【 三分すぎた、そのあとに 】
◆Lldj2dx3cc




95 名前:三分すぎた、そのあとに (1/4) ◆Lldj2dx3cc :2007/01/06(土) 03:10:19.85 ID:efR5LXGF0
 カチリ、カチリと秒針が刻む、ほぼ正確な一秒間、また一秒。
 強く握られた手に、汗。可及的正確な計時をなすために、ゼロ秒を待つ。
 残り、十秒。状況の最終確認を開始する。
 かやく、粉末スープはオーケー。カップのふたは定規で測ったように点線の
位置で正確に折れ曲がっている。その脇に、液体スープと重しの皿。手にした
ヤカン、中のお湯の温度は調べるまでもない。ヤカンを置く鍋敷きの位置も抜かりない。
 オールグリーン。
 ラスト一秒、そして、十三時三十九分ゼロ秒! 投下!
「じょぼじょぼじょぼじょぼじょぼ」
 湯量はきっかりカップの線に沿う。
 立ち上る湯気。真っ白な水蒸気に包まれて、かやくの香ばしさがはじける。
 いつまでも香りと暖かさに包まれていたい誘惑を引きちぎるように、速やかにふたをし
重しの皿を乗せる。
 うむ、今日も立ち上がりは上々。しかし、真の戦いはこれからだ。
「おねーちゃん、飽きないねー、まったく」
「愚妹がなにをほざくか」
 不調法な妹のカップが視界に入るたび、世を嘆きたくなってくる。
 面倒だからとかやくも粉末スープも液体スープも一緒くたに入れ、時計も見ずに計時は
「勘で」などと抜かす。
 たかがカップ麺。されどカップ麺。
 熾烈な販売競争を乗り越えるため、試行に試行を重ねたこの一杯。
 ふたに記された調理法は、その果てに見出された言わば開発者の尽力。
 ならば、それを正確にトレースし、そして吟味することこそ、販売競争におけるジャッジ
としての消費者の礼儀と言えよう。
 と、何度も言って聞かせているのに理解しようともしない妹にはもはや割愛。
 私は私の信じた道を行けばよい。
 しばしの忍耐、刻々と進む秒針を前に開発者のたゆまぬ努力を想像しながらただ座して待つ。
 にもかかわらず妹、いや、愚妹ときたら、ふたを開けて覗き込むわ、カップは揺するわ、
落ち着きないことこの上ない。私は姉として恥ずかしく思う。

96 名前:三分すぎた、そのあとに (2/4) ◆Lldj2dx3cc :2007/01/06(土) 03:10:49.76 ID:efR5LXGF0
 この、私の正しい姿勢を少しは見習うがいい。
 まさしく『座して待つ』という言葉がピッタリの、この正しい姿勢、忍耐強い待ち姿。
まさに、ザ・座して待つ。あ、ちょっと面白い。
「愚妹よ、少しはこの私の『ザ・座して待つ』という姿を見習ってはどうか」
「え、なに? ギャグ?」
「……ギャグと言えば、ギャグだ」
「サムっ! っていうかザシテマツってなにさ?」
 私は愕然とした。渾身のギャグを寒いとなじられたこともショックではあるが、それ以上に
『座して待つ』という言葉も知らない愚かさに、愕然とした。
 これがゆとり教育の賜物か。これがジェネレーションギャップか。
「嘆かわしい……」
「なにさ、大学生だって分数の割り算もできないくせに」
「分数の割り算って、またずいぶん懐かしいネタを知ってるな」
 それは私たちが中学生だった頃、価値観の逆転を図るためよく用いた皮肉だった。
 思考が流行と言語の衰退、ゆとり教育の弊害へと羽を広げようとするも、
「もういいや、いただきます」
 妹の一言にあっさりと中断されられた。時刻は十三時四十一分三十五秒。およそ二十秒も早い。
 芯の残っているであろう麺が、妹の唇に音を立てて吸われてゆく。
 ああ。
 私の心には、妹へのザマぁ見ろという気持ちは起こらない。それよりも強く、開発者に
深い陳謝の念に満たされる。
「おねーちゃんも食べればいいじゃん。食べてるうちにちょうど良くなるって」
 良い良くないの問題ではないのだ。これは、現代に喪失しかけている仁と義との再現なのだ。
 妹のカップラーメンは三分間。そして私のカップうどんは五分間。
 間隙の二分間を、時代と時代との隙間に失われてしまった仁と義と、そして孝と悌とを
懐古するために割こうと決めたその時、腹が鳴った。
 きゅるるん、と鳴った。
 妹が見る。蔑んだ目。真面目過ぎるから腹が減るのだ、そんな侮蔑の眼差し。
 また、きゅるるん。

97 名前:三分すぎた、そのあとに (3/4) ◆Lldj2dx3cc :2007/01/06(土) 03:11:16.26 ID:efR5LXGF0
 妹はもう見ない。その注意は自分のラーメンにのみ注がれている。
 ドシン、腹部に重たい感触。
 空腹ではない。
 股の間に、快感とも苦痛とも取れない痺れるような感覚。恥骨が張り、尾てい骨が重い。
骨盤が揺らいでいる。
「……行ってきたら?」
「妹よ、バッハとかは向こうじゃわりとありふれた名前らしくて、しかしその偉大さに敬意を
示しグレート・バッハと呼ぶらしい。つまり、日本語に訳して大バッハ、というわけだ」
 なにかを掴んだらしい妹は、一心不乱にすすっていたカップの中身を再見する。
 ソイ・ペースト・フレーヴァー、いわゆる味噌味。
 私も釣られて自分のうどんのカップを見る。いや、見るまでもない。
 おお、神よ! ああ、この一面に漂うカレー臭よ!
 今度こそ、汚らわしいものを見る目で私を眺める妹。
 しかし、今の私に構っている暇はない。なにしろ、時間がない。
 あと、一分と五秒。怒涛の身のこなしを見せれば、間に合うかもしれない。
 けれど、悪いことに私の身に宿るグレート・ベンは通常の妊娠期間を大幅に超過し、
潤いを忘れ出たいのに出られないという状況にある。その代わり、いつ出られるかも予断が
許されない。
 苦しい。腹が張って苦しい。
 産気づくまではこんなにも苦しいと感じなかったというのに、奇態なものである。
 時間は、あと四十八秒。もう、どうしたって間に合わない。二兎は追えない。無論、二兎を
同時に追うなど考えるだけでも恐ろしいと言うか考えさせないでくれ。
 あと三十二秒。芳醇なカレー臭が鼻腔をくすぐり、食欲を刺激する。
 第一次欲求、また生理欲求とも呼ばれるこの本能は、なにによりも強い。それは、自己保全
という生命の大前提に根ざしたものであるからだ。そしてそれの内容は、
睡眠欲、食欲、排泄欲――。

98 名前:三分すぎた、そのあとに (4/4) ◆Lldj2dx3cc :2007/01/06(土) 03:11:43.25 ID:efR5LXGF0
 食べたい。あと二十七秒もある。
 出したい。あと二十七秒しかない。
 出すか、入れるか。入れるか、出すか。
 童貞のごとき懊悩が、理性が、力強い本能により攪拌され混濁する。
 あと、十秒……っ!
「もう食べ終わったから、行ってもいいよ」
 その一言が、引き金だった。
 私は脱兎の如く目的地へ走った。
 ピリオドの向こう側へどころか、アスタリスクの向こう側へ駆け抜けたがる情熱を懸命に
抑えながら。



終わってる



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