【 月 】
◆D8MoDpzBRE




711 名前:品評会用 月 1/5 ◆D8MoDpzBRE 投稿日:2006/12/30(土) 04:02:35.70 ID:iIRA4tm00
 ガンダムが妊娠した。
 出窓の隅に飾っておいたガンダムMk−Uのプラモデル。1/100の縮尺で再現された純白ベースの機
体には、荘厳という言葉がよく似合う。組み立てたのが高一の冬休みだから、あれからちょうど二年が経とう
としている。そしてある日、六畳ばかりある僕の部屋の出窓で仁王立ちしている彼に、それは訪れた。
 僕が最初に異変を察知したのは、クリスマスイブだった。恋人がいなくて傷心の僕を、その日はガンダム
の優しさが温かく包んでくれていた。月明かりに、自慢のボディを光らせて。
――おや?
 ふと、僕は軽い違和感を覚えた。ガンダムの下腹部のラインが、少し厚ぼったい。そう言えば、いつもなら
険峻な山岳のごとき威圧感を放っていた剛体が、その夜に限って母性の海にぽっかりと浮かんだ月のような、
柔らかみのある曲線を描いていたのだ。
「貴志ー! ご飯ができたわよ」
 階下から母親の大声が響き渡ってくる。僕のガンダムに対する神秘的な興味は、その一言によってかき
消された。僕は、無言のままゆっくりと階段を下った。
 そして、更なる展開が大晦日の夜に訪れることになる。

 三週間後にセンター試験を控えた僕は、立派な受験生だった。それが例え大晦日の夜と言えども、自分
の部屋にこもって受験勉強に明け暮れることを要求され、僕は仕方なくそれに従っていた。何ともわびしい
年の暮れ。
 勉強に疲れた僕は、充血した目の疲れを癒すために部屋の電気を全部消して、机の上に体を預けて寝そ
べっていた。すると突然、後ろからジャバジャバと水をこぼしたような音が聞こえてきた。出窓の方だ。慌てて
振り返った僕の視界には、およそ想像を絶するような光景が待ちかまえていた。
 ガンダムが破水(*)していた。股ぐらから透き通った液体が、月光を浴びてキラキラと輝く一条の筋を残
している。そして間髪を置かずに、次なる衝撃の展開が訪れた。ガンダムの股間が、青白い光を放ち始めた
のだ。
 僕は腰を抜かしそうになりながらも、なんとか椅子から立ち上がり、妖しげなその光の源へと歩を進めた。
 べちょ、という音がしたような気もするが、はっきりとは覚えていない。ただそこには、体長が十センチにも
満たない小さな女の子の姿があった。

 (*破水:子供が生まれるとき、羊水が子宮からあふれ出る現象でつ。)

712 名前:品評会用 月 2/5 ◆D8MoDpzBRE 投稿日:2006/12/30(土) 04:02:59.23 ID:iIRA4tm00
――なんだ、お前は?
 と言おうとして、声にならないことに気付いた。声帯が麻痺したかのように、発語がままならない。そんな
僕の動揺を見透かしてか、その少女はおもむろに話し始めた。
「ウフフ、はじめまして。私は月の精」
 駄目だ、さっぱり要領を得ない。僕の頭では、この奇々怪々とした状況に対して適切に対処することは出
来なかった。この少女が殺し屋とかだったら、僕は為す術もなくやられていただろう。
「何が何だかさっぱり、って顔ね。大丈夫、あなたを取って食べたりなんかしないから」
 そう言うと、少女が手招きをした。僕はそれに素直に従って、出窓の脇にあるベッドに腰をかけた。窓の外
からは、砂の粒よりもきめの細かい光の粒子が降り注いでいる。澄み切った月明かりに、僕はしばらく魅入っ
ていた。
「君は、いったいどこから来たの?」
 思わず、僕は自分の中に芽生えていた疑問を口にした。少女が、ふわりと宙を舞う。ピーターパンに出て
きた、あのティンカーベルのように。
「言ったでしょ、私は月の精。月から来た、っていうか私自身が月の分身なの」
 ますます訳の分からない答えだけれど、もうどうでもいいと思った。このちょっと素敵なシチュエーションを
独占していることが、僕を悪くない気分にさせていたのかも知れない。
「僕は君のこと、何て呼べばいいのかな? まさか『月の精』なんて呼ぶわけにも行かないし」
 僕が話しかけると少女は微笑んで、ガンダムの肩の辺りに腰掛けた。きっとこの娘には重さがないんだろ
う。ガンダムはピクリとも動かなかった。
「うーん、本当は私自身に名前なんてないのだけれど……ルナ、なんてどうかな」
 少しはにかんで答えるルナに、僕はゆっくりとうなずいた。
 その夜、僕は紅白も除夜の鐘もそっちのけでルナと語り合っていた。ルナは、盛んに地球上のことを聞き
たがってきた。何でも、地球を訪れるのは一千数百年ぶりなんだという。僕は、受験勉強で蓄えた世界史の
知識をここぞとばかりに披露した。
 かわりに、僕の方から月の世界について質問すると、ルナは寂しそうに答えた。
「月面なんて退屈よ。ついこの間人間が宇宙船で来たと思ったら、最近はさっぱり来ないし」
 聞いてはいけない質問だったのか、と僕は小さな罪悪感を感じた。
「そうだ、ルナ。面白いものを見せてやる」
 僕はそう言うと、何か本でも探そうと、蛍光灯のスイッチに手をかけた。

713 名前:品評会用 月 3/5 ◆D8MoDpzBRE 投稿日:2006/12/30(土) 04:03:28.67 ID:iIRA4tm00
「駄目っ!」
 ルナが叫ぶ。僕は慌てて手を引っ込めた。
「ごめんなさい、いきなり叫んだりして。私、月明かりがある場所にしかいられないの。もし月の光が途絶える
か、月光よりも強い光に晒されたら、私の地上での姿は消えてしまう」
「僕の方こそ、ごめん」
 僕は、冷や汗でびっしょりになった手のひらを、ズボンのポケットに入れて拭った。
「そろそろ、行かなくちゃ」
 ルナが言う。唐突な言葉に、再び僕は焦った。
「もうお別れかい?」
「違うよ。さっき言ったとおり、月が沈んだら私は地上にいられなくなるでしょ。だから、地球が回るのに合わ
せて月を追いかけるの。明日の夜、また戻ってきてあげるね」
 ルナが窓ガラスをすり抜ける。長さ十センチの発光体は、こちらに向かって手を振るや、漆黒の闇に溶け
るように見えなくなった。しばらく眠ることを忘れていた僕は、その後生まれて初めての初日の出を拝むことと
なった。

 一月三日、満月の夜。僕はルナと散歩に出かけた。冷え切った真夜中、親には内緒だった。
 僕の家は、小高い丘の集団住宅の端っこ辺りにある。典型的な田舎町だから、丘から見下ろす夜景も寂
しいものだ。だからこそ、夜中に堂々とルナを肩に乗せて歩いていられるのだろう。
 少し歩くと、僕たちは海岸沿いに出た。南の海上に浮かぶ満月。そして、僕の肩の上にも月の精がいる。
「貴志君。あなたに言っておきたいことがあるの。明日の晩は嵐が来るから、あなたの部屋には入れない」
「え、それはつまりお別れってこと?」
 まるでルナは、僕がうろたえるのを楽しんでいるかのように、肩の上でクスクス笑っている。
「大丈夫、雲の上にでも漂ってるから。それよりも、明日の嵐は満潮と重なるから気をつけて」
 そんなことまで分かるのか。遥か遠くに浮かぶ月とルナとの間をつないでいる何かを、僕は少し感じた気
がした。
「平気だよ。明日は出歩かない。家に籠もって勉強でもしてるよ」
「そうそう、その意気で頑張って」
 ルナと会えないのは残念だけれども、僕には勉強というあまり気乗りのしない義務がある。明後日またル
ナが訪れるときまでに、可能な限り勉強しておこうと思った。

714 名前:品評会用 月 4/5 ◆D8MoDpzBRE 投稿日:2006/12/30(土) 04:03:50.61 ID:iIRA4tm00
 嵐の夜以来、ルナは徐々に遅刻するようになった。
「いやさ、貴志君が勉強してるのを邪魔したら悪いかな、なんて思って」
 遅く来る度に、ルナは言い訳をした。嘘だ。僕は知っていた。この出窓から月明かりが差し込んでこない限
り、ルナは姿を現すことが出来ない。月の出の時刻が、だんだん遅くなっているのだ。
 一月十二日に日付が変わって、その日ようやくルナが姿を見せた。部屋に差し込む月明かりにも、かつて
の明るさはない。僕は既に予定の勉強量をこなしていた。
「遅くなってごめんね、貴志君。怒ってる?」
 僕は震えていた。怒っていたからではない。
「ルナ、君のことが好きだ」
 ありったけの声を振り絞る。既に僕の声は涙にむせんで聞き取ることも難しかっただろう。窓の外には下弦
の月が、涙の海に浮かぶ小舟のように輝いている。
 ルナは、僕からの問いを真正面から受け止めてくれた。
「ありがとう、貴志君。私はあなたにふさわしい女じゃない。だけど、あなたのこと大好きだよ」
 僕がルナの方へ駆け寄ると、ルナもこちらへふわりと飛んできた。ルナが僕にくれた、小さな小さな口づけ。
頬に蚊が刺すような、そんな微かな感触を覚えた。その小さな感触を、いつまでも忘れずにいようと思った。

 ルナとのお別れの朝、僕は目一杯の早起きをした。センター試験をあさってに控えた一月十八日、午前五
時半。まだ外は真っ暗で、ルナの姿も見あたらない。
「お待たせ」
 三十分ほど家の玄関口で待っていた僕の耳元に、ようやくルナが微かな声で挨拶をくれた。日が昇るまで、
僕たちは散歩をしようと約束し合っていた。
 東の空には、糸のように細長い月の欠片が浮かんでいる。太陽は昇っていないが、空は既に白み始めて
いた。もう時間はない。

715 名前:品評会用 月 5/5 ◆D8MoDpzBRE 投稿日:2006/12/30(土) 04:04:22.91 ID:iIRA4tm00
「また、会えるかな」
 聞いても仕方のない質問だと思う。だが、聞かずにはいられなかった。ルナは困惑と微笑みを複雑に絡め
た表情を作りながら、話し始めた。
「私が地上に降りてこれたのは、貴志君の家にあったプラモデルのお陰なの。南向きの出窓から毎晩毎晩月
の光を浴びて、少しずつ月の精を溜めていった」
 あの晩のことを思い出す。ガンダムのお腹がふくらんで、突然はじけるようにルナが生まれた。だけど僕は、
まるでずっと昔からルナと一緒にいるような錯覚さえ覚えていた。
 ルナが話を続ける。
「あのプラモデルは、月の精を溜めるにはちょうど良い条件だったの。大きさとか、角度とか」
「じゃあ、あそこにあのままガンダムを置いておけば、また会えるんだな?」
 思わず強い口調になってしまう。僕の鼻先を漂うルナの表情が、困惑の色を濃くしていく。
 僕にだって分かっていた。これが実りようのない想いだと言うことくらい。考えても見たら、僕はまだ十八歳
の若造だ。一方でルナは五十億年もの間、地球の側を回り続けてきた。釣り合いようがない。
「あのプラモデルは、もう月の精を溜める器としての使命を終えてしまった。他の物でその代用をしても、上手
くいくかは分からない」
 ルナが寂しげに口を開く。何も言えないでいる僕との間に、気まずい空気が流れる。もう時間がないのに、
太陽はもうそこまで昇ろうとしているのに。
 そんな中、ルナの顔に再び笑顔の灯がともった。
「だけどね、貴志君。あなたの目からはいつだって、私の姿が見えるんだよ。お日様ほどは明るくないけど、
そんじょそこらのお星様よりは、断然私の方が明るいんだから」
 見え透いた強がり。だけど、それが今の僕には一番ありがたかった。
 そしていよいよ、手のひらサイズの月の天使が、空へと還る時間が迫った。
「かぐや姫さまによろしくな」
 言った後で気付いた。もしかして、ルナこそがかぐや姫だったんじゃないかと。だが、真相を聞く暇もなく、
ルナの体は朝日にかき消されてしまった。残されたのは、日光を浴びてキラキラと輝く朝露の余韻だけ。
 散歩からの帰り道、僕は青空の中に取り残された、ぼんやりと白い新月を見つめていた。



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