【 エンディング・ストーリー 】
◆2LnoVeLzqY




244 名前:エンディング・ストーリー 1/5 ◇2LnoVeLzqY 投稿日:2007/01/21(日) 22:30:37.81 ID:n+sXkas90
『妹が隣の部屋でオナニーしてる』というスレタイに俺は即座に反応する。クリックして開けば数秒後にはもちろん腹筋に勤しむ俺の姿がある。
 背筋ではなくて腹筋。村上春樹ならばここで、背筋でも腹筋でもどちらでも同じことだ、と表現するのかもしれない。しかし俺にとっては、背筋ではなく腹筋であるということが重要なのだ。
 なぜか。彼女と行為に及ぶときには腹筋が割れていた方がカッコいいから、と俺は答える。筋肉は見せるためのものだ。背筋では意味がない。帰宅部の俺が言うんだから間違いない。
 問題は、俺に彼女がいないということ、ただそれだけなのだ。

 この板は――VIPは――あまりもに居心地が良い。良かった。良すぎた。理由はわからない。
 しかし誰にだって、そういうことがあると思う。
 ――わからないけど良い。理由はないけど好き。
 たとえば好きな色のこと。
 俺は緑が好きだ。赤は嫌いだ。だけど理由はわからない。なんとなく、緑色が好きなのだ。
 たとえば好きな風景のこと。
 俺は空を見るのが好きだ。澄んだ水色に白い雲がぽっかりと浮かんだ晴れた日。淀んだ灰色が空を占める雨の日。そのどちらも俺は好きだ。けれど理由は、やはりわからない。
 たとえば好きな、2chの板のこと。
 俺はこのVIPという板が好きだ。無駄に有能な奴らと本当に無能な奴らが一緒になって馬鹿騒ぎしている様子を見るのが好きだ。それも傍観者としてじゃなく、自分も一緒になってそこに混じるのが好きだ。
 意気地のない奴が女の子に宛てるメールの内容を華麗なものに変えてやるのが好きだ。拝めるはずのないおっぱいを夢見て一心不乱にkskするのが好きだ。この板の、あらゆることが俺は大好きなのだ。それには、理由なんかない。
 たぶん心の奥底の、何かもやもやした部分にぴたっとくるものがあったんだろうな。そう今では思う。
 母親が階段を上がってくる音が聞こえ、俺はとっさに開いているスレの一覧に目を走らせる。
『妹』『オナニー』『おまんこまんこ』『幼女兼妖精』『おっぱい』その他もろもろ。
 無理だ。圧倒的に無理だ。何が無理って、俺が母親の立場なら、自分の息子がこんな状態だという現実を受け入れることが無理なのだ。
 専用ブラウザを閉じる。それから何事もなかったかのようにIEを開いて、見たくもないニュース記事を眺める。
 なるほど今日は総理大臣が韓国を訪問したのか、ふむふむ。日本と韓国がいつか仲直りすればいいな、などと思ってもみないことを口走っていると部屋のドアが開いた。

245 名前:エンディング・ストーリー 2/5 ◇2LnoVeLzqY 投稿日:2007/01/21(日) 22:31:11.92 ID:n+sXkas90
「洗うものあるかい?」
 母親が俺の背中に言う。温かくはないが決して冷たくない声。面倒だという気持ちを全く表に出さぬ声。実際のところ、本当に面倒だとは感じていないのかもしれない。習慣というのはそういうものなのかもしれない。
 俺は立ち上がって、ベッドの横に置いてあるシャツを二枚、母親に渡す。それから母親の目を見ずに俺はパソコンの前に戻る。
「少しはバイトしなさいね。……若いんだから、働け働け!」
「……わかってるよ」
 半ば冗談のように母親は言い、わかってないけど俺は答える。それきり母親は何も言わない。習慣とはそういうものなのだ。
 背後でドアが閉まる音。洗う必要のあるものを取りに弟の部屋に行ったのだろう。弟は高校に行っていて、今はいない。
 ……俺だって一応は大学生だ。一応。真っ昼間から自室でパソコンの前に座るような文学部生。そりゃあ彼女はできやしない。
 再び専用ブラウザを立ち上げる。更新。一番上にあるスレのタイトルは『暇だから彼女に安価メール』。
 嬉々として俺はそのスレを開き、安価を狙う。自分には彼女がいないという現実はしばしの間忘れる。
 >>100を狙ってスナイプ。『突然だが別れよう』。イヤッホォォォォウ。それがVIPという板なのだ。

 
 停滞の再生産。同じような日々の繰り返し。進歩のない現実。それは日常でもVIPでも同じことだ。
 だけどたまに、ごくごくたまに、何かが変わる瞬間というのを見ることができる。あれは俺が高校三年のときの、夏休みのことだった。
『ちょっと北海道行ってくる』
 そのときいくつか存在した旅行スレの中でもこれが俺の目を引いたのは、きっと俺が北海道在住だったからに違いない。
 とにかく俺はそのスレを開いて、>>1――ねこたまと名乗っていた――とスレ住人たちとの、それまでのやりとりを目で追った。
 そしてふと気がつけば、俺もそのスレ住人の中に加わっていたのだ。
 彼は――ねこたまは――アホでマヌケで、そして、アイドルだった。馬鹿げた言い方かもしれないが、彼にはそれだけの素質があったように思うのだ。
 スレ住人はみんな彼を見守った。親鳥が雛を見守るがごとく。鉢に植えた苗の成長を楽しむがごとく。
 東京から札幌へ、ママチャリで旅をする彼に、スレ住人たちはいろいろな思いを馳せていたんだと思う。
 部屋に引きこもっていても、ディスプレイの向こうには旅があった。誰とも喋らなくても、ディスプレイの向こうには彼と人との交流があった。
 そうして長い長い旅が終わったとき、スレの中に湧き上がった祝福を、俺の中に湧き上がった感情を、俺は決して忘れないだろう。

246 名前:エンディング・ストーリー 3/5 ◇2LnoVeLzqY 投稿日:2007/01/21(日) 22:31:48.88 ID:n+sXkas90
 
 ふと思い出す。センター試験が翌日に控えていても、俺はVIPの喧騒の中にいたのだと。
『明日センターの奴ちょっと来い』。行く行く。喜んで行くとも。
 スレを開けば舞い踊るオワタの三文字。まだ始まってすらいないのに気が早い奴らだ。
 俺はと言えば冬休みの間、綿密な計画を元にあらゆる試験問題を解いて解いて解きまくっていた。だから万全だ。センター八割など容易い。
 また書き込まれるオワタの三文字。カナダの首都はオタワ。そんな俺の得意教科は地理。そして本番では教科選択のマークを忘れる俺。結果は聞かないでほしい。 
 結局のところ、大学にはかろうじて転がり込むことができた。
 運が良かったのかもしれないし、俺の実力のおかげかもしれない。今となってはどちらでもいいことだ。
 そんなふうにして入学式を待っていた、ある春の日のことだった。
『文才ないけど小説かく』
 小説。たったふたつのその漢字が、俺の心の奥底の、何かもやもやした部分にぴたっと来る。でも今回はその理由がわかる。俺が入学する予定の学部は、文学部。
 そしてスレを開く。その瞬間、俺の中に高揚感が満ち溢れるのがわかった。
 何かを書きたい。レスを読むにしたがって増える欲求。頭の片隅では、いつか小説を書いてみたいとずっと思っていた。
 レスを読み終わり、最初のレスをし、スレ住人の仲間入りを果たしたとき、俺はずっとこのスレを待っていたのかもしれないな、と思った。
 それ以来、何かが変わった。けれど何が変わったのか、と聞かれれば、答えに困ってしまう。
 自分の身長が伸びる瞬間を感じたことは? ケガをした部分に血小板が集まるのを感じたことは?
 その何かの変化は、そんなレベルの小さな変化だった。一週間の生活リズムが品評会中心になったのは、確かにひとつの要因かもしれない。けれどそれは根本的な変化ではない。
 心の奥底の、何かもやもやした部分が、ひとつの形をつくっていく。そんな変化。
 その形を、俺は言葉で表したくはない。言葉にした途端、その形がぱっと崩れてしまいそうな気がするのだ。小説を書くのは、ただの趣味? はたまた――?

248 名前:エンディング・ストーリー 4/5 ◇2LnoVeLzqY 投稿日:2007/01/21(日) 22:32:18.05 ID:n+sXkas90

 そのハイフンの先を言えぬまま、それでも月日は飛ぶように過ぎた。
『妹の部屋から喘ぎ声が聞こえる』というスレタイに俺は相変わらず即座に反応する。クリックして開けばそこには腕立て伏せをする俺の姿がある。
 彼女と行為に及ぶときには、腕力によって自分の体を長時間支えなくてはいけない。それはとても大事なことだ。
 もはや腹筋は、綺麗に六つに割れていた。問題は、俺にはいまだに彼女がいないということなのだ。
 そして母親が階段を上がる音。専用ブラウザを閉じ、IEを開いてニュースを見る。なるほど、ビックマックのでかい奴が発売するのか……。
「洗うものあるかい?」といういつもと変わらぬ母親の声。
 俺は立ち上がりベッドの横にかけてあるシャツを三枚母親に渡す。母親は無言でそれを受け取り、俺は目を合わせずにパソコンの前に戻る。習慣とはそういうものなのだ。
「バイトの調子はどうなの?」
「……別に」
 本当にどうでもいいことなので俺は言う。家庭教師。それが俺の初めてのバイトだった。
 中学英語なんて誰でも教えられる。特別な感慨はない。けれど少しだけ、現代文を教えてみたいなとは思っている。
 背後でドアが閉まる音。俺は専用ブラウザを立ち上げる。そしてそこに表示されている文字列をもう一度見る。
 名前:閉鎖まであと 10日と 9時間[] 投稿日:2007/01/13(土) 11:03:25.47
 閉鎖。VIPの閉鎖。しいては2chの閉鎖。それはひどく空虚で、まるで現実味を帯びていない響きだ。
 全てのものは終わる。かたちある物は全て壊れる。祖母がよく口にした言葉だった。
 それでも、何もかもを無視して時間は流れる。カウントダウンは着実に進む。俺は相変わらず小説を書く。相変わらず腕立て伏せをする。そして、始めたばかりのバイトに行く。
 ふと、いつかの夏休みの、あのスレの、ねこたまの旅を思い出した。
 あの旅が終わりに近づくにつれて俺の中に湧き上がっていった感情を、今ならはっきりと説明できる。
 あれは、終わりに対する悲しみだ。嘆きだ。ひとつの大きな何かが終わることを、本当に残念に思う気持ちだったのだ。
 小説を読んでいるとき。映画を見ているとき。終わって欲しくない、この物語に浸っていたい、と思うことが何度もある。
 あの感情は、それと同じだったのだ。旅という物語の終わり。その物語にずっと浸っていたいという願い。
 それは空しい想いだ。叶えられない祈りだ。それでも俺は、終わって欲しくないと願った。
 けれど旅は終わる。そのとき俺が感じたのはきっと、果てしない寂しさを紛らわすための晴れやかな気持ちだったのだと思う。

249 名前:エンディング・ストーリー 5/5 ◇2LnoVeLzqY 投稿日:2007/01/21(日) 22:32:48.70 ID:n+sXkas90
 
 否応無しにカウントダウンは進む。専用ブラウザに目をやれば、そこにあるのは閉鎖まで残り一日という表示。
 それが意味するのは、VIPという物語の終わり。
 VIPは何も変えない。そこにあるのは、ひたすらな停滞の再生産。同じものの繰り返し。
 けれどたまに、ごくごくたまに、何かが変わる瞬間というのがある。
 それはVIPそのものが何かを変えようとするからではない。VIPを見ている人、関わる人が、「変わる」からだ。
 たとえば腹筋が割れたりする。たとえばバイトを始めてみたりする。たとえば、小説を書いてみたりする。
 それは物語の力だ。物語はただそこにあるだけ。けれど読む人によって、それぞれの受け取り方がある。
 俺の場合、その物語を読んだ結果が、腹筋と、バイトと、小説だった。ただそれだけの話なのだ。
 その物語も、もう終わる。けれど俺の腹筋は割れたままだし、バイトは続くし、小説も書きつづける。
 言えなかったハイフンの先。「夢は小説家ですか?」という質問の答え。今なら言えるだろうか。
 終わった物語を置き去りにして時間は進む。過去から未来へと時間は進む。俺自身の物語は、死ぬまで続いていく。
 VIPという物語から、あなたも何かを得られればいいと思う。
 その何かによって、あなたの中にも変化が訪れればいいと思う。
 たとえどんな小さな変化でも、それがあなたにとって大事なものになればいいと思う。
 
 名前:閉鎖まであと 0日と 0時間[] 投稿日:2007/01/23(火) 21:00:00.00
 俺は今ここで、ありがとうを言おう。
 本当のところ、果てしない寂しさを紛らわすためなのかもしれない。けれど、それでも構わないと思う。
 これは何かを変えてくれたVIPへの、心の底からの晴れやかな、感謝の気持ちなのだから。



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