【 三分で出来る事 】
◆BLOSSdBcO.




304 名前:三分で出来る事 1/4 ◆BLOSSdBcO. 投稿日:2007/01/07(日) 18:40:15.19 ID:Ir56TUpv0

 三分で全てを手にした男は、三分に全てを賭けていた。

 長く厳しい冬があけ、熊も冬眠から目覚める頃。とある大学病院の一室で、一人の男が数ヶ月の長い眠りから
目を覚ました。
「――あ、あぁ」
 真っ白なシーツに包まれたベッドの上で窮屈そうに体を捻った彼は、自分が鎖で雁字搦めにされているのでは
ないか、とすら思った。力を込めると荊のような電流が全身を這い回り、間接がギシギシと軋む音がする。
「いっ、ってぇ……」
 ナースコールを押そうとするが、痛みに悶えてはまた他の箇所が痛む。そう気付いた彼は全身の力を抜いて
荒い息をつきつつ、むき出しの神経をタワシで擦られるような刺激が収まるのを待つことにした。
 幸いにも脂汗と冷や汗を垂れ流して干からびる前に、宗教画にあるような小太りの白衣の天使が彼に気付き、
彼はそれ以上の苦痛を味わわずに済んだ。
「俺は、負けたのか?」
 看護士に植物状態の患者が意識を取り戻した、と呼ばれて駆けつけた若い医師は、その一言に戸惑った。
負けた、という言葉が何を指すのか。考えあぐねて傍らに立つ看護士を見ると、彼はプロボクサーなんです、
と耳打ちしてくれた。なるほど、確かにカルテには頭部への強い衝撃により、と書かれている。おそらくは
試合中に意識を失ってそのまま昏睡していたのだろう。
 試合の勝敗は分からないが、という前置きと共にその旨を伝える。
「そう、か……」
 彼はそう呟くと放心したように虚ろな目をし、後は医師の質問にも短く肯定と否定をするだけだった。

306 名前:三分で出来る事 2/4 ◆BLOSSdBcO. 投稿日:2007/01/07(日) 18:40:49.35 ID:Ir56TUpv0
 日本人初のWBAヘビー級チャンピオン、鶴田興治。
 身長二メートル近い日本人離れした体格を持ち、二の腕の太さは女性のウエストほどもある。全身に一切の
無駄な脂肪が無く、分厚いタイヤのような筋肉の鎧を纏う。繰り出される拳は屈強な猛者たちを一撃の元に
叩き伏せ、熊をも仕留めると称された。
 彼のパフォーマンスもマスコミが喜んだ。偉大なるチャンピオン、モハメド・アリを連想させる口の悪さ。
対戦相手を徹底的に扱き下ろし、自分の実力を世界一だと豪語した。
 そしてその実力はアリに勝るとも劣らなかった。普段のダーティーなイメージ通り、リングの上でも闘争心を
むき出しにして野獣のように襲い掛かる。どんな相手でも臆すことなく一直線に突っ込んで殴りあう。まともに
喰らえば命に関わりかねないパンチを掻い潜り、タフネスを売りにする強敵を全て一ラウンドでマットに沈める。
 人気に押されてデビューからたったの七戦で世界王者への挑戦権を得た彼には、批判も期待も多かった。
彼はそれらを全て、ふてぶてしい態度で受けた。
 そして迎えた世紀の一戦。相手は紳士的な正統派ヒーロー、アマチュア時代から期待されていた超エリートの
チャンピオン。喧嘩しか生きがいの無い若者だった鶴田とは、対照的な相手だった。
 ゴングと共にコーナーから飛び出し、お互いに一歩も引かぬ殴り合い。いや、正確には鶴田だけが殴られて
いた。チャンピオンは彼の拳を紙一重でかわしつつ、コンパクトに隙を見せない的確な一撃を放つ。こつこつと
積み重なるダメージが鶴田の体力を奪う。がむしゃらに振る腕は弾かれ、防がれ、空を切る。
 長い長い、たったの三分。真っ白になりかけた視界の端に、わずかに見えた青い瞳。鶴田がそこに全力を振り
絞って拳を放つと共に、彼の顎先を狙ってチャンピオンの拳が繰り出された。
 ズドン、という音を放ってガードの上から顔面を砕く一撃。吹き飛んだチャンピオンはリングの外まで吹き
飛び、セコンドからタオルが投げ込まれた。しかし勝利を告げるゴングと地鳴りのような歓声の中、僅かの間を
おいてリングの上で何者かが倒れ込む。顎を砕かれ意識を失った、鶴田だった。
 
 かつての栄光を夢にした彼は、己が身を省みて何とも言われぬ感情に涙する。
 丸太のようだった四肢は枯れ枝となり、鋼を誇った体にはアバラが浮いている。髭の伸びた顔は蒼ざめて
生気が無く、全盛期の面影はまるで無い。
 彼の目覚めを誰よりも喜んだ、母親の言葉を思い出す。
 ――もう誰も貴方に戦えとは言わない。だから静かに暮らしてちょうだい。
 それは嘘だ、と彼は思った。戦えと言っている。戦いたいと叫んでいる。
 誰よりも、彼自身の体が。
 拳を力いっぱい握る。鈍った筋肉の痛みすらも心地良い。それは歓喜の雄叫びなのだ。

307 名前:三分で出来る事 3/4 ◆BLOSSdBcO. 投稿日:2007/01/07(日) 18:41:27.06 ID:Ir56TUpv0
 リハビリは、拷問に等しかった。
 半年以上も寝たきりで立ち上がることすら忘れた彼の体は、体を起こすだけで貧血を起こした。
 ガチガチに固まった関節や筋肉をほぐすマッサージは、関節技を極められ続けるようなものだった。
 三十キロ以上痩せた自分の体重すら支える力が出ない。汗だけが滝のように流れ出る。
 疲れ果てて不味い病院食が喉を通らない。無理矢理水で流し込む。
 
 そんな生活に二ヶ月も耐えた頃には、彼は人並みの体力を取り戻していた。
 しかしまだ足りない。
 ジョギングをすればすぐに息が切れ横っ腹が痛む。
 サンドバッグを叩けば翌日腕が上がらなくなる。
 無駄な筋肉がつく、と嫌っていたプロテインを飲む事にした。
 今は何より、体を作る事が先決だ。

 目覚めから一年が経つ頃。
 彼はジムでスパーリングをしていた。
 勝負勘が鈍っている。
 難なく避けられたはずのパンチを、体がついて行けずに喰らってしまう。
 その一撃が試合では命取りになる。

 最後の試合から三年。
 彼は復帰戦を前にインタビューを受けていた。
 目立つパフォーマンスを好む彼が、この三年で初めてマスコミに姿を現した。
 再起に向けて努力する彼への取材は、全て断ってきた。
 自らの大言を撤回する事も、背く事も許さない。
 そう自らに課す故に、相応しい実力を取り戻すまでは沈黙を保ったのだ。

 彼が二十五の春。
 再び世界王者に返り咲いた彼の話題で、世間は持ちきりになった。



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