【 命の名前 】
◆7CpdS9YYiY




314 名前:命の名前(1/4) ◆7CpdS9YYiY 投稿日:2006/12/29(金) 00:39:29.14 ID:gUW3x/Fq0
 その病室の窓からは、一本の痩せた木が見えていた。
 夏にはそれなりに青葉を繁らせていたその木も、冬が近づくにつれ一つ、また一つと葉を枯らせ散ってゆき、
年の瀬の頃には、その葉も数えるほどとなった。
 それでもしぶとく木にしがみついていたものたちも、ある晴れた日、北からの強風によりばらばらと枝から引き離れ、
ついに最後の一葉となってしまう。
 ベッドの上からその様子を眺めていた十和子は、寂しそうにつぶやいた。
「見て、あの木。『最後の一葉』よ」
 言われて窓の外に目をやった達彦は、少し眉をひそめた。
「……ああ、そうだな」
「あの葉が散ったら、私も……なんて言ったら、怒られるかしら?」
「怒るさ。馬鹿なことを言うんじゃない。あの木と君にはなんの関係もない」
 達彦のあんまりに生真面目な返答がおかしくて、十和子は微笑した。
「冗談よ」
「冗談でもそんなことは言わないでくれ。特に今は、君一人の身体じゃないんだ」
「……そうね」
 十和子はうつむいて自分のお腹を撫でる。ぽっこりと膨らんだ腹部は、そこに宿る新たな命の目覚めが近いことを示していた。
「気分はどうだい?」
 達彦がそう聞くと、十和子はゆっくりうなずいた。
「ええ、とてもいいわ。最近は食欲も戻ってきたみたいだし、血色も良くなってる。
お医者様も『問題なく出産を迎えられますよ』って言ってくれたわ」
 だが、その言葉とは裏腹に、十和子の顔は馬のように蒼ざめており、その細い手首には血管がくっきりと浮かび上がっていた。
「……おかあさん?」
 二人の話し声で目が覚めたのだろう、達彦の膝の上で眠っていた健が目をしばたたかせながら十和子に小さな手を伸ばした。
「おかあさん……あかちゃん、まだ?」
「まだよ、タケルくん。もうちょっとだから待っててね。もうすぐで、キミの妹に会えるからね」
 十和子は健の手を握り返しながら答え、優しくその手を振ってみせた。
「そうか。健ももうすぐお兄ちゃんか」
「そうだよおとうさん。ぼくね、もう5さいだからひとりでごほんもよめるし、おえかきだってじょうずだって、さちこせんせいがいってた。
 だからぼく、おにいちゃんになったらあかちゃんにごほんをよんであげて、おえかきをおしえるんだ」
 その愛くるしい舌足らずなしゃべりかたに、達彦も十和子も目を細め、お互いの視線を合わせて忍び笑った。

315 名前:命の名前(2/4) ◆7CpdS9YYiY 投稿日:2006/12/29(金) 00:39:46.91 ID:gUW3x/Fq0
 またうつらうつら舟をこぎ始めた健の頭を撫でさすりながら、達彦はふと真剣な眼差しを十和子に向ける。
「僕は今でも悩んでる。本当は早い段階で堕ろすべきだったんじゃないかって。
 幸いにも僕たちには健がいるし、新しい子供は君の病気がよくなってから、いや、せめて体調が上向きになるまで──」
 その言葉を、十和子は優しく人差し指を振って留める。
「怒るわよ?」
「だが」
 十和子はわずかに咳き込み、だがすぐに息を整えて口を開く。
「いいの。私は後悔していないわ。せっかくの新しい命を、新しい可能性を、私たちの手で摘み取るなんて、とてもできそうにないから。
 たとえ私が死んでしまっても、この子が私の命を引き継いでくれる。誰かが誰かの命を受け継いでゆく。それが、生きていくってことでしょう?
 それに、私は死ぬつもりなんてないわ。それどころか今から待ち遠しくて仕方がないの。
 この子が生まれたら、どんなことをしようか、なにをして遊んで、どんなお話をしてあげようか、
タケルくんが寂しがらないようにタケルくんのこともいっぱい可愛がってあげなくちゃ、とか」
 口に手を当て、心底から嬉しそうに語る十和子に、達彦は一瞬だけ悲しそうな目をし、それを振り払うように
明るい口調で十和子に問いかけた。
「それで、新しい子供の名前は考えたかい?」
「ええ、実はもう決めてあるの。きっとあなたも気に入ってくれると思う」
「へえ、なんだい?」
「それはね──」
 また、十和子は咳き込んだ。今度はなかなか止まず、心配そうに顔を覗き込む達彦の前で、
十和子はゆっくりと前のめりに崩れ落ちていった。
「十和子!」
 だめよ、そんな大声出したらタケルくんが怯えちゃうし、この子もびっくりするわ──。
 十和子はそう思ったが、それを口にできたかは定かではない。
 そのまま、十和子の意識は濃い霧に包まれていった。
「十和子、とわ──」
「み、こと」

 再び十和子が目を覚ましたとき、あたりは薄暗かった。
 今は夕方なのだろうか、それなら電気をつければいいのに、とおぼろげに思った。
「十和子、気分はどうだい?」

316 名前:命の名前(3/4) ◆7CpdS9YYiY 投稿日:2006/12/29(金) 00:40:06.63 ID:gUW3x/Fq0
 近くから声がした。それはよく知った声だった。
「ええ、とてもいいわ。なんだか身体がとても軽いの。
きっと丈夫な赤ちゃんが産めるわ。お医者様もそう保証してくれたもの。
 ねえ、ところで今何時なの?」
 霧の晴れないような心持ちでそう訊ねたが、なぜか答が返ってこない。
「ねえ」
 ややあって、言いにくそうな達彦の言葉が聞こえてきた。
「驚かないで聞いてくれるかな」
 目の前にいるのはなんとなくわかるのだが、どうにも薄暗くてその表情が見えない。
「なに?」
「君は、この五年間、昏睡状態にあったんだ。君自身の持病の発作と妊娠中毒、それに緊急出産時の出血性ショックのためだ」
 十和子はぼんやりとその言葉の意味を考えてみた。
「そんなのおかしいわ。だって、私、さっきまで──」
「本当なんだ」
 強く、言い聞かせるように達彦が言葉を重ねてくる。
「僕もあれから五年分の歳を取った。係長から課長に昇進した。健ももう小学生だ。
 さっき学校に電話したからもうすぐここに来る。そうしたら君も信じるだろう」
「そう、なの──」
 ぼうっとし続ける脳裏に、たった一つの事柄が浮かび上がる。
「ね、赤ちゃんは?」
 もしかしたら、と胸が締め付けられるような苦しみが去来する。だが、
「ああ、ここにいるよ。と言っても、もう赤ちゃんじゃないけどね」
 と達彦が小さな身体をその膝の上に乗せた。
「おはよう、まま」
 そう言ったのは、十和子と達彦によく似た、肩まで伸ばした髪を綺麗に切りそろえた小さな子供だった。
「まま、おはよう。くさなぎみこと、ごちゃいです」
 女の子らしいはにかんだ仕草で、その子は十和子に挨拶をしてみせた。
 十和子の弱々しく震える手が、桜色の頬に触れる。いつの間にか、十和子の目には熱いものが溢れていた。
「おはよう、ミコトちゃん。私がママよ。ごめんね、ずっと眠ってて」

318 名前:命の名前(4/4) ◆7CpdS9YYiY 投稿日:2006/12/29(金) 00:41:40.54 ID:gUW3x/Fq0
「あのね、みことね、ずっとままとおはなししたかったの。ままはいつもおやすみばかりだったでしょう?
 ままにおはなししたいこと、いっぱいいっぱいあるの」
「ええ、これから……いっぱいお話しましょうね」
「おにいちゃんはね、みことにいつもごほんをよんでくれるの。だからみこと、ごほんがすきなの。
 おえかきもじょうずだから、さちこせんせいはおにいちゃんよりもじょうぶだねって、ほめてくれるの」
「そう……」
 視界がぼやけていた。私もあなたに話したことがある、私がどれだけこの瞬間を希っていたか、
あなたとタケルくんと、ママとパパと、一緒に……一緒に……。
 もっと光が欲しかった。その愛娘の顔をしっかりと見たかった。
「これからまいにち、ぴくにっくにいこうね。ままとぱぱと、おにいちゃんとで」
「ええ、素敵ね、とても……す、てき……」
 新しい命に付ける名前、その切実で心からの願いを込めて、十和子はその名を呼んだ。
「みこと、ちゃん──」

 ピー、という平坦な電子音が無情に病室を満たしていた。
 ベッドの脇で十和子の脈を取っていた医師が達彦に目礼をする。この結末を覚悟していたため、達彦は取り乱すことなく会釈を返すことができた。
「まま、まま……」
 返事を期待してるのか、もう二度と目覚めぬ十和子に幾度も繰り返されていた呼び声も、
「しんじゃったの……? ま、ま……うう……うあああああああん!」
 その小さな身体のどこから、と思わんばかりに、喉を裂けんばかりの泣き声に変わっていった。
 達彦はその小さな頭に手を置き、抑え切れない悲しみを込めてぐしゃぐしゃと撫でる。
「おかあさああああああん! やだあああああ!」
 その拍子にずるり、とウィッグが外れ、短く切り揃えた本来の髪形が露わになる。
「立派だったぞ、健」
 達彦がそう声を掛けても、健はそれも聞こえぬげに、子供らしい自制心のなさに任せて力の限りに泣きじゃくっていた。

 窓の外では一陣の木枯らしが吹き、今、最後の一葉が散った。



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