【 さしのべた手を取り走る者 】
◆D7Aqr.apsM




233 名前:さしのべた手を取り走る者 1/5  ◆D7Aqr.apsM 投稿日:2007/01/21(日) 22:05:45.16 ID:6tnYyaXo0
 あたしが『大橋駅のあたりにいる奴、ちょっとこい』 というスレッドを見つけたのは、
二十二時を回った頃だったと思う。言わずと知れた、某巨大掲示板群の片隅、
ニュー速VIP板での話だ。
 普段なら、もっとメジャーな駅で立てられる事の多いタイプのスレッドなのに、こんな
片田舎の駅が話題になるなんて珍しい。そう思って、何気なく開いてみた。
 最初の文章が目に飛び込んでくる。

『助けて欲しい。今、大橋駅にいる。どうしても、あるものを明日の十時までに成田空港に
とどけたい。なんとかここまでやってきたけど、限界みたいだ。補導されて、今、駅の
側にある交番にいる」
 その後はしばらくおきまりの、交番の画像を見せろ、だのというレスが続く。
『何をとどけたいんだ?』
 という質問が投げかけられると、はたして、スレッドを立てた主はそれに答えた。
『信じてくれるかどうか解らない話だけれど、聞いて欲しい。おいらの友達、
外国人なんだ。もう、知り合ってから六年以上経ってる。国が内戦状態で、
難民申請をして、日本で暮らしていたんだけど、急に日本が特別在留許可を
取り消して、難民申請を受け付けない、という事を決めた」
 書き込みは続く。
「そして、とうとう彼女は日本を離れる事になってしまった。回りの大人達と
一緒に、色々やってみたけれど、結局、国は動かせなかったよ。最後に渡そうと
思っていたものがあったのだけれど、彼女、入国管理局からそのまま空港に
向かうことになってしまって。――おいらは、もう、金もない。警察に補導されてしまった、
本当に文字通りの厨房だ。でも、どうしても渡したいものがあるんだ。誰か、代わりに
とどけて欲しい。もう、時間がない。頼む。誰か、力をかして欲しい」
 一緒に書き込まれた、携帯で見ることができる画像のリンクを開くと、そこには
ミッフィーの小さな人形が写っていた。おそらく、手のひらに隠れてしまうようなサイズだ。
『人形のある場所は?』
 あたしはキーボードに指を走らせた。返事を待っている間に、財布の中身を確認する。
『駅前の……』
 人形の隠し場所を確認すると、あたしは立ち上がり、コートとヘルメットを手に取った。

234 名前:さしのべた手を取り走る者 2/5  ◆D7Aqr.apsM 投稿日:2007/01/21(日) 22:07:33.87 ID:6tnYyaXo0
『指定の時間までにとどけるなら、電車はあり得ない。夜通し走るしかない。
とりあえず県境のサービスエリアまで運ぶ。そこから誰か車とか出せる奴いないか?』
 あたしは携帯からそう書き込むとスクーターを走らせ始めた。風が冷たい。
 二百ccの排気量を持つ、イタリア製の赤いスクーターは、少しだけ不満そうな
エンジン音を響かせながら、真っ暗な駅のロータリーへ滑り込んだ。エンジンを切って、
スタンドを立て、指定された場所を探ると、小さな人形が寂しそうに座らされていた。
 駅前で唯一灯りをつけられた建物、交番の方を見ると、中に数人の人影が見える。
その中に一つ、小さな人影。あたしはコートの内ポケットに人形を入れた。
 ヘルメットをかぶり、ゴーグルを締め直すと、携帯を取り出した。
『釣りじゃないぞ。人形発見。これから走る。到着予定時刻は――』
 クラクションを一つだけ鳴らし、走り始める。交番に向かって、軽く手を振ってみた。
見えないだろうけど。

 高速道路は、山の間をゆったりと蛇行しながら走っていった。
 小さな、申し訳程度につけられたランプが照らし出す路面は、幻灯機の中の
風景のようだった。ただ、ひたすらに回り続けるエンジン音が頭の中でこだまする。
『なんだよ、アシがあるなら最後までいけよ』
『イタリア製の古いスクーターなんだ。絶対エンジンが持たねえ。自信がある』
『それはそれである種、痛車だな』
『誰が上手いことを言えと』
 出発前の書き込みが頭をよぎる。
 トンネルへ飛び込む。視界がオレンジに染まる。排ガスのせいで、少しだけ
外よりも暖かい。前にも後ろにも一台の車も走っていない。
 トンネルの出口。ぽっかりと黒い穴に飛び込むような錯覚を覚える。エンジン音が消えた。
 闇に目が慣れると、道の先に薄ぼんやりと明るい場所が見えてきた。待ち合わせの
サービスエリアだ。少しずつ、エンジンの回転を落としながら近づいていく。一気に
回転を落とすと、エンジンが焼き付く可能性があった。近くに一台も車がいないのを
確認して、徐行するような速度でサービスエリアへ入っていく。休憩所の前で、止まった。
 あたしはゴーグルをずらし、携帯電話を取り出した。
『到着した。赤いベスパだ。休憩所の前にいる。声をかけてくれ』

235 名前:さしのべた手を取り走る者 3/5  ◆D7Aqr.apsM 投稿日:2007/01/21(日) 22:07:50.73 ID:6tnYyaXo0
 高速道路脇のまっすぐな道。いつもなら、制限速度一杯で走り抜ける場所。
 それがどうだ。今やまるで巨大な駐車場のようだ。
 前後左右、ぴくりとも車は動かない。不幸なことにこのあたりには横道も存在しない。
 ハンドルを力任せに叩く。拳に痛みが走った。無線機を掴む。
「なあ、なんとかなんねーか? 仲間に聞いてみた話じゃあ、事故でクレーン車が
来るまでは、どうにも動けねえくらいひでえって話だ」
「解った、みんなに聞いてみる」
 スピーカーから緊張した声が帰ってくる。おいおい、結婚してからこっち、
妻のあんな緊迫した声を聞くのは初めてじゃないか?
 
 数時間前。サービスエリアには数人集まっていたものの、誰もが一長一短だった。
速そうな大型バイクだが、金欠な奴。車だが、遠距離を走った事が無い奴。
 ここまで運んできた奴なんざ、イタリア製の骨董品といっていいシロモノだ。
そして俺はつい数分前に無線で妻からここへ来ることを依頼されただけの男。
 多分、七百キロ以上の距離を、確実に運べる、という事を前提にした方がいい。
 そういう結論に達し、長距離トラックの俺が引き受けることになった。
 出発するとき、バックミラーで見てみると一列に並んで敬礼しているのが見えた。
──変わった連中だ。あれで全員が初対面というのは気味が悪い。
 そんなことを無線で妻に告げると、彼女はひとしきり爆笑したあと、ゆっくりと言った。
「いい? とにかくきっちりこなすのよ。クオリティ低いのは許されないんだから」
「許されねえって、誰にだよ?」
「自分自身よ」
 さっぱり解らない。ただ、ひたすら走った。
 空港までたどり着いたら、放送で女の子を呼び出す。そしてこの人形を渡せばそれでいい。
 順調に休憩を取りながら東京都内に入ったのは午前8時。十分に間に合う時間だった。
 空港最寄りのインターで降りた。思えばその時、遠く衝突音を聞いた気がする。
 5分も走らないうちに車の流れが止まった。サイレンの音が聞こえるまでしばらくかかった。
 そして今。
 空港から二十五キロ。
 俺はじりじりしながら助けを待っている。

236 名前:さしのべた手を取り走る者 4/5  ◆D7Aqr.apsM 投稿日:2007/01/21(日) 22:08:11.03 ID:6tnYyaXo0
 リノリウムの堅い床で、何度も転びそうになりながら、僕は空港のロビーを走っていた。
 ペダルと靴を固定するための靴底の金具が耳障りな音を立てる。
 人の呼び出しをするインフォメーションカウンターに倒れ込むようにして手を突くと、一つ
深呼吸をして、まくし立てた。
「呼び出しをおねがい、します。渡さなければならないものがあるんです。名前は──」
 受付嬢はサイクルジャージ姿の僕を見るとひきつった笑いを浮かべた。

「後ろの扉にデカくアルファベットの『H』と人のシルエットが描いてあるトラック……」
 みつけた。あのトラックだ。ペダルをこぐ脚に力を込めた。ドロップハンドルがつけられた、
ロード用自転車で僕はトラックへ近づいていく。

 僕は夜中過ぎからスレッドを眺めていた。空港近くに住んでいるから、まあ、本当に
到着するなら見物に行こうかな、くらいな考えだ。そして今、人形は渋滞にはまっていた。
──やるか? でも、失敗したら。
 考えながらストレッチを始める。書き込みされていたあたりの地図を思い浮かべる。
 五分後。スレッドはまだ混乱の中にあった。
『誰か、自転車で行ける奴いねえか? 頼む』
 僕は返事を書き込むこともせずに、部屋を後にした。時間が惜しい。

 トラックの窓を軽く叩くと、すぐにガラスが降ろされた。人形が入った袋を受け取ると、
ジャージの背中にあるポケットに入れ、無言で走り始めた。
 高速道路の測道は、事故現場を抜けるとあっさりと車が減った。走りやすい。
しばらく走ると何故か沿道に旗を振る人や、水を差し出す人がでてきた。
――なんだかな。苦笑いしながらボトルを受け取る。最後の坂道を、僕は上り始めた。
 
 三度目の呼び出しが流れる。
『今呼び出してもらってる。案内の人は、出発時間を考えると、もう出国しているだろう、
って。電池が残り少なくてこれ以上書き込めそうにない。なんだ、その、――すまん』
 書き込みが終わったところで、携帯の電池が切れた。大きな窓の外には静かに
たたずんでいる飛行機が見える。僕がこれたのはここまでだ。

237 名前:さしのべた手を取り走る者 5/5  ◆D7Aqr.apsM 投稿日:2007/01/21(日) 22:08:39.51 ID:6tnYyaXo0
 ぽん、と軽いアラーム音がして、シートベルト着用のサインが消える。
 出発の遅れを謝罪するアナウンスを聞き流しながら、私は窓の外を眺めていた。雲の
隙間から、何ヶ月か前までは自分がそこにいる事を疑わなかった場所が見える。二度と、
戻ることはできないのだろうか。私の場所は、間違いなくここにあったのに。
 いつのまにか、隣に座った母が私の手を握っていた。
「ちょっと、トイレに行ってくる」
 泣きはらした目を隠すようにして、私は席を立った。座席よりも後ろの方にあるトイレへ
向かう途中で、フライトアテンダントの女性とすれ違った。この国らしい、明るく柔らかい笑顔。

 トイレの中で、鏡を見つめる。
 顔を洗って、そして、もう泣くのはやめよう。これからを考えなきゃいけない。
 目を閉じ、ゆっくり、大きく息を吐く。悲しさを追いだす為に。ドアを開き、通路に戻った。
 自分の席がある方を見ると、母親が制服を着た飛行機のクルーと話をしているのが
見えた。白髪交じりの男性は、近づいてくる私を見つけると、軽く一礼し、去っていった。

 座席を見ると、ぽつんと小さなウサギの人形が置かれていた。
 母は微笑みながら私を見上げていた。機長さんなんですって。短く言う。
 遠い記憶が呼び起こされる。日本での初めての友達。私の髪や瞳の色を気に
しないで遊んでくれた、やせっぽちで、少し恥ずかしがり屋な男の子。
 この人形は、その子が肌身離さず持っていた人形。眠るときも手放さないのを、
赤ちゃんみたいだ、といって私が笑った人形。彼にとってのライナスの毛布だ。
 人形を掴むと、私はコクピットへ向かう人を、早足で追いかけた。この人形がここに
来ることができるわけがないのだ。
「あの、この人形ですけど、どうやって……」
「頼まれたんです。色々な人たちにね。今日ほど自分がこの職業で良かったと
思った日はありませんよ。この人形をあなたの手にとどけられるなら、多少出発が
遅れたってかまやしません。なに、気流にのればすぐに取り返せます。
――お国へ行かれても、がんばってください。では」
 男性はにやり、と笑って踵を返し、両手を真横に、まるで翼のように広げた。そして
そのまま、エンジン音を口まねしながら、早足にコクピットへと去っていった。



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