785 名前:色のない煙 1/5 ◆2LnoVeLzqY :2007/01/14(日) 20:06:57.24 ID:VKqoPvA+0
目の前に、雪原が広がっている。真っ白な雪原が、ただひたすらに広がっている。
周囲に明かりはない。耳をすませても、何も聞こえない。
そこにあるのは、静かな夜の闇。頭上を見ると乾いた星空があって、僕は急に寂しくなった。
僕のとなりには、少女がひとり、横たわっている。
僕と同じ十七歳。僕のクラスメイト。
闇に紛れるように、彼女は無言で、横たわっている。
「寒いね」
僕は彼女に話し掛ける。彼女からの答えはない。
上履きのスニーカー。膝上までの紺のスカート。同じ色のセーラー服。真っ青なリボン。
学校指定の制服。寒くないのかな、と心配になってしまいそうな格好。
……けれどそんな心配は、彼女にはもう永遠に、必要ない。
力なく傾いた頭。おなかの上で組まれた手。虚空を見つめる瞳。
首には、紐で締められた痕。
冬の風が吹いた。
「寒いね」
ポケットからライターを取り出す。かちり、と火をつける。
僕の周りだけが、ぼんやりと明るくなった。その火は彼女も照らし、液体で濡れた彼女の黒髪が、制服が、きらきらと光る。
彼女の白い顔を見て、やっぱり可愛いな、と僕は思う。
それから、セーラー服の二つの膨らみの、その下にあるものを想像する。
それから、腰に巻かれた薄いスカートの、その下にあるものを想像する。
それから、彼女の衣服の下にあるすべてを想像する。
最後に頭のてっぺんから靴の先まで、彼女の体を隅々まで見た。
「ここは、寒いね」
ライターの火を、彼女の髪にそっと触れさせる。
ぼわ、という篭った音を立てて、彼女の髪は赤く燃え上がった。
炎が、夜の闇を蹴散らしていく。何かが焦げる臭いがする。彼女から少し離れ、それからもう一度、彼女の方を見た。
夜の闇の中、少女がひとり、横たわっている。
黒いはずの髪を赤く赤く燃やし、彼女は横たわっている。
真っ白な雪原のまんなかに、赤い炎があがっている。
786 名前:色のない煙 2/5 ◆2LnoVeLzqY :2007/01/14(日) 20:08:33.17 ID:VKqoPvA+0
灰皿の中、ぱちぱちと音を立てて紙が燃える。
わたしの想いを込めた紙が、赤く赤く燃える。灰色の煙が、頼りなさそうにのぼっている。
窓を開けてやる。すると煙は窓の外へ、吸い込まれるように消えていった。
この煙が、この想いが、彼のいる天に届けばいいと思う。ふと見ると、灰皿の中では紙が燃え尽きていた。
彼は突然、わたしの前から、いや、この世界からいなくなった。本当に突然だった。
地下鉄のホームから落ちて電車に轢かれて、即死。
お葬式のとき、やめておけと言われたけど、棺の中に横たわる彼の、白い顔を見た。
わたしの中で、そのとき何かが壊れる音がした。きっと、わたしの世界が壊れる音だったんだと思う。
彼は炎に焼かれて、煙になって、空にのぼっていった。その煙は、彼のいない日々の始まりを告げる烽火のようでもあった。
わたしは一人になった。
「愛しています。愛しています。愛しています。ずっと、愛しています」
真っ白な紙にそう書いて、また灰皿の中に入れる。ライターで、それに火をつける。
頼りなさそうな煙がのぼり、窓に吸い込まれ、空に消えていく。
彼は煙になって天にのぼっていった。この想いも煙になって天にのぼっていく。
寂しい。
「愛しています。愛しています。愛しています。ずっと、愛しています」
そう書いた紙をまた燃やす。白い紙。赤い炎。灰色の煙。青い空。
だけど彼のいない世界にはもう、色がない。
787 名前:色のない煙 3/5 ◆2LnoVeLzqY :2007/01/14(日) 20:09:40.32 ID:VKqoPvA+0
学校には一応、行った。けれど行っても行かなくても、わたしにとってはどちらでも同じだった。
彼はもういない。それだけが、確かなことだ。
何も意味はない。誰も意味はない。彼がいなくては、すべて意味がない。
この世界にはもう、何もない。
放課後、誰もいなくなった教室で、わたしは窓からぼんやりと夕日を眺めていた。
冬の夕日には、あたたかさを感じない。窓から下を見ると、白い雪がオレンジ色に染まっている。
視線を上に戻した。町工場の煙突からは、煙がのぼっている。それを見て、わたしは急に泣きそうになった。
ゆらゆらと、煙はのぼっていく。どこにいくのだろう。
ふと、背後でドアの開く音がした。
振り返る。男の子がドアのところに立っていた。うちのクラスだということはかろうじて覚えている。けれど、名前は思い出す気にもならなかった。
その男の子は、すたすたとわたしのところに歩いてきた。
それから、無表情のわたしの前で、無表情のまま言った。
「……前から好きだった。僕と付き合ってほしいんだ」
名も知らぬ男の子からの告白だった。夕日が、男の子の顔を照らしていた。
ふと、彼のことを思い出した。今はもういない、彼のことを思い出した。
オレンジの太陽。灰色の煙。彼のいない世界。
わたしの答えは決まっていた。
「いやよ」
「……やっぱり、ね」
男の子の手がくるりとわたしの首のまわりで動いた。かと思うと、急に呼吸ができなくなった。
何か細いものが首に巻きついている。目の前ではその男の子が両手で紐を引き、そして無表情で、わたしの顔を見つめている。
「大丈夫、大丈夫、怖がらないで。僕はきみのことが大好きなんだから」
灰色の煙。真っ赤な炎。男の子の顔。
「きみの想いは、きっと、天に届くよ」
この男の子は誰? わたしがやってることを、知っているの? それでも名前は、思い出せない。
真っ白な雪。青い空。オレンジの夕日。
出ない声。誰も来ない教室。黒い黒板、黒い、視界。
怖い。怖い。怖い。でも一体何が。
わたしの想い。彼のいない世界。悔いは、あるのかな?
「さよなら」
788 名前:色のない煙 4/5 ◆2LnoVeLzqY :2007/01/14(日) 20:11:21.90 ID:VKqoPvA+0
「寒いね」
そう呟いて、赤く赤く燃える彼女を見た。
髪だけじゃなく、もはや全身が、赤く赤く燃える彼女を見た。
大好きな、大好きな彼女を見た。もう一度だけ、顔を見てみたいな、と思った。
彼女は、あいつのこと以外、見えてなさそうだった。いや、間違いなく、見えていなかった。
だからあいつを殺した。ちょっと押してやるだけで、あいつは地下鉄のホームから天国までのぼっていった。
僕はうまくやった。みんな、あれが事故だと思ったらしかった。
これで彼女も、目が覚めるに違いない。そう思った。
だけど、彼女はあいつのことを、僕の想像以上に、想っていた。愛していた。
逆にあいつが死んだことで、彼女は本当に、周りが見えなくなっていた。
僕のことなんか、きっと最後まで、名前すら知らなかったに違いない。
僕がどれだけ彼女を好きだったか、彼女は最後まで知らなかったに違いない。
彼女のことならどんなことでも僕は知っているなんて、知らなかったに違いない。
いつもいつでもどんなときでも僕が彼女を見ていたなんて、知らなかったに違いない。
「想いは、届きそうかい?」
炎の中の彼女に聞く。ばちん、と何かが爆ぜる音がした。
以前、彼女の部屋から煙が出ているのを見たときは、何事かと思った。
覗いてみると、彼女は灰皿の上で、紙を燃やしていた。
燃え尽きると、また紙に何かを書いて、それを燃やす。その繰り返し。
紙には、「愛しています」。それを燃やす。きっと、あいつに向けた想いなんだろうなと想った。
だから彼女を殺した。大好きな彼女の、その願いを、かなえてあげようと思った。彼女の想いを、天に届けてあげようと思った。
ばちん。彼女から、絶えず黒い煙があがっている。
彼女の想いは、天に届いたんだろうか。
彼女からのぼる黒い煙は、天に届いたんだろうか。
789 名前:色のない煙 5/5 ◆2LnoVeLzqY :2007/01/14(日) 20:13:20.49 ID:VKqoPvA+0
ふと風が吹いて、すごく嫌な臭いがして、僕は悲しくなる。近づいて、彼女の横に、ひざをついた。
突然、僕の目から涙がこぼれた。
「告白したとき頷いてくれればね……こんなことにはならなかったんだよ」
彼女はもう、僕の前から、この世界から、永遠にいなくなってしまった。
だけど僕の世界は、彼女が告白を断ったときに、完全に壊れてしまったのだ。
ポケットからライターを取り出して、彼女の炎に投げ入れた。ばん、と音を立てて、炎の勢いが増した。
まるで何かの終わりを告げるような、強い強い炎だった。
「ようやくあいつが死んだのに、きみは僕のことなんか、気にも留めようとしなかった。
だから僕は、きみにできる精一杯のこととして、君の想いを、天に届けたんだ。
……きみも、喜んでくれてるよね?」
冬の風が吹いた。炎は揺れて、それでもなお、赤く燃えていた。黒い煙を、吐き出し続けていた。
「ここは……すごく、寒いよ」
彼女を抱きしめる。おおい被さるように、炎の中の彼女を抱きしめる。
熱い、熱い。すごく熱い――けれどここは、寒くなんか、ない。
炎の中で、彼女の顔を見た。やっぱり可愛いじゃないか、と僕は思った。
目を閉じる。炎に身を任せる。
僕の想いが、僕からのぼる煙が、彼女のいる天まで届くといい。