【 アイム・ニヒリスト 】
◆twn/e0lews




379 名前:アイム・ニヒリスト ◆twn/e0lews 投稿日:2006/12/29(金) 05:13:25.18 ID:QzXDVn7E0
 ――人生とは、射精だ。
 四年ぶり、高校の卒業式以来だった彼は、居酒屋のカウンターで人生を射精に喩えた。
小洒落た雰囲気の店には、僕達と同年代のカップルの姿もちらほらと見え、その何組かの視線がこちらを向いたのが解る。
彼の声は、店内に流れるジャズミュージックに比べて、やや大きかった。
 僕はウィスキーのダブル、彼はバーボンを、それぞれロックで飲んでいる。
「その心は?」
 視線を気にせずそう返せた僕も、どうやらおかしな人間らしい。彼は僕の応対に嬉しそうに指を鳴らして、良いねと呟いてから、答えた。
「振り返れば何も無い」
 大層に語る程もないと僕は思ったが、しかし口にする事はない。無言のまま煙草を咥え、ジッポを擦る。
彼はそんな僕の様子を見て、一つ溜息交じりに笑った。それは自嘲だ。
「格好つけた割に易い、そう思っただろう」
 マナーとして、僕は首を振った。
「僕には難しかったんだ」
「そんな事はないはずだ。お前は、頭が良かったからな」
 買いかぶりだと、今度は僕が自嘲する。
「インテリぶっていただけさ。ニヒリストを気取っていれば、大抵の事は許容出来る」
 煙草の煙を吐き出しながら、当時の事を思い出す。大人ぶって、知った風に諦めて、そうしなければ、辛かった。
「逆に言えば、本当は何も諦めたくなかったって事だろう?」
 彼は言った。
 確かにそうなのだろうと、言われてから思った。
周りの人間は僕の様にならなくても日常を送れていたのだから、僕の反応は過剰反応だという事になる。
過剰に反応しなければならなかったのは、つまり、僕が本当は何も諦めたくなかったからだ。
「そうだったんだろうな」
 僕は言って、煙を吐く。宙に渦を巻く煙は僕の視界に幕をかけるが、しかし、それは常に同じ煙ではない。
僕が煙草を吸う事をやめたら、煙は消えるだろう。煙は入れ替わり、消えていない様に見せているだけだ。
「何も無いのに、射精が嫌いな男がいない理由、解るか?」
 彼は尋ね、僕は煙草に関する思考を中断して、その答えを考え始める。
少し間を置いて、几帳面にも彼は、精神的な病気で射精が嫌いな人間は除いてくれよ、と付け加えた。

380 名前:アイム・ニヒリスト ◆twn/e0lews 投稿日:2006/12/29(金) 05:13:56.65 ID:QzXDVn7E0
 一つ、動物としての保存本能に依る。二つ、依存の手段。三つ、相手に愛を伝える手段、エトセトラ。
考えてみれば、答えとして適当に思える物は幾つかあったのだけれど、そのどれもが彼の求める答えではない様な気がして、僕は答えなかった。
彼はもっと、単純な事を聞いている気がする。
「その時は、気持ち良いから」
 だから、僕は結局そう答えた。
 彼は僕の答えに、嬉しそうに笑って、正解だと言った。
「射精は気持ちが良い」
 そう彼は続けた。そこまで聞いて、僕は彼の言いたい事が何となく解った気がしたから、その言葉を継いで、問う。
「なら、人生だって悪くない?」
 しかし、彼は僅かに首を傾けただけで、ハッキリとは頷かなかった。
「違うの?」
 僕は聞いた。
「条件付き正解、かな」
「条件?」
 続きを急かす僕に、彼は一つ息を吐いて、グラスに残ったバーボンを一気に飲み干してから、答えた。
「悪いのは、何より悪いのは、振り返ってしまう事だ。だから、振り返る事を止められるなら、それは正解だ」
 言い切ってから、言葉を脳内で反芻する僕に向けて、彼は思い出した様に、続けた。
 ――と、俺は思う。
 と、の始まりは、きっと人生を射精に例えた件からなのだろう。
「そこまで考えたなら、君の中では人生を楽しむ秘訣が完成しているんじゃないか」
 僕は言った。
「ああ、そうなんだ。やっと俺はニヒリストを卒業出来るんだ」
 彼は笑って返した。
「おめでとう」
「ありがとう」
 この席は、僕が奢る事にした。友人の、新たな世界への旅立ちに。




381 名前:アイム・ニヒリスト ◆twn/e0lews 投稿日:2006/12/29(金) 05:14:20.59 ID:QzXDVn7E0









 目が覚めた理由は、アユが僕の肩を揺らしていたから。どうしたのと言いながら、僕は目蓋を擦る。
デジタル時計を確認すると、八時を十分過ぎた程度、アユは今週一杯遅番だから、起きるには少し早い時間だ。
 アユは何も答えなかった。意識がハッキリしないから、僕は取り敢えず煙草を吸いたい。
「煙草、取って」
 言われて、気が付いた様にアユはなって、机の上から煙草を取り、僕に咥えさせて、火を点けてくれた。
体に煙が染みて、徐々に脳に血が通い始めていくのを感じながら、僕は有難うと言った。
 意識がハッキリし始めると、アユの様子がおかしい事に気が付く。
「どうしたの?」
 今度はアユの目をちゃんと見て、聞いた。
「刑事、来てる」
 手短に答えたアユに、僕はむせた。煙草のせいで喉は苦い。その時、インターホンが鳴って、どうやら本当に警察が来ているらしかった。
「何もしてないよね? 大丈夫だよね?」
 言い始めたら止まらなくなったらしく、アユは言いながら、鼻声になっていた。
「当たり前だろう、信じてくれよ」
 僕は笑って、アユの頭を軽く撫でてから、玄関に向かった。



382 名前:アイム・ニヒリスト ◆twn/e0lews 投稿日:2006/12/29(金) 05:14:43.86 ID:QzXDVn7E0

 テレビを点けたら、本当にニュースは流れていた。
事が起きたのは昨日の夜らしいから、ほとほとテレビを見ない習慣というのは恐ろしい。
テロップで流れる死傷者リストの背景に、渋谷のスクランブル交差点に出来たクレーターが映っている。
犯人の名前は間違いなく彼だから、自然と、苦笑にも似た笑みが零れる。
「何だったの?」
 言ったアユは、さっきから僕に抱きついたままで離れようとしない。
「一昨日飲んだ友達が何かやらかしたらしくてね、その事を聞かれただけさ」
 ダイナマイトを体に抱え、スクランブル交差点の真ん中で自殺した彼は、きっと射精と花火が似ていると言いたかったのだろう。
横を見るとアユはまだ不安そうな顔をしていて、だから僕は、大丈夫だよとキスした。
「お腹減ったし、何か作ってよ」
 肩を叩いて、アユを促す。納得のいかない顔をしているアユに、僕は煙草を咥えて、大丈夫だよと、もう一度言った。
 ジッポを擦って、火を点けた。煙草の煙は渦を巻いて漂っている、それは消えない。
煙草の味は美味しいから、僕は、未だニヒリストだ。





                          了



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