【 大人への片道切符 】
◆7wdOAb2gic




202 名前:大人への片道切符1/5 ◆7wdOAb2gic 投稿日:07/01/28 14:15:33 ID:piuKUB7r
 年配の男性特有の匂い。饐えたようなあの匂いが、私の嗅覚を刺激してきた。
 午前で大学の講義が終わり、友人と昼食を取った後、一人暮らしのアパートへ帰る電車
の中。初冬ではあったが、窓からは心地よい陽気が差し込んでいた。それが車内の暖房と
あいまって、抗しがたい眠気に身を委ねはじめた時だった。
 どこかの駅に着き、人の乗り降りが一通り収まりをみせた後、隣の座席に人が腰をかけ
る気配がした。
 ゆっくりとした動作で、座席に着く気配が感じられたのと同時に、周囲の空気がふわり
と巻きあがった。
 うとうとと目を閉じたまま、鼻から息を吸い込んだ瞬間、遠い昔のある夏の一日の情景
が、不意に脳裏に甦ってきた。
 私は予告もなく押し寄せてきた記憶に、軽い戸惑いを覚えながらも、薄く目を開け、隣
に座った人の様子を窺った。
 杖を突き、こざっぱりとした服装の七十歳くらいの男。
 この見知らぬ男の発する体臭により、いましがた、私の頭の奥底から呼び出されてきた
あの老人。それとは、似ても似つかぬ顔の赤の他人だったことに、とりあえずほっと胸を
なでおろした。
 眠気も吹き飛び、完全に覚醒した状態で、冷静に考えてみたが、あの老人がこんなとこ
ろにいるはずがないと思いが及び、動揺した自分に対して、自嘲気味に口辺を歪めた。


203 名前:大人への片道切符2/5 ◆7wdOAb2gic 投稿日:07/01/28 14:16:37 ID:piuKUB7r
 七年前――私は小学六年生だった。待ちに待った夏休みを迎え、塾の講習や、大量の宿
題に追われながらも、手足を真っ黒に日焼けさせ、充実した毎日を過ごしていた。
 八月に入り、ようやく本格的に取りかかった夏休みの宿題の中に、太平洋戦争のことを
調べて感想をまとめるというものがあった。
「なるべく戦争を実際に体験した人に話を聞いてみて下さい。あなたたちのお祖父さん、
お祖母さんや近所のお年寄りとか。まわりに聞ける人がいなければ、戦争の本を読んだり
映画を見たりして、感想を作文にして下さい」
 担任の先生は、この宿題を出す時に特にこう言った。私の祖父は、父方も母方もすでに
他界しており、二人の祖母のみ遠方に健在であった。遠距離に電話することになるため、
母親に相談したところ、母は少し首を傾げた。
「お祖母ちゃん二人とも戦争の時は、まだ小さかったはずよ、それにどっちもすごい田舎
だったから、作文になるほどの体験は、してないんじゃないかしら」
「ふーん、じゃあ図書館に行って、適当に調べるしかないか」
 電話だけで済ませてしまおうという目論見がはずれ、軽く落胆していた私に向かって、
母が言った。
「母さんの担当している、お年寄りにすごくいいおじいさんがいるわよ。昔、兵隊さんだ
ったって言ってたし、独り暮らしで話好きだから、あんたが行けば喜ぶわよ。そうだわ、
そうしましょう。明後日訪問するから、予定入れちゃだめよ」
 私の母は、町内の独居老人を見廻る民生委員をやっていたので、丁度よい人物を見繕い
私の同意も得ずに勝手に決めてしまった。
 面識の無い人と話をするのは、あまり気が進まなかったが、母もいることだし、適当に
相槌を打っていればいいかと思い、渋々承諾した。


204 名前:大人への片道切符3/5 ◆7wdOAb2gic 投稿日:07/01/28 14:17:52 ID:piuKUB7r
 二日後、安川という名の老人を母と一緒に訪ねた。家はこじんまりとした平屋の一戸建
てで、垣根のすき間からは、よく手入れをされた、小さな庭が見えた。
 私は手土産の西瓜を両手に抱えさせられていた。とても暑い日で、汗を含んだTシャツが
素肌にまとわりついて、気持ちはよくなかった。
 母が訪ないも入れずに、庭の方へ廻ったので、おとなしく後をついていった。
 部屋の中で庭を眺めながら、メモ帳とペンを持って、難しそうな顔をしているのが、安
川だった。
「安川さん、こんにちは。いい句できた?」
 母の声に安川は、顔をあげながら笑い声で答えた。
「いや、全然だめだね。暑さで頭ものぼせちゃって、使いものにならないや」
 一草木も生えていない、赤味を帯びた頭頂部を、つるりと撫でながら、私の方に柔らか
な視線を向けてきた。
「これ娘の由希。安川さんの戦争の話が聞きたいって言うから、連れてきたのよ、迷惑で
しょうけど、よかったら話をしてあげて頂けません?」
「全然構わないよ、戦争の話が聞きたいだなんて、感心なお嬢ちゃんだね」
「夏休みの宿題なのよ、この娘が自発的にそんなこと言ったら、天地がひっくり返っちゃ
うわ。安川さん、お台所お借りしますよ」
 母は笑って話ながら、私の手にあった西瓜を取り上げて、縁側から家の中にあがってい
った。
「お嬢ちゃんも、色々大変そうだね」
 安川は人懐っこい笑みを浮かべながら、所在なく庭に立っている私に話かけてきた。
「由希、西瓜切ったから、こっちにあがって安川さんと一緒に食べなさい。お母さんは他を
廻ってから、スーパーに寄って買い物した後、家に帰るわね。安川さんの言うことちゃんと
聞くのよ。じゃあね」
「ちょ、ちょっと待って……」
 唐突な母の言動に驚き、ようやく喉の奥から声を絞り出した時には、すでに母は庭を横切
り、垣根の向こうを歩み去ってしまっていた。

205 名前:大人への片道切符4/5 ◆7wdOAb2gic 投稿日:07/01/28 14:18:40 ID:piuKUB7r
 呆然としながら、母を見送っていた私に、安川がやさしく声をかけてきた。
「こっちに来て西瓜食べな」
「はい、おじゃまします」
 小さな声で返事をして、縁側から部屋にあがった。小さな丸い卓袱台を挟んで、安川と向
かい合い、畳の上に敷かれた座布団に腰をおろした。
 こうして同じ部屋の中で、改めて目の前の老人をそっと観察してみると、白いランニング
シャツとカーキ色のハーフパンツを着て、西瓜にかぶりついている安川は、思いのほか小柄
だった。
 先に食べ終えた安川が、コップに麦茶をついで私に差し出してくれた後、ゆっくりと語り
始めた。
 生い立ちや戦争前の出来事の簡単な説明があり、兵隊に召集され赴任したフィリピンのあ
る島での体験に話は移っていった。
 私はノートをとりながら安川の話を聞いていたが、時折ユーモアを交えつつ語られる、想
像を絶する過酷なエピソードの連続に、いつしかひきこまれていった。
「――その島で、わしらの隊は人が逃げ出し、空っぽになった村に到着したんじゃ、わしは
斥候っていう、危険がないかどうかを先に調べる役目をしておった。木の板で作られた、粗
末な家を一軒づつ中に入って、見て廻ったんじゃよ」
 安川は麦茶を一口啜ってから話を続けた。
「最後に牛小屋を調べたんじゃ、わしはそこで積み上げられた藁の中に隠れている、女の子
を見つけた。足を怪我して置き去りにされておったみたいで、丁度お嬢ちゃんくらいの歳の
子でな……」
 急に声が途切れた為、私はノートから顔をあげた。そこには、飛び出しそうな目で、私の
顔、身体を凝視する安川の顔があった。
「そっくりだ。わしは……その子を……」
 安川はそう呟くと、いきなり卓袱台の上にあった私の腕を掴んだ。予想もしない事態に頭
の中が真っ白になった――


206 名前:大人への片道切符5/5 ◆7wdOAb2gic 投稿日:07/01/28 14:19:33 ID:piuKUB7r
 むしゃぶりつく老人、間近にせまる皺だらけの顔、気分の悪くなる体臭。
 ここで急に私の記憶は断片的になったが、私はこの日嘘をついたことを憶えている。
 帰宅した後、何事も無かったかのようにふるまった。母には安川のことをよい人だと言っ
たと思う。
 それまでにも、何かいたづらを隠すために、他愛もない嘘をついたことは、あったかもし
れない。
 しかし、そんなものとは比べものにならないくらい、この嘘は私に変化をもたらした。
 私はその日を境に幼かった自分と訣別し、後戻りのできない世界に足を踏み入れた。
 
                   完



BACK−嘘 ◆nzzYI8KT2w  |  INDEXへ  |  NEXT−ギリンガー ◆qM/Uyf7mxE