【 昏い炎 】
◆gQ7S45WYZA




19 名前:昏い炎 1/5 ◇gQ7S45WYZA 投稿日:2007/01/14(日) 22:22:49.00 ID:7bVc2NAn0
1.
 あたしが孤立しているのは昨日、今日からの話ではなかった。
遡れば小学生の時分になるだろうか。「ある日」からあたしと口をきく子はいなくなり、目を逸らされるようになった。
それから中学にあがるまで執拗ないじめの日々が続くのだが、あたし自身の精神の保身のため回想は割愛する。
 とにかくそんな出来事からあたしの人嫌いが始まった。
 やがて中学生になるとすべての人を憎むようになった。そして高校生になると万事において無関心になった。
大学生になると、もうどうでもよかった。他人は目に入らなくなった。
 大学を卒業してからは就職した。院に行くことも考えたが、それより親の傘下から抜け出したいという気持ちの方が強かった。
「他人」の枠が家族にまで及んでいた。あたしは一人で生きていけるし、それを望んでいる。あたしは一人でいい。

2.
 あたしの瞳は浴槽にお湯が溜まるのを映していた。
だが映るばかりで脳はそれに反応しようとしない。同様に、どぼどぼと蛇口から零れる水の音も耳に届かない。
 意識は記憶の中を旅している。人が現れる。風景が職場のオフィスになる。
 吉岡は四年上の先輩である。作業をこなす能率は(新卒社員のあたしから見れば)並。
けれど仕事にかける情熱には目を見張るものがあった。
 最初は人の下で働くことに嫌悪感しかなかったが、他の同期たちの状況を見る限り、
あたしが吉岡の部下になれたのは遙かにマシだったと言えよう。

 ミスをしたのは彼の方だ、と今でも思っている。
 とある企画のプレゼンが吉岡の当面の仕事だった。もちろん部下のあたしもそれに付き合うことになる。
あたしは資料部分の制作を指示された。
 彼は常々、「言われたことだけをやる奴は無能だ」と言っていて、その点にはあたしも同意していた。
だからあたしは彼の要求したこと以外でも、自分で気が付いた点はどんどん資料として盛り込んだ。
 しかしそれがいけなかったらしい。あたしの判断で追加した資料の一つ……客の推移を示す折れ線グラフを足がかりにして、
部長たちは企画を突っぱねた。最期に「検討が足りん」との言葉を賜って、会議は終わった。
 その日、彼と飲みに行くことになった。
断ろうかとも思ったが、職務の延長線上、という意味合いが強かったため、それは出来なかった。
お給料に響くようなことは避けたかった。
 店内に入って注文をしてからはお互いに謝罪を繰り返していた。

20 名前:昏い炎 2/5 ◇gQ7S45WYZA 投稿日:2007/01/14(日) 22:23:31.11 ID:7bVc2NAn0
不毛な光景に見えたろうに。あたしはサラリーマンの儀礼だ、と思いこむようにしていた。
 やがて酒が回ってくると、吉岡は段々と口数を減らしていった。そして遂に「なぜあんなグラフを編集したんだ」と漏らした。
 グラフというのは数値情報を視覚的に与えることができる。作り方いかんでは同じデータを元にしていても
印象を百八十度違ったものにして仕上げることだってできる。
 彼はあたしがそれを怠ったと言う。そうして「あの無能部長にそんなデータ必要ないだろう!」と人目を憚らず怒鳴りつけた。
 事実、今回の企画には「客数が少ないほど、可能性がある」という主旨だったのだが、
蒙昧無知なる部長殿はそれを勘違いして受け取ったようだった。そして斯様な結果を導いた。そのグラフのせいで。
 あたしはそれに反論した。
作成した資料はすべて吉岡の事前チェックを通り抜けていたのだ。あたしは先輩のチェックが甘かったのだと切り返した。
 大体、部長の誤解を晴らせなかったのも実際に発表を行った吉岡の責任だ。
あたしも脇からサポートして説得に努めたが、年功序列と男尊女卑を尊ぶ部長には届かなかった。
 「あなたの話術のレヴェルにはうんざりしました」と吉岡に告げた。歯に衣を着せるなど必要ない。
あたしの口は本来、年中ヌーディストビーチなのだ。
 彼は拳を握りしめて、何も言わずに店から出ていった。割り勘だったはずのお勘定はあたしがすべて負担することになった。

 それから一ヶ月以上経っていた。吉岡と直接喋ることはほとんどなくなった。
何かの拍子に席を離れ、また戻ってくると用件が書かれたポストイットが貼られていることが続いていた。

 近く、吉岡は他部署へ異動するらしい。

3.
 電気を消して、湯船に浸かる。このバスルームには窓が付いておらず、扉を閉めると光一つ差し込まぬ真の暗闇があった。
 あたしは持ち込んだアロマキャンドルに火を付けて、浴槽に半分だけかぶせた風呂蓋をテーブル代わりにしてそこに置いた。
 闇の中、煌々と灯る赤橙の炎。あたしはそれをじっと見つめる。
人工的な、しかし神経を逆撫ですることのないラベンダーの香りがゆっくりと室内に充満し始める。
 始めた切欠は些細なことで、色黒脂肌の中年男性タレントが司会をする番組でアロマセラピーが紹介されていたからだ。
 確かにいい香りだと思う。けれどそれで心が落ち着くようなことはなかった。
それでもあたしが続けているのは「嗅ぐ」ことより「見る」ことに興味を持ち始めたからだ。
 あたしが好きなのは香りよりも炎そのものだった。少し温めのお湯に浸かりながら鑑賞することをあたしは好んだ。

21 名前:昏い炎 3/5 ◇gQ7S45WYZA 投稿日:2007/01/14(日) 22:23:59.92 ID:7bVc2NAn0
 密室状態の室内では炎が揺れることはほとんどない。何も干渉するものがなければ、それ自身が変化することはない。
 ただ、炎は蝋の水面が動くのに合わせて僅かに揺らぐ。
 よく見ているとそれは自身の形を崩れそうなほど大きく変えていることに気づく。ぐらり、なんて擬音が聞こえてきそうだ。
炎は、しかしそうして体勢を崩してもまた立て直す。「起きあがりこぼし」を連想させる光景だった。
 色も一様ではなかった。橙色から赤橙の隙間のように細いグラデーションは吸い込まれるようで、
あたしの目を離さない――もっと見ていたい、という欲求が喚起される!
 世間の人はなんて無知なんだろう、こんな美しいものを知らないなんて。あたしだけがこの自然が作り出す神秘を知っているのだ!
 ほら、見てみるがいい。この炎が体勢を崩すときに一瞬だけ双方を浸食する赤色なんて血痕のようじゃないか。そう、血だ!
 ――――血。

4.
 自身が高ぶっていることに気づいた。血を連想したのはそのせいだろう。
 炎を見ていると抑制がきかなくなることがあった。暗い感情が頭をもたげてくる。久しぶりの、忘れていた感情だ。
 憎かった。吉岡が憎かった。あいつのことを考えると心がざわつく。
 本当に馬鹿な奴だと思った。一回ポカをやらかしたぐらいで口を利かないなんて子どもじゃあるまいし。
あまつさえその原因を他人に求めて自分は悪くないと思っている。
もしかしたら「女はやっぱり使えない」なんて考えているかも知れない。呆れてものも言えないとはこういうことだ。
 あたしは他人に興味なんかない。陰口を叩きたいなら叩けばいい。嫌がらせがしたいならすればいい
(無論、生活に支障がでる場合は、こちらもそれなりの対抗策を打ち出すが)。
だが「あたし」に土足で踏み込んできて不快にさせるような輩は許さない。これでは絶縁状をばらまき渡している意味がない。
 結局、あいつもそこら辺の俗物と変わらなかった、いやそれ以下だ。そして少しでもマシだと思った自分がばかばかしく思えた。

――ああ、腹が立つ
 興奮が二次関数的に高まっていく。頭が熱くなった。
――無能なのはいいがあたしを不快にさせるんじゃない
 息が荒くなる。
――大体、あいつは初めからして気に食わない奴だったのだ
 目を瞑り、
――いつも必要以上に付きまとっていて鬱陶しかった
 頭を垂れ、

22 名前:昏い炎 4/5 ◇gQ7S45WYZA 投稿日:2007/01/14(日) 22:24:29.94 ID:7bVc2NAn0
――気障ったらしい笑みを浮かべてアドバイスをして、
 唇を噛みしめ、
――あたしに気があるフリをして暖かい言葉を吐いて、
 落とした手が茂みをかき分け、
――それで、

 彼のことを考えながら

――、

 ……

――……ああ
 
 あたしは彼に抱かれて優しい愛撫を受けていた。もう止まらなかった。
 感情は憎悪でも嫌悪でもない。それよりもっと前。小学校。始まりの日の前。彼の名前はなんと言ったっけ? 確か――

 「えんどう」くんがあたしに――何だったかは覚えていない――小物をくれた。うれしかった。あたしは彼のことが好きだった。
 次の日からいじめが始まった。なんのことはない、女子の中で中心格だった子もまた彼のことが好きだったのだ。
 ……それから。あたしは他人とつきあわぬようになり、誰かに興味を持つことも――好きになることもなくなった。なくなったはずだった。
 嘘だ。
 あたしはその実、「人」が気になってしょうがなかった。
あの子たちは何をして遊んでいるんだろう、彼女らはどんな風に勉強しているのだろう、同期の人たちはどんな部署についたのだろう、
世間の人たちはどんな風に生活しているのだろう、みんなはどのような日々を生きているのだろう――?
知ってどうしようとしたかったのか、あたしには判断が付かない。ただ「寂しい」という想いを捨てきれずにいたことは認めてもいい。

 あたしは吉岡さんが連夜のように会社に泊まり込んでいたのを知っていた。
企業が残業を推奨しなくなって久しいというのに、その穴を見つけるようにして彼は働いていた。
 彼に渡した資料と実際にプレゼンで使われたものの構成が大きく異なっていることに気づいたのは会議が始まってからだった。
あたしが提出したのは会議の前日ギリギリだった。

23 名前:昏い炎 5/5 ◇gQ7S45WYZA 投稿日:2007/01/14(日) 22:24:59.57 ID:7bVc2NAn0
それからあたしは恨み言を呟きながら帰宅し、暖かい毛布にくるまって僅かな休息を得ることができた。
 だが彼は? 彼は朝まであたしの酷い出来の資料を修正していたのだ。
 そんなことがよくあった。彼はいつもあたしのミスを嫌な顔ひとつせず治してくれていた。
役立たずな後輩の尻拭いは大変だったはずなのに、一つも文句をつけなかった。後には会話の端々で自然に間違いを教えてくれた。
 無能な後輩に対して今まで一度として慇懃な態度をとらないことの方がおかしかった。
あたしは今まで彼の気遣いに甘えていた我が儘な女だった。

 涙が頬を伝った。
 嫌だった――彼に嫌われるのが。
 憎かった――素直になれない自分が。
 無関心にはなれなかった。どうでもなんか良くなかった。一人でなんて生きていけなかった。
 人を好きになりたかった。
 吉岡さんが好きだ。
 そんなものは不要だと自分に言い聞かせてもみた。けれど心が言うことを聞かない。今まではなんとかやってこれていたのに。
 きっとこの炎のせいだ。蝋燭の炎を見続けるうちにいつのまにか、あたしの心にまで火を灯してしまっていたのだ。
 鎮火させる水は瞳からどんどん失われていく。留まる気配がない。
 火の勢いが強まり、炎になった。

 もう、消せなかった――


 目を開ける。ちびたアロマキャンドルが最期を迎えようとしている。
 倒れかけては持ち直し、永遠の不死性を持つかのように思われた炎は、芯が蝋の海に沈むのと同時にあっけなく消えた。
 再び世界に暗黒が紡がれた。

 あたしの炎はゆらゆらと絶えず形を変えて、危なげにしている。
 きっと消えないこの炎は、しかし光を生み出すこともないだろう。

 ―了―



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