581 名前:恋(1/3) ◆dx10HbTEQg 投稿日:2006/12/29(金) 23:20:21.90 ID:LOYPYO440
待ち合わせの時間を頭の中で反芻しながら、うずうずとコーヒーを淹れた。インスタントだけど、ネスカフェの香味
焙煎は美味しい。
後十分、後九分……。九時に近づいていく長針を、じーっと眺める。ああ、早く来ないかしら。
「佐知子ちゃん、いる?」
「はい!」
まだ五分も前なのに。早くに来てくれた弘さんに、幸福感が募る。顔が緩むのが分かるけれど、止まらない。
もう、私のバカ! こんな程度で満足してちゃダメ。今日こそは新しい、次の一歩を踏み出そうって思ってるのに。
「今日は何の音楽にする?」
「えっと……」
私と弘さんの出会いは、音楽の好みの一致。友達には古臭いって言われるけれど、私はすごく好き。
ちょっとだけ話し合った結果、私の希望が叶った。彼は、いつも私の意見を優先させてくれる。
よくないとは思うのに、ついつい甘えてしまう。私は、その彼の優しさが……すごく好き。
時計を見ながら、再生のスイッチを押した。ちょうど九時。今日は、どれくらい弘さんとお話できるのかしら。
優しくて明るい曲調が私の耳朶に響く。きっと、弘さんにもこの曲が同じように届いているのだと思う。
「新曲、もうすぐですね」
「うん。楽しみだよねえ。発売日に買うの?」
「もちろんです。弘さんもですよね?」
「もっちろん。じゃあ同じ日だね」
ああ、早く出ないかなあ。カレンダーにつけた丸は日に日に近づいてはいるけれど、待ち遠しいのに変わりはない。
今までの曲は既に語りつくしてしまっていて、話題が出てこないことも多くなっていた。
不安なのだ。私は話が下手だから、もしかしたら弘さんは退屈に思っているかもしれない。新曲さえ出れば、互い
の会話もきっと盛り上がるのに……。
「どうしたの?」
考え込んでいたら、ついつい発言が途切れてしまっていた。
優しい弘さん。いつも私を気遣ってくれて、楽しく話をしてくれる。
それに比べて、内向的な私。昨日、友達に言われたことが、頭から離れない。
「私って、古臭いでしょうか?」
「え? どうして?」
582 名前:恋(2/3) ◆dx10HbTEQg 投稿日:2006/12/29(金) 23:20:41.20 ID:LOYPYO440
友達との会話を思い出す。本当は弘さんと付き合っていることは内緒にしていたかった。けれど、不安の余り、ついに
打ち明けてしまったのだ。
彼は私のことを、本当はどう思っているのかしら? もう飽きてしまったのではないかしら?
彼女は、私に彼氏がいるということ自体に驚きを隠せないでいたようだったけど、すぐに笑って言った。
佐知子は、古臭いんだよ、と。
「友達に言われてしまって……」
「古い、かなあ? 友達には何て言ったの?」
「恋人が出来て…………それで。手は繋いだの、って聞かれたので、繋いでないよ、って答えたんです」
「それで?」
「それだけ、です……けど」
彼の返答は、苦笑。
弘さんは社会人で、私は高校生。その他にも問題はあるということで、細かいことは隠し通した。
だからその苦笑は、色々な意味を持っているのだと思う。そんなことだけで、判断できるものじゃないよ、とか。私に
呆れてるんじゃあない、とは思う。
けれど、不安も何もかもを見通されているような気がして、決心が鈍ってしまった。
私と、手を繋ぎませんか?
今日はそう言おうと決心していた。そう、三十分くらい前まではずっと、思っていた。なのに。
いざとなると手が硬直したように動かなくなってしまう。意気地なし。私の弱虫!
「じゃあ、さ。佐知子ちゃん、手、繋ごうか?」
弘さんの一言に、私の頬が紅潮する。彼の方から言ってくれるなんて!
手を、じっと見つめる。ピアノをやっていたからか、長くて細い私の手。女の子らしいとも、頼りないとも言われる。この冬のせ
いで乾燥して、皮が剥けているのが悲しい。この手が、彼の大きな手で包まれる……?
想像しただけなのに、嬉しさと恥ずかしさで心臓がどくどくといっている。
私はやっぱり古臭いのかもしれない。この程度で死んでしまえそうになれるのだから。
「ごめん。無理にとは言わないよ。君の心の準備が出来るまで、俺はずっと待ってるから」
あ……。
返答の遅さで、勘違いされてしまった……。私は本当に、馬鹿だ。弘さんの優しさに、涙がにじむ。
手を繋ぎたい。本当は、手を繋ぎたいだけじゃない。
抱きしめて、キ、キスをして、それで、それで――。
うう、私には無理かなあ……。
583 名前:恋(3/3) ◆dx10HbTEQg 投稿日:2006/12/29(金) 23:21:00.09 ID:LOYPYO440
落ち込んだ気分を入れ替えようと、冷めてしまったコーヒーを一気に口に流し込む。
「コーヒー、淹れてきますね」
「あ、俺も」
一言断って、席を立つ。香味焙煎をスプーンで二杯コップに入れ、お湯を注いでかき混ぜる。コーヒーの匂いが部屋に
充満して、すごく幸せな気分になれる。
コップを慎重に抱えて戻ると、
「香味焙煎っていい香りだよね。インスタントだけど、美味しい」
ああ、同じ事を考えていた。嬉しい嬉しい。本当に嬉しい。
変わらないはずなのに、コーヒーが二倍も三倍も美味しくなった気がした。お砂糖も何も入れていないのに、蕩けるよ
うに甘い。
この味は、恋の味かしら? 喉を通り過ぎても、熱さは全身に留まって離れない。
幸せに浸っていると、曲が次のものへと移った。恋の歌。不安と恐れが、歓びと希望で打ち消される暖かい歌。
よし。
目をつぶって、ぱんぱんと両頬を手のひらで打った。気合を入れろ、私。弱気になるな。
古臭くたって、奥手な私だって、やるときにはやれるんだから!
「手、繋ぎましょう、弘さん」
「え?」
「明日、いえ、今日中、今すぐにでも。弘さんは大丈夫ですか?」
いいの? と弘さんは心配そうに聞いてきたけど、私は心に決めた。大丈夫。大丈夫。
私にだって出来る。恋は女の子を強くする。自信を持て。私は強い!
「じゃあ、一時間後に駅前でお願いします」
「分かった。じゃあ、また後でね」
精一杯お洒落して、お化粧をして、一時間で大丈夫かしら!
何せ、写真さえもやりとりしていないのだ。第一印象が大切なはず。
私は慌てて、パソコンの電源を落とした。
候べったりかっちんこ