【 命火 】
◆D8MoDpzBRE




361 名前:命火 1/5 ◆D8MoDpzBRE :2007/01/13(土) 01:41:26.60 ID:CuW9EdOe0
 地の果てを思わせるような、赤茶けた大地が一面に広がっている。四方の地平線をさえぎる物は何もない。
時折、うなるような突風が、地表に露出した土をさらっていく。草木の気配は絶え、空は鉛色の雲に覆われて
いた。
 どこまでも荒涼とした景色の片隅に、淡く侘びしい火が灯っていた。今にも消えそうな、小さな焚き火である。
燃料となりそうな薪や木の屑は、周りのどこを探しても見当たらない。消滅を運命づけられた、まさに風前の
灯火であった。
 焚き火の傍に、一人の老婆が佇んでいた。頼りない炎に暖を求めるわけでもなく、ただひたすら淡い光に見
入っている。しわだらけの顔が、乾いた風に乗った土のつぶてを受けて、薄くすすけていた。今にも干からび
て崩れ落ちてしまいそうな老婆ではあったが、その瞳に映し出された炎の光だけが、彼女に生気を与えている
ようでもあった。
「何かを待っておいでかな、ご婦人」
 乾いた静寂が、鈍器のような低い声によって破られる。いつの間にか、老婆の背後には黒のタキシードに身
を包んだ紳士が立っていた。黒革の靴の先からシルクハットのてっぺんに至るまで、全く隙のない、完璧な身
なりだ。
「火を見ているのですよ」
 老婆が、紳士の方を振り向きもせず短くつぶやく。足腰が弱り果てて、体の向きを変えることですら苦痛を
伴う。だが、そんな老婆の顔はどこか穏やかだった。
「この火の向こう側に、昔の思い出が見えるのです。温かい時間が、緩やかに流れているのです」
「待ちましょう」
 紳士が冷たくささやく。
「火が消えるのを待ちましょう」

362 名前:命火 2/5 ◆D8MoDpzBRE :2007/01/13(土) 01:41:44.24 ID:CuW9EdOe0
 老婆は、いよいよ消え入りそうな炎を見据えながら、ある物語を連想していた。マッチ売りの少女。その哀れ
な少女は、マッチの火を通してはかない幻想を見ていた。クリスマスの夜、暖炉を囲む夢。
 しかし、そんなささやかな贅沢が叶うことはなかった。少女は最後、雪降りしきる街頭で還らぬ魂となる。誰も
が知っているおとぎ話だ。
 老婆はかぶりを振った。悲劇のヒロインと重ね合わせるには、彼女の過ごしてきた時間は恵まれすぎていた。
「この焚き火を通して映る思い出は、幸せそのものでした」
 老婆の言葉を聞くと、紳士は焚き火の向かい側に移動して腰をかけた。
「あなたはマッチ売りの少女ではない」
「何でもお見通しですのね」
 老婆が苦笑混じりのため息をつくと、紳士は冷笑を浮かべた。
 風は止んでいた。辺りは、嵐が過ぎた後の不気味な夕暮れに似た色合いを浮かべている。黒雲の縁が赤い
マグマの色に染められ、地獄から手招いているようだ。
「私は今、あなたの心の中にいる」
 紳士の言葉に、老婆の胸が波立った。幸せだったはずなのに、心の中に巣食うこの寂莫は何だ? 今や消
えかけた幸せの炎を、西から迫る不吉な夕闇が飲み込もうとさえしていた。
「あなたは、もうすぐ死ぬ運命なのだ」

363 名前:命火 3/5 ◆D8MoDpzBRE :2007/01/13(土) 01:42:10.66 ID:CuW9EdOe0
 夜の病院に、藍色を濃縮した深い闇が立ちこめる。田舎にある病院の終末期病棟。そのとある個室のベッド
に、老婆は横たわっていた。主治医から、もう長くはないであろうことを知らされて、長男の嫁が家族を代表し
て付き添っている。ベッド脇の心電図モニターが奏でる単調で無機質なメロディこそが、老婆が生きていること
の数少ない証でもあった。
 老婆は深い眠りについていた。覚醒することを忘れ、ただひたすらに睡眠を続けること一週間を数える。やせ
細り、骨と皮だけを残した肉体に魂が宿っていられるのも時間の問題だと思われた。
 時計の針が頂点で重なる。日付が変わる、午前零時の合図だ。
 バタバタと、廊下に慌ただしい足音が響く。それは次第にけたたましさを増したかと思うと、次の瞬間老婆の
部屋の扉が乱暴に開かれた。
「お袋!」
 部屋に入ってきたのは壮年の男性だった。手元に何かを抱きかかえている。彼が浮かべている表情はどこ
か明るく、またどこか寂しげでもあった。
 続いて、白衣をまとった看護師が二人、血相を変えて部屋に飛び込んできた。
「夜中なんですから、大きな音を立てないでください」
「それに、勝手に新生児を連れ出してくるなんて言語道断です!」
 しかしその壮年の男は、周囲の雑音に耳を貸す素振りを見せない。ただ、生まれたての赤ん坊を抱いて老
婆の枕元へと近づけてささやいた。
「おい、見てるか。お袋にとって待望の初曾孫だぞ」
 一瞬、老婆の表情が緩んだ。少なくとも、男にはそう見えた。
 そして心停止。部屋の心電図モニターがリズムを止めて、心停止を告げるアラーム音が響き渡った。

364 名前:命火 4/5 ◆D8MoDpzBRE :2007/01/13(土) 01:42:28.26 ID:CuW9EdOe0
 荒野の上空に、満天の星空が広がる。老婆の足下の焚き火は既に消え、跡形もない。
 そして老婆の体も、その輪郭を失い始めていた。それは次第に鈍い光を放つ精霊へとその形を変え、深い
闇夜へと引き延ばされていく。
 黒いタキシードの紳士がその傍に寄り添う。
「命の灯火が消えたら、私は過去を失うのでしょうか?」
 精霊の姿をした老婆が話す。紳士は、含み笑いを浮かべている。
「あなたに聞くべき質問では無かったわね、死神さん」
 老婆の足下に広がっていた荒野は、まるで底が抜けたかのように消え失せ、その代わり全方向が星空へと
変貌していた。地球という星すらも過去に置いてきたのだろうか、と老婆が思う。そうしている間にも、彼女の
姿は虚空と混じり合い、ますます淡く薄れていく。紳士の体だけが、この空間ではっきりとした形を持っていた。
「最後に聞いてもいいかしら。これから私は、既に先立った夫のところへ行けるのですか?」
「行けますとも」
 紳士が答える。
「全ての魂は、万物の源へと還るのです」

365 名前:命火 5/5 ◆D8MoDpzBRE :2007/01/13(土) 01:43:04.05 ID:CuW9EdOe0
 見渡す限り一面の草原が広がっている。晴天に浮かぶ太陽の光が、まばゆいばかりに地上に降り注ぐ。そ
の景色の中心には、真新しい炎が灯っていた。青白い炎は、真っさらな未来の入り口のようでもある。
 今日も、命の火が止むことはない。



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