【 ともしび 】
◆YaXMiQltls




716 名前:ともしび(1/5) ◆YaXMiQltls :2007/01/14(日) 16:02:21.28 ID:ay9of0/D0
 私に煙草を教えてくれたのは美津子だった。二浪して入った大学で私は美津子に出会っ
た。四〇年も前のことだ。出会った頃の私たちは、よく共通の趣味の古い映画を見に行っ
たものだった。モノクロのスクリーンの中で、女たちはみな煙草を嗜んでいた。光で仄か
に顔の輪郭がぼやけた女の艶のある唇から白い煙がしゅうと出ると、たちまちに煙はスク
リーンいっぱいに薄く広がった。女たちはあるときは笑いながら、あるときは物憂げな顔
をしながら煙をはいて、まるで彼女たちの美そのものが解き放たれたかのようだった。そ
の姿は例外なく艶かしく、私は美津子が隣にいることも忘れて、綺麗だ、綺麗だ、と映画
館の暗闇の中で繰り返しつぶやいていた。
 そのうちに美津子が煙草を吸いだすようになって、私は美津子に見惚れるようになって
いた。私は既に知っていた。煙草の似合う女に似合う男になるためには、煙草をうまく吸
えるようにならなければならないことを。美津子と見に行った何十本もの映画の中で私は
学んだのだ。
 そうしている限り、私たちの時間は止まっているかのように思えた。けれどそれは幻想
でしかなかったのだ。私たちの外で時代は確かに動いていた。いや時代に取り残されてい
たのは私だけだったのかもしれない。いつしか美津子は闘争という言葉をよく使うように
なっていた。そのころにはもう私たちが映画を一緒に見に行くことも少なくなっていた。
 私は一人で熱心に映画館に通い続けていた。私はそこでただ幸福な気分を味わいたいだ
けだった。それは今になって思えば美津子のことも関係していたのだろう。けれど忌々し
い時代の波はスクリーンの中にまで入り込んできた。それは仕方のないことだった。映画
というものは現在しか撮ることができないのだから。しかしだからこそ、私の感じている
虚無感のようなものも、またすぐに映画に撮られることになり、私はそれに大いに共感し
た。
 私の愛した映画は、アメリカの新しい映画だった。私は「イージー・ライダー」に憧れ
ていた。ピーター・フォンダとデニス・ホッパーがアメリカをバイクで旅する、ただそれ
だけの物語。けれどロックンロールやヒッピーやドラッグなど私が憧れるにふさわしい全
てがそこにあった。時代は七〇年代を迎え、世の中は万博や高度経済成長で沸いていたが、
学生の世界は日本経済の動向など関係なく別にあった。それは今も同じことだろうと私は
思う。私は良くも悪くも退廃的だった。美津子と最後に会ったのは、その頃のことだった。
「なぜ戦わないの?」

717 名前:ともしび(2/5) ◆YaXMiQltls :2007/01/14(日) 16:03:04.63 ID:ay9of0/D0
 美津子の言葉に私は答えられなかった。むしろ答える気がなかったといった方がいいだ
ろうか。答えても無駄だということに私は気づいていた。私と彼女とは何か根本の部分が
違うということを悟ったのだ。今になって思えば根本は一緒だったのかもしれない。ただ
根本にあるものが表層へ現れるまでの意識の道筋のようなものは明らかに異なっていた。
美津子だったらそれを思想だとか胡散臭い言葉で表したかもしれない。
 美津子がそれからどうしたか、私は知らない。ある種の大きな事件が起きるたび、ふと
美津子のことを思い出す程度で、しかしそんな事件もすぐ起こることさえなくなった。私
はといえば、大学を卒業して就職して、数年も経たず結婚して、数年も経たず離婚した。
子宝に恵まれないことが原因だった。そういう時代だったのだ。両親の勧めで見合いした
今の妻と結婚したのは、三〇代も後半にかかろうかという頃だった。今度は子宝にはすぐ
恵まれた。しかし去年大学を卒業した一人息子の誠は、夏を待たずに仕事を辞め、今はフ
リーターをしている。
 
 眠れずに台所にビールを取りに行くと、居間の灯りが付いていて、誠が映画を見ていた。
私の影響なのか、誠は映画が好きで、小さな頃はよく一緒に映画館に行ったものだった。
ちらと除くと、画面にはサーファー姿のピーター・フォンダが映っていた。
「何見てるんだ?こんな遅くまで」
「エスケープ・フロム・LA」
 誠は画面を見たままで、映画のタイトルだけを言った。私はテーブルの上においてある
ビデオのパッケージを手に取って、誠の横に座った。缶ビールを開けながら、私はそれを
読んだ。映画はどうやらジョン・カーペンター監督のSFアクションで、崩壊して孤立した
未来のロサンゼルスに主人公のカート・ラッセルが入り込んで人を助け出すというような、
よくあるB級映画のようだった。ピーター・フォンダに関しては何も書いてなかった。
 テレビ画面の中で、ピーター・フォンダはその崩壊したロスの瓦礫の中で、サーフボー
ドを片手に波を待っている。海はどこにもなく、どう見ても彼は頭のおかしい爺さんだっ
た。しかしなぜか突如巨大な波が街中に押し寄せてきた。崩壊した街の深い溝のようなと
ころを大波が轟々と流れ、ピーター・フォンダとカート・ラッセルがその波に乗って街中
でサーフィンをしている。波の隣は普通の道路で、そこをカート・ラッセルを追いかける
車が走り、車とサーフィンのカーチェイスが繰り広げられる。

718 名前:ともしび(3/5) ◆YaXMiQltls :2007/01/14(日) 16:03:52.43 ID:ay9of0/D0
 それを見て隣で誠が大笑いしていた。私は笑わなかった。映画のラストシーンでカー
ト・ラッセルは煙草に火をつけた。なぜか煙草のパッケージがアップで写った。アメリカ
ンスピリットという銘柄だった。
「ラストがいまいちだったな」エンドロールが流れ始めて誠がそう言った。
「ああ、そうだな」
 私は誠に合わせた。いまいちだとは思わなかったが、ではどこがいいのかと問われれば
よくわからなかったからだ。誠はポケットから煙草を取り出すと、一本を口にくわえた。
「――お前、煙草いつから吸うようになったんだ?」
「なんだよ。自分も吸ってるくせに、やめろとか言い出すんじゃねえだろうな?」
「いや、いいんだ。……俺にも一本くれないか?」
 私たちはソファで並んで煙草を吸った。煙が部屋中を白く覆った。私たちは何も話さな
かった。私は「イージー・ライダー」のことを考えていた。
「なあ、親父」ビデオを止めに行った誠が、私に背中を向けながら話し出した。
「俺さ、春から専門学校行くことにしたんだ、映画の。学費とかは自分で払うよ。大学卒
業させてもらってるし、これ以上はさすがに悪いから。……おふくろにはもう話した。で
も親父には自分で話せって言われてさ」
 ビデオの巻き戻る音が静かに響いていた。私は少し考えてから、吸いかけの煙草を置い
て言った。
「ああ。お前がそう決めたならそうすればいい」
 ――虚をつかれた気がした。そういえば私は映画を職業にしようと思ったことは一度も
なかった。あんなに映画が好きだったのに、そういう考えに及ばなかったことを、今にな
って不思議に思った。灰皿の煙草に手を伸ばすと、煙草は既に燃え尽きていた。
「親父はどうするんだ?」誠がソファに座りながら言った。
「どうするって?」
「今年で定年だろ? まさかずっと家でぼーっとしているなんてことないだろ?」
「さあ。まだ何も決めてない」
 まるで親子がひっくり返ったようだと私が笑うと、笑い事じゃないと誠が一蹴する。
「そうだなあ。考えなくちゃいけないな。……おまえはまだ家に居るのか」
「うん、専門学校行ってる間は、金もないしもう少し厄介になろうと思ってるけど」

719 名前:ともしび(4/5) ◆YaXMiQltls :2007/01/14(日) 16:04:35.72 ID:ay9of0/D0
「だったら思い切って半年くらい一人旅にでも出てみるかな。お前に母さん任せて」
「はあ?」
 こっちは真面目な話をしているのだと言わんばかりに、誠は呆れ顔で言った。けれど私
は思いつきにしてはなかなかだと思った。
「いい考えじゃないか? どうせ母さんは定年まで勤め上げる気でいるし、俺が家でゴロ
ゴロしてるよりよっぽど気が楽だろう」
「……意味わかんねえよ。大体旅ってどこ行くんだよ?」
「アメリカに決まってるじゃないか。そうだバイクで横断なんて格好よくないか? そう
なると、バイクの免許取らないといけないな」
「深夜に二人で何騒いでるの? 寝れないじゃない」
 妻の洋子がパジャマ姿で下りてきたのを見るなり、誠が洋子に訴える。
「聞いてよおふくろ。親父がさ、すげー馬鹿なこと言い出したんだけど――」
 誠の説明を聞き終えた洋子は、誠の予想とは逆に目を輝かせていた。
「素敵じゃない。定年後の夫が家でゴロゴロしてるのって邪魔臭くて熟年離婚の原因なの
よ。お父さんがアメリカに行ったらそんな心配もなくなるし、いいじゃないの」
「そうだな。おまえも親が熟年離婚なんていやだろ?」
「なんでそこで離婚が出てくるんだよ?」
「そういう心配がなくなるって話よ。それにね、きっとお父さんは毎週一枚ずつ絵葉書を
出すのよ。私はそれを楽しみに待っているの。ちょっと届くのが遅いと心配になったりし
て。想像しただけでかわいらしいじゃない」
「どこのメルヘン少女だよ? ちゃんと考えろよ」
 誠は、いらいらした様子で煙草を取り出した。
「あら? あんた煙草なんていつから吸ってたの?」
「なんだよ。夫に吸わせてるくせに、やめろとか言い出すんじゃねえだろうな?」
 さっきと同じ会話の繰り返しに、私は思わず笑ってしまった。
「そうじゃないわよ。――せっかくだから私にも一本ちょうだいよ」
「おふくろ吸わねーだろ」
「わかってないわね。煙草の似合う男に似合う女になるためには、煙草を格好よく吸えな
きゃいけないのよ」

720 名前:ともしび(5/5) ◆YaXMiQltls :2007/01/14(日) 16:05:03.15 ID:ay9of0/D0
 私は洋子に美津子とのことは言ったことはなかった。けれど洋子がそう言うことは当然
のように思えた。もしかして洋子はずっとそう思っていたのだろうか。
「親父はずっと吸ってただろ。そんなこと今更言うんじゃねーよ」
「……だから今がいい機会なのよ。あんた、そんなんだから彼女できないのよ」
「そんなんってどんなんだよ?」
「母さんの言うとおりだな。おまえそのくらい察してやらないと。そんなんだから彼女で
きないんだ」
「うっせーよ」
 しょぼくれている誠の煙草を洋子に一本差し出すと、洋子はそれをたどたどしく咥えた。
ライターで火をつけてやると、洋子は煙草を咥えながら「火つかないよ」と言った。「火を
つけるときに息を吸うんだ」私が教えると洋子は頷いた。もう一度ライターを煙草の先端
にあてると、洋子は目をつむって、煙草を咥えた口を少し尖らせた。正面にいた私は、ま
るでキスのようだと思わず久しぶりに洋子に見惚れてしまった。洋子の唇はかつてのよう
に瑞々しくはなかったが、私は映画で見た女優たちを思い出していた。
「火つけるから吸って」
 そう言ってライターをつけると、洋子は思い切り煙を吸ってしまいむせた。ゴホゴホと
洋子がせくたびに、煙がだらしなく広がって、私と誠は思わず笑った。





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