233 名前:三分間の痕跡(1-5) ◆wM0U0nIUyY 投稿日:2007/01/07(日) 00:24:02.47 ID:vAup+OOM0
僕はマッシュ。いい名前でしょ? おじいさんがくれた名前で、気に入っているんだ。
おじいさんっていうのは僕を拾ってくれた人。捨てられていた僕に温かいご飯を食べさせてくれた優しい人なんだよ。
そして、その日から僕らは一緒に暮らすようになった。
僕は目が見えなかった。鼻もぐすぐすしていた。それに言葉も上手に話せない役立たずだった。
けれど、そんな僕をおじいさんは抱きしめて頭を撫でてくれるんだ。
そうされる度に、胸の奥がぽわっと光ってうれしくなって、家中を駆け回るんだ。
この目がちゃんと見えていたら、きっとお日様のような笑顔を僕に向けてくれているに違いない。
この家には僕ら以外はいないけど、寂しくなんかなかった。
おじいさんが傍にいてくれればそれで十分。少し掠れた声を聞けるだけで、他は何もいらないんだ。
おじいさんの家に住んでから楽しい日々が続き、あっという間に過ぎていった。
僕は以前より大きくなったし、新しいこともたくさん覚えて、物知りになった。
暗闇の生活にもだいぶ慣れて、今ではベッドにダイビングだってできるくらいだ。
おじいさんも少し咳をするときはあるけど、とても賑やかで元気だった。
一緒にお散歩をしたり、本を読んでもらったり、そういえばお花に水をやったりもしたんだ。
あのとき、おじいさんが僕に向けていきなり水をかけるんだもの、冷たくて驚いちゃったよ。
でも、その時本当に楽しそうに声を出して笑っていた。それを聞いて僕もなんだかうれしくなってね、
抱きついて顔を擦り付けると、お口の周りがざらざらしていてちょっと痛かった。
また頭を撫でられて、僕はさらに上機嫌になったよ。
それにしても、今も、ご飯のときも、眠るときも僕の頭にのせられるアレはなんだろう。
大きくてごつごつした、それなのにどこか柔らかいものは、一体なんなんだ?
いつもあれで頭を撫でられるんだ。おかしなことにそれは四本の角が生えているけど、きっと怖いものじゃない。
だって、僕が怯えるようなことは絶対にしないって信じてるから。
それから月日が経った。
会ったときはお日様がポカポカしていたのに、今では部屋の中を暖めないと震えが止まらなくなってしまった。
それにつれておじいさんも、ごほごほっと苦しそうに咳をするようになっていった。
僕は心配だった。辛そうに息をする姿を頭の中で思う度に、いてもたってもいられなかった。
顔を擦り付けると、四本角のアレで僕の頭をさすってくたけど、その四本角には前ほどの元気はなくなっていて、ひどく寂しかった。
234 名前:三分間の痕跡(2-5) ◆wM0U0nIUyY 投稿日:2007/01/07(日) 00:26:28.92 ID:vAup+OOM0
ある日、寒さで目を覚ますと、おじいさんはまだ寝たままだった。
いつもは僕が遅く起きるのに、今日は逆みたいだ。
初めておじいさんより先に起きれたことがなぜか誇らしくて、いつもされているように起こしてやろうと思った。
顔を近づけそっと触れてみると、とても冷たくて固かった。
相変わらずざらざらしていたけど、昨日まであった温もりは消えていた。
僕は不思議に思った、と同時に不安にもなった。
おじいさん、起きてよ、朝だよ。
体を揺すってもおじいさんは眠ったままだった。
部屋を温かくして、僕にご飯をおくれよ。四本角のアレで、また僕の頭を撫でてよ。
僕は怖くなって叫んだ。自分がだせる限界の声で。
おじいさん! おじいさん! おじいさん!――
僕の声に反応したのはおじいさんではなく近所の人だった。
その人がおじいさんの寝ているベッドに近づくと、甲高い大声を出して大慌てで部屋を飛び出していった。
しばらくして大勢の人がドカドカと家に上がりこんできた。みんなでベッドを囲んでいるみたいだったけど、
何をしているのかはよくわからない。
僕はその間中ずっと叫んでいた。
うるさく思ったのか、誰かが僕を抱き上げて外へ連れ出し、家の前に置き去りにした。
身を切るような寒さに体がガチガチと震えた。
でも、それでも僕は叫び続けたんだ。
家に入れたのはそれから結構時間が経ってからだった。たぶん一、二時間とかそういう単位ではないと思う。
叫び疲れて声も枯れてしまった僕は、おぼつかない足取りでおじいさんの下へと急いだ。
途中、テーブルに頭をぶつけてしまったけど、そんなことはお構い無しにベッドへ駆け寄った。
おじいさん大丈夫? 今は起きているのかな?
でもおじいさんがどこにいるかわからなかった。
目が見えなくて鼻もぐすぐすな僕は、感触でしか物を感じることができない。
手でベッドの上を叩いても、顔を近づけても、おじいさんの形をみつけることはできず、
僕がベッドを荒らす音だけが冷たい部屋に木霊していた。
235 名前:三分間の痕跡(3-5) ◆wM0U0nIUyY 投稿日:2007/01/07(日) 00:28:17.41 ID:vAup+OOM0
あれから誰もこの家にこなくなった。
おじいさんも一向に姿を現さなかったけど、僕は待った。きっとどこかにお呼ばれしているんだ。きっと帰ってくるさ。
お腹が減って、体に力が入らなかった。声をあげる気力も残ってない。
しょうがないから今日はベッドに寝てじっとしていよう。誰かきたら足音でわかる。
おじいさんは今日も来ない。
大勢の人がこの家に押しかけてからどれくらい経っただろう。時間の感覚がおかしくなっていて正確にはわからない。
もう体がいうことをきかなくたってきた。水を飲んだのも昨日か一昨日が最後、ご飯を食べたのはいつだったかな。
おじいさん、僕を嫌いになっちゃったのかな。目も見えない役立たずな僕に愛想が尽きちゃったのかな。
ごめんなさい、迷惑ばかり掛けて。もっといい子にするよ、泣き声だってあげないよ、だから帰ってきて――
そう願ったとき、ふっと頭を撫でられた。大きくてごつごつした、それなのにどこか柔らかい四本角のアレ。
おじいさん、おじいさんだ! 帰ってきてくれたんだ! 僕は飛び起きた。
あれ、でも足音なんてしたかな? ああ、そんなことどうでもいいや、おじいさんが帰ってきてくれた。すごくすごくうれしいよ!
おじいさんは何も言わずに僕を抱きしめてくれた。顔を擦り付けるとやっぱりお口の周りがざらざらしていた。
よかった、怒ったりしていなかったんだね。嫌いになったりしていなかったんだね。
ああ、安心したらなんだか眠くなってきた。もっと遊びたいけど、先に眠るよ。
おじいさんは僕の額に唇を押し付けた。意味がわからなかったけど、心の奥がぽわっと光った。
ありがとうおじいさん、帰ってきてくれて。そして、こんな僕を愛してくれて。
僕は、とっても幸せだよ。
そう思いながら、深い眠りへと落ちていった。
236 名前:三分間の痕跡(4-5) ◆wM0U0nIUyY 投稿日:2007/01/07(日) 00:31:14.38 ID:vAup+OOM0
「……ん、……さん」
体を揺すられる感覚に男の意識は呼び戻された。
「あの、大丈夫ですか?」
「うん? ああ、大丈夫だよ」
「ショックなのはわかります。しかし、何分お歳を召されてのご出産でしたので……」
「そうですな……、妻もこうなることは承知の上だった。先の戦争で息子を失った私たちにとっては最後の希望だったが、
その光はあまりに儚く、脆かったようだ。あの時銃弾を喰らった、この小指のようにね」
たった今命の灯火が消えた我が子を、男は割れ物を扱うように優しく撫でている。
その右手の小指は付け根から見事になくなっていた。
「お名前、お決めになっていたんですか?」
「いろいろ考えていたんだが、今決めたよ」
「今、ですか?」
「それよりも、つい先ほど不思議な体験をしたよ。短いようで長いような……、白昼夢というやつかな」
「はぁ……」
男はどこか遠くを見つめ、言葉を紡いでいった。
237 名前:三分間の痕跡(5-5) ◆wM0U0nIUyY 投稿日:2007/01/07(日) 00:33:08.35 ID:vAup+OOM0
「その中で私は子犬を拾うんだ。それはそれはかわいらしい、でも目と鼻が利かない子犬を。
私はその子に名前をつけ、毎日を共に楽しく暮らしていた」
そこでいったん区切り、我が子へと視線を戻す。
「ところが私は先に死んでしまう。でもその子犬はずっと私を待っているんだよ、あの世へ旅立ったとも知らずに。
結局は子犬も死ぬんだが、その間際、幽霊になった私が見えるようになってね、
幸せな想いに満たされながら永遠の眠りについたんだ」
「へぇ……、なんとも……不思議なお話ですね」
医者は愛想笑いを浮かべた。
「ああ、本当に。だが……」
男はまだ温もりのあるその体を抱き上げる。
「私は、それがこの子からのメッセージだと思えてならないんだ。そこにいたという事を知って欲しかったのではないかな。
誰もが当然のように動き、生きている刹那の瞬間、しかしこの子にとっての一生だった時間に唯一残した、生存の痕跡――」
全てを心に刻み付けるかのように頬ずりをする。こんなにも温かいのに、それが保たれることはないと思うと涙が止まらなかった。
「君の思いは私の心にちゃんと届いたよ。現実世界ではなく、しかも微々たる時間しか会えなかったけれど、一緒に過ごせて楽しかった。
感じてくれているかい? 私の髭や、小指の無い右手を。私たちがそちらへいくまで覚えていておくれ」
小さな体が壊れてしまうくらい、さらにきつく抱きしめた。
「ありがとう、マッシュ。老いた夫婦の短命なる天使」
最後に愛を込めたキスを額へ。
「三分間、君は確かに生きていた」
流した涙が愛くるしい顔に降りかかる。
我が子も共に涙を流しているように見えたのは、私の錯覚ではないだろう。
END