思いをさせて、本当にごめんね。
 智子にも、出来たら伝えてあげてください。オーストラリア勤務だなんて、真っ赤な嘘。地獄に堕ちたら、真っ
先に舌を抜かれちゃうね。だから、どうか天国へ行けますように。
 スキルス胃癌なんだそうです、私。若い女の人に多いんだよなんて、慰められちゃいました。余命一年と言わ
れてから一年が過ぎ、私がこの世にいられるのもあと僅かのようです。あ、でも私を探そうなんて思わないでく
ださい。この手紙は、私が死んだ後に投函するように頼んでおきますから。
 長々と失礼しました。それでは、くれぐれもお体にはお気をつけください。
                                草々  中瀬和美  』

 一週間後、僕たちは和美の墓地を訪れた。和美の御両親の話によると、もう既に四十九日の法要は済んで
いるらしい。暮れゆく秋の中、ススキが力なく風になびいていた。
 墓石を目の当たりにして、ようやく和美が故人であることの実感が湧いてくる。
『出て行きます。二度と会うこともないでしょう、さようなら』
 この言葉だけは、真実だった。今思えば、吐き捨てるように投げかけられた言葉の最後は、少し鼻声混じり
だったかも知れない。
 僕は、真っ赤な彼岸花を和美の墓前に添えた。『真っ赤な嘘』にちなんだ深紅が、赤とんぼの群れの中でひ
ときわ赤く映えている。僕は、そっと口唇をかみしめた。花言葉は、悲しい思い出。



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