【 ホームにて。 】
◆D7Aqr.apsM




348 名前:ホームにて。 1/5  ◆D7Aqr.apsM 投稿日:2007/01/07(日) 22:34:16.16 ID:2mY6tmA40
 電車のドアがため息のような音を立てて開くと、凍り付いたような青空の下、
つめたい空気が車内に流れ込んだ。
見渡す限りの畑の中。コンクリートブロックが、ただ長細く積まれただけに見える
屋根もない無人駅のホームに、上下線、六両2編成の電車が止まっていた。
 人影もまばらなその車内で、ただ一人、ドアの前に少女が立っている。
 あごのラインで切りそろえられたまっすぐな髪。黒目がちで、大きな二重の瞳。
 制服のスカート脇に自然な様子で垂らされた左手は、一本の傘を握りしめている。
 男物の濃紺の長い傘。柄の下あたりを持ち、体の後ろで石突きを下げたその姿は、
鞘に収めた刀を持っているように見えた。
 ローファーに制服とコートではなく、素足に剣道着姿が似合うだろう。
 開いたドアから、ホームを挟んだ向こう側に、下りの電車が見えていた。
 田舎の無人駅。通過する急行をやり過ごすための待ち時間だ。
 寒いので、一旦ドアを閉めるという内容のアナウンスが流れた。
 目の前でドアが閉じられる。少女はまっすぐに前を見つめたまま、身じろぎもしない。
「志織、今日も探してるの?」
「うん」 ドアの窓越しに、下りの車両を睨みつけていた少女は頷いた。
「晴れてるのに、傘を持ち歩かなきゃいけないなんて、大変ね」
 ドアのすぐ横の座席に座った髪の長い少女がにっこりと笑う。
「仕方ない。物も恩義も、借りは返さなければならないから。――由佳里、私は
考えが固すぎるのかな?」
 由佳里、と呼ばれた少女はゆっくりと首を振って、笑った。
 空気がはき出される音と共に、ドアが開く。
 同時に、ばん! という破裂音と共に急行列車が通過していった。
 ごうごうとうなる風が少女達の乗る電車を揺らす。
 急行が行き過ぎるとほぼ同時に、遠くから車掌が吹く発車の笛の音が響いた。
 その音が消えないうちに、ドアが閉じられると、電車は走り始める。
 下りの電車も同じように。
 もうすぐ。夕焼けがあたりを染め始める時刻。十六時五十八分。
 志織はドアに背を向け、寄りかかった。
 晴れ渡った空から降り注ぐ、冬の柔らかい日差しが車内を明るく照らし出していた。

349 名前:ホームにて。 2/5  ◆D7Aqr.apsM 投稿日:2007/01/07(日) 22:35:00.16 ID:2mY6tmA40
「しっおりっちゃーん。王子様は中々現れないねえ。お、由佳里嬢も一緒?」
 別の車両から一見して背の高い少女が大股に歩いてきた。
「有紀、おそらくあれは王子ではない。ただの高校生男子だろう」
 志織は傘の柄を手の中でもてあそんでいた。
「志織、今のは……」
「あーもう! わかってないなぁ。ヒユだよヒユ。乙女的ヒユ! もう、これだから
剣道馬鹿は。 王子様ってね、うーん。志織風に言うと……あれだ。懸想人?」
 訂正しようとした由佳里をさえぎって、有紀が一気にまくし立てる。
 志織はぽかん、と口をあけて有紀を見上げた。
「けっ懸想? 私がか? 傘を借りただけの男子に?」
「充分ドラマチックだったと思うけどなあ。模試当日。駅で突然の雨。
差し出された傘。そして、今、その傘を毎日持ち歩き、彼をさがす少女。
やー、映画みたいだよね。ほんと、由佳里嬢にも見せたかったなあ」
 一気にまくし立てると有紀は二人の隣にどっかりと腰を下ろした。
「どんな感じの人? 誠実そう?」
 間に座る志織を無視して由佳里が口を開く。
「こう……自然体、かつ、さわやかな感じだったかなぁ。っていうかさ、
凄いよねえ。『急行の通過待ちの時、いつも向かい側の車両で見かけていたので、
全く知らないという訳でもありませんし、傘、よければどうぞ』 なんて。
普通、言えないよ? その後は他の友達の傘に入って去って行っちゃうし」
「まて。当事者を置いてけぼりにして話を進めるな」 志織が立ち上がって抗議する。
「いいか? 傘を借りただけの人間だ。懸想も何もない。ただ、傘を返さなければ
ならないのと、その、……少しばかり礼をしたいだけだ」
「少しばかりねえ? それがコートのポケットに入れられた某神社の学業
成就お守りかい? まあ、地味ではあるけど、受験生にとってはわざわざ
休日を潰してご購入の逸品だわねえ」
 志織はポケットを思わず押さえた。
「……どこでそれを」
「まあまあ。色々な情報網ってのがあってね。で、それよりもやることがあるんじゃない?」
 有紀はにやにやと笑った。

350 名前:ホームにて。 3/5  ◆D7Aqr.apsM 投稿日:2007/01/07(日) 22:35:23.63 ID:2mY6tmA40
「『傘のお礼です』 はい!」
「かっ……カサノオレイデス」
 閑散とした車内に声が響く。
 ぎくしゃくとした動作で、ポケットから取り出される定期入れ。
「なんか固いなあ。もうちょっとこう、自然に」
 二人にからかわれながら、いつの間にか志織は練習をさせられていた。
ともすれば、『感謝する』 とだけいって傘とお守りを突き出しかねない、と言われ、
『それのどこが悪いのか?』 と聞き返した所からこの特訓が始まった。
志織は実物のお守りが汚れるのを嫌って、自分の定期入れを代わりに使った。
 着ている制服から、男子がどこの学校かは解っていた。しかし、志織は
学校へ押しかけてまで傘を渡そうとは思っていなかった。おそらくそれは、彼に
とっても迷惑になるであろうと考えたからだ。
 学校帰りの電車。それも、通過する特急を待つ為に停車するわずかな時間。
それだけが再会の為に残された希望だった。

――傘を返す理由は、ある。お守りを渡したい気持ちも、ある。けれど、それから
どうしたいというのだろう。
 特急の通過待ちをする車中で、ホームの向かい側にある電車を眺めながら
志織は考えていた。実を言えば、彼の事は、傘を借りる前から意識していた。
いつも同じ車両の同じドアの所にいる、すっきりとした立ち方をする人。
しかし、それだけでしかない。それ以上の何を自分に、そして彼に求める事が
できると言うのだろうか。もやもやとした気持ちだけが心の中で折り重なっていく。
 
――どうかしている。でも、確かなのは……確かなことは二つだけ。
 一つは電車の時刻表。
 十六時五十五分。駅に電車が到着。
 十六時五十六分。一旦ドアが閉じられる。
 十六時五十七分。急行が通過。通過後、少ししてドアが再度開かれる。
 十六時五十八分。上下線共、発車。
 そして、傘を借りてからこれまでの日々、この三分間が生活の全てだったということだ。

351 名前:ホームにて。 4/5  ◆D7Aqr.apsM 投稿日:2007/01/07(日) 22:35:45.55 ID:2mY6tmA40
 カーブにさしかかった電車が鳴らす警笛の音で我に返る。
 三人でのふざけた受け渡しの練習をしてから数日後。志織は今日も一人、
ドアの近くに立っていた。電車は次第に速度を落とし、あの駅へと
滑り込んでいく所だ。少し前に、有紀が電車の先頭車両へと移動していった。
「ま、他の車両にいるかもしれないしさ、電車が止まったら片っ端からみて
ここへ戻ってくる。志織はここで待機。二人しかいないからね。このやり方しか
ないと思うんだ」いつになく真剣な顔だったな、と志織は思った。
 左手で傘を握りなおす。電車がホームに滑り込んだ。圧搾空気の耳障りな
音と共に、ドアが開いた。

 開かれたドアから体を半分乗り出すようにして下りの電車を見ていく。
おぼろげになりつつある姿を思い出しながら、志織は今まで考えないように
していたことが心にのしかかるのを感じていた。
――なんのことはない。避けられているのではないか?
 相手が姿を現さない理由。毎日の通学で乗っていた、いつもの位置を変える理由。
 もしその原因が志織自身なのだとしたら。
 車内放送が流れ、一旦ドアが閉められた。目の前をドアが走る。
 それまで暖められていた車内の空気は、中途半端に冷えていた。
――もし、そうなのだとしたら。
 向かいの電車から視線をそらした。
 その時。
「志織っ! 一番後ろだ! 一番後ろのドアの所だ!」
 車両と車両を仕切る扉が勢いよく開け放たれると、有紀が駆け込んできた。
「有紀、それなのだけれど……」
 ごうっという音と共に急行が駆け抜けていった。
「何を迷ってるんだ! 走れ!」
 ドアが開いた。
 今まで一度も降り立ったことのない無人駅のホーム。すれ違うだけのためにあった場所。
 青空の下、左手に傘を握りしめて、志織はそこに降り立った。
「練習した事、忘れるなよー」

352 名前:ホームにて。 5/5  ◆D7Aqr.apsM 投稿日:2007/01/07(日) 22:36:27.28 ID:2mY6tmA40
 有紀の声を背中に聞く。すうっ、と一つ息を吸って、走り始めた。

 ほとんど人がいることのないホームを、一人走っていく。
 残りは何秒あるのだろう。どれだけ言葉を口にできるだろう。
 下りの電車の最後尾が見え始める。
 最後の一両。その最後尾。
 そして、そのドアに、彼は立っていた。
「こ、これを」
 驚いた顔をしていた彼は、差し出された傘を見るとにっこりと笑った。
「別に返してくれなくてもよかったのに」
「いや、助かった。感謝している。そ、それから……」
 志織はポケットの中に手を差し込んだ。
 その時。
 発車を告げる笛の音が響き渡った。
「か……か……かっ」
 ドアが閉まり始める。
「勝手に乗る場所を変えるな! 困ったじゃないか馬鹿者っ!」
 ポケットから取り出したものを、投げつける。
 閉まりかけるドアの間を抜けて、それは彼の胸元へ。
 走り出す電車の中で、彼がそれを落とさないように受けとめたのが見えた。
 ホームの両脇に止まっていた電車は加速し、離れていく。
 そうして、ホームには志織だけが残された。
 何が始まったわけでも、何が終わったわけでもない。けれど、自分のために
何かをやりとげた、という達成感だけがあった。
 志織はコートのポケットに手を入れ、ホームの中程にある時刻表に歩み寄ろうとした。
 ポケットの中から違和感が手を伝って体に突き抜ける。
 由佳里や有紀との練習が頭をよぎった。
 おそるおそる取り出した手が握っているのは、渡すはずだったお守り。
 志織は夕日を浴びながら少し笑って、改札でする言い訳を考え始めた。



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