【 新ジャンル「イワシ」 】
◆wDZmDiBnbU




393 名前:『新ジャンル「イワシ」』 (1/3) ◆wDZmDiBnbU 投稿日:2006/12/29(金) 10:45:22.29 ID:mGZ0aSeJ0
 朝から音もなく降り積もる雪はいかにも年明けますよといった感じの大晦日で、こんな
ときはもう何もかも忘れて外に駆け出したくなったりする。というか、そうすべき。それ
も今すぐ一刻も早く。デッドリミットはもう目前で、今日帰らないと正月にさえも帰って
こない不良娘の烙印を押されて家族が泣いたりともう悲惨な結末は予想に難くない。

 なのに。それなのにこの男ときたら。

 小中高と共に育ち地元を離れた大学まで一緒という絵に描いたような幼なじみで、その
うえ勉強もそこそこできて顔も私好みのこってり系というもう付き合え付き合ってしまえ
と言わんばかりのこの男は、まあ現にこうして私の部屋のベッドの上に全裸で寝転がって
いるのだけどそれは別に喜ばしいことでもなんでもなくむしろ大晦日の昼間から非常に迷
惑しているわけで、一緒に仲良く帰省するはずの約束がなぜかひとりぼっちのイビキ鑑賞
会になっているかと思うと正直こいつには死すら生ぬるいとさえ思う。

 今に始まったことではないけれど、この男は一度寝ると起きない。殴ろうが蹴ろうが間
接を極めようがデリケートゾーン全体を一気に脱毛しようがこの男が目を覚ますことは決
してない。起きないくせにあとから「勝手にちんげをぬくな」と泣きそうな顔で説教して
みたりするので始末に負えない。本来なら窓を全開にして一人で帰省するところだけど、
免許はないし新幹線の切符を買うお金もないしで今日という今日こそはどうにもならない。

 所詮は血塗られた道、もう容赦はしない。思いつく限り、ありったけの力で嫌がらせを
してやる――。そう思ったのがそもそもの間違い。

 耳元で「もう十二時ですよー」と叫んでみても顔にマジックでそう書いても起きる気配
はまるでなく、調子に乗って顔に日記を書き続けてもたまに「あふん」と艶かしい声を漏
らす程度。もう頭に来るし興は乗ってくるしで年明けにふさわしく奴の下半身にしめ縄飾
りを施したり魔除けのイワシを吊るしたりしてみたもののいやそもそもなんで今この時期
に冷蔵庫にイワシがあるんですかあほですか。これから帰省なのに人んちの冷蔵庫に生も
のとか貴様どんな冷酷超人ですか。


394 名前:『新ジャンル「イワシ」』 (2/3) ◆wDZmDiBnbU 投稿日:2006/12/29(金) 10:46:11.39 ID:mGZ0aSeJ0
 男の鼻にポップコーンを詰めるころにはすでに陽は傾き始め、ああこのまま結局夜遅く
に出発なのかなあと思うと絶望的な気分になる。

 出発が遅くなるのはもうお約束でこの間のお盆の帰省もそうだったけど、ただ一つ違う
のは今は冬でそれもものすごい豪雪で。この男は残念ながらひどく頭が悪いために高速代
をケチって必ず下道で返ろうとするので多分福島の山道あたりで雪に埋もれてにっちもさっ
ちもいかなくなるのは言うまでもなく、降り積もる雪に半ば埋もれた自動車の中で二人寒
さに震え「このままじゃ俺もお前も死んでしまう。よし暖め合おう」と目を爛々と輝かせ
全裸になって迫る男の股間にぶら下がるイワシ。「おまわりさーん」と叫んだ瞬間に年が
明けたりしてハッピーニューイヤー見つめ合う二人、そして愛の口づけ→セックスとかも
うどう考えても最悪なのでとにかく落ち着いてなんとかしようと深呼吸したら目の前のし
め縄マンから漂う生臭い匂い。

 全開のままの窓に駆け寄り数回咳き込んだところで涙が出た。

 親元に帰ることも許されず、ワンルームの安アパートでなぜ男の股間に新年の神事をと
思うと寂寥感はつのるばかり。長いこと付き合ってきたけれど、この大晦日ほど彼を遠く
感じたことはない。この人は変わってしまった、もう見るからにあの頃の彼とは違う。す
れ違う想い、こぼれる涙、そしていずれ訪れる別れ。さようなら、あなたは私には眩しす
ぎる。なぜなら股間が神々しいから。

『お父さんお母さん、ごめんなさい。
 あなたたちの娘は正月に実家にも帰らず、神々しい全裸のイワシ男を眺めています』

 少し遅めの年賀状、その文面を考え始めたそのとき。私が目にしたそれは――男の股間
に生えかけた、うっすらとした陰毛だった。


395 名前:『新ジャンル「イワシ」』 (3/3) ◆wDZmDiBnbU 投稿日:2006/12/29(金) 10:46:56.18 ID:mGZ0aSeJ0
 芽生えたばかりの幼い産毛、それは新しい生命の息吹。力ずくで引き抜くのは簡単だ、
でもその小さな命の輝きを、どうして奪うことができるだろう。少なくとも私にはできな
かった。いつかこの甘さが命取りになるかもしれない、だがそれでも命は命、それを奪う
ためだけの力なら、いっそ無くなってしまえばいい――窓の外に舞う雪を眺める私は、正
直もう何を考えているのかわからなくなってきた。

 ただ一つだけ言えるのは、もう日の暮れたこの街に、もうすぐ新年が訪れようとしてい
るということ。こんにちは新年、こんにちは新しい命。そのまばゆいばかりの輝きに思わず目を細め、そして再びの逡巡の後――なんかもう心の底からどうでもよくなってきたので、とりあえず全力でむしり抜いた。

<了>



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