【 人を見て 】
◆sjPepK8Mso




491 名前:品評会用 「人を見て」 1/2  ◆sjPepK8Mso :2007/01/13(土) 16:13:19.02 ID:c3lRNBY/0
 ウ・シャブデヴ、マイム、ヴェ・サソン、ミ・マイネイ、ハ・イェシェア。そしてあなた達は救いの井戸から水をくみ上げる。ヘヴライの歌詞。旧約聖書のイザヤ書十二章三節。
 私はいつもこの歌を歌う人間によって生み出される。
 水を讃え、祝う歌を歌うために私はここに生まれるのだ。
 砂漠を彷徨い、身につけた布が擦り切れるまで歩き続けるヘブライの民は、私を恐れずに、私を囲い、踊ることで水への感謝を形にする。
 彼らはいつだってそうして来た。
 数少ない薪を組み、木の棒で煙を立て、私を呼び、私がそこに顕現した時が祭りの合図になっている。
 私は熱でもって彼らを歓待し、彼らは身を潤す水を讃える。その光景を、私は何年も見守り続けてきた。
 それが私に出来る唯一の他者との接触法だ。
 もとより、私は生き物を焼き尽くす存在としての命を受けている。恵みを与える者もいるが、それは点に輝く星に住む仲間だけに言える事の筈だった。
 木を焼き草を焼き猿を焼いて犬を焼いて竜すら焼いた。
 生きるものは私を恐れ、敬って決して近寄ろうとはしなかった。
 この世に生きるどのような生き物も私に対する恐怖を遺伝子に刻み付けている。それがこの星における私の絶対則である。
 なのに人間は私を怖がろうとしない。私に対する敬いの心ばかりを血に残し、何代にも渡って私を囲み続ける。
 砂漠に私が生まれることは絶対にないはずだった。砂の上で寒い夜の空に手を伸ばし、人を見下ろすことも有り得ないハズだった。
 生き物は私を恐れなければならないのに、それを忘れてしまったこの民はいつか痛い目を見ると思う。
 いつか絶対に取り返しのつかないことになる。
 一体何人の猿を私は焼いたのかと思う。言うならば、私は人間にとって仲間の仇ですらある筈だった。
 私を恐れる事を最初に忘れた人間は、獣の肉を焼く事を知った。
 仇である私を使って、生を焼く事を知ったのだ。
 生き物の肉だった物は、私に焼かれ穢れを忘れ、生き物とは無縁のものとなる。
 そこには私の目的遂行の意思しか存在しなかった筈なのに、私に触れる生き物はいなかったはずなのに。
 それなのに人間はその目的遂行の意志にあっさりと介入してきた。
 肉が焼け、それに人間が喰らいついたその瞬間が、生き物が生き物を殺してこの世から完全に否定する事を知った最初の瞬間だったと思う。
 そんなのは異常で、狂気に他ならない筈だ。
 ともかく、人間は私を利用する事を知った。私が何を思っているのか死ってか知らずか、人は私を使って自分たちより多くの生き物を焼いた。
 一つの命の意思によって、私はいくつの命を灰に帰したのか数えきることも出来ない。

492 名前:品評会用 「人を見て」 2/2  ◆sjPepK8Mso :2007/01/13(土) 16:13:34.21 ID:c3lRNBY/0
 それでも、人は命を焼く事を止めない。
 生き物が生き物を殺しきってしまうなどあってはならないはずだと、私は思っている。当然の常識だったそれは、たった数年であっさりと覆されてしまった。
 同じ土俵に立つもの同士が、片方の存在を否定してしまうことは、その土俵そのものすら否定してしまう行為だ。
 人間は生き物を焼き、自己を否定していると言うのに、痛くも痒くもないと言う顔で死んだ肉を貪り食う。
 酷く醜いと私には思えた。それまで、地球の上には自分を否定する者なんてどこにもいなかったのに、その情けない行為をしても人間はなんでもない顔をしている。
 生き物としての最大の矛盾なのだと思っていたが、今ならばそれだからこそ人間は生き残ったのだとも思える。
 美しいばかりの物なんて結局この世に存在できないのだ。美しいだけの地球には、汚点だって生まれる。
 だから、醜いと思えるものが栄えようとも、なんら悪いことではないのである。
 そして醜いものは醜い事をする。私を囲み、踊るこの民は、自らの安息の血を得られずに砂漠を放浪する民だ。
 自らを神の子と称し、その醜い苦難を神の与えたもうた試練だと言う。
 神なんてこの世のどこにも居はしないのに。
 人の知らないことを私は知っている。人が願望から作り上げた幻想が、世界を支配するものなのだと決められたものだと知った時には私は愕然としたものだ。
 ただただ、哀れでしかない。
 追い出した民が醜ければ、追い出された民も醜い。
 追い出した方はただ自分と違うだけで相手を否定する傲慢さを持ち、追い出された方は自らの思想が世界を支配していると信じる傲慢さに満ち満ちている。
 私はざまあ見ろと思うことだってある。生き物である事を越えようという傲慢さが生んだ結果、生まれた傲慢さが人の愚かさを示したことに対してだ。
 それでも、私は自らの役割を忘れない。
 私の義務と権利と目的は、私に触れたものを燃やして灰にすることである。
 いくら崇められようと、私は私でしかない。
 そして、私を恐れる事を止めた生き物は、手痛いしっぺ返しを受けなければならない。
 ウ・シャブデヴ、マイム、ヴェ・サソン、ミ・マイネイ、ハ・イェシェア。そしてあなた達は救いの井戸から水をくみ上げる。
 馬鹿な事を言うものだ。永遠に回り続ける傲慢さに救いなど存在しないのだ。
 嫌われ者は嫌われたその瞬間から、消える瞬間まで嫌われ者なのだ。
 自らの国を持たないヘブライの民は、どの民族にも嫌われ、私を恐れなかった。
 しっぺ返しはすぐそこまで迫っている。
 地球で人類が栄え始めてから幾星霜。そして今、一九三九年。ドイツと呼ばれる国がポーランドと呼ばれる国に攻め入ったと風の噂に聞いた。
 根本にあるのは凝り固まった力への信奉と傲慢さ。それは民族に対する差別にも繋がる。
 砂漠の中に逃げ延びて、細々と暮らす民にすら、迫害の手は伸びるだろう。
 遠く、地平のかなたに明るい光が一瞬輝く。仕事が増える日は近い。



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