【 古いものの通る道 】
◆sjPepK8Mso




301 名前:古いものの通る道 第三十九回品評会用 1/5 投稿日:2006/12/29(金) 00:22:10.21 ID:B2ki/nwq0
 あの竜顔が全部悪いのだと、少尉は言った。
 だが己はそうは思わない。悪いのは天皇である竜顔だけではない。むしろ彼は生きていくために正しい事をしたと言える。
 悪いのは「和捨英栄」というスローガンを認められなかった国守御三家と、それに付き従う北日本に住む百万の民草だ。当然己も含んで。
 今はすでに昔となった去年の十月。竜顔は決して平気な顔をして英国に従ったわけではない筈だ。今まで築いてきた「日本国」を捨て、英国の属国となる事をそうやすやすと飲める人間なんているはずが無い。
 あの時竜顔は、日本に「日の本」である事を止めるのを強要したのでなく、これ以上「日の本」として日本が形を保つのは不可能だと判断しただけだ。
 その判断が本当に正しいかったかどうかは己にはなんとも言えないが、「日の本」を名乗って英独仏連合艦隊と正面からやりあうよりは、いくらかマシな決断だったとは思える。
 だが、古くから日本の軍部を支えてきた国守御三家は、人民玉砕を唱えてはばからなかった。死んで無能な護国の鬼があるべきだと唱えた。
 どう考えてもおかしい話だが、生きる為の選択を蹴って御三家は天皇に反逆した。
 その上に、日本文化というまやかしに惑わされて生き残る為の道を選べない人間は、御三家だけではなかった。何人もの人間が「滅英」を叫び、国は精神的な意味で二つに割れる。
 この時点で天皇派と御三家派は半々程。政治家は自らを人民の代表者と名乗り、自らの面子をかけて争った。
 しかし、去年の十一月にその争いは一方的に中止される。竜顔が一方的に英軍と渡りをつけ、日英大協約が調印された。
 そして十一月三日、御三家は関東に国境を引き、青森に引きこもった。奇しくも、この日は天皇の誕生日である。
 全てを御三家の所為にする事は出来ない。なにしろ、己も日の本を捨てる事には反対した身である。己に御三家を批判する権利など無い。
 十一月四日に北日本軍は英国、並びに南日本に対して宣戦布告。
 戦力差は圧倒的だ。英・仏・独、そして南日本。三つと半分の国を相手に戦争をやるなど、どだい無理な話だ。
              ※
 十勝の森の中の一本道に壕を掘った。少尉はそこで死んだ。
 北から攻め込んだ英仏独三国同盟艦隊は、戦争が始まってからわずか四日で北海道に上陸し、網走に集まった二個大隊は撤退の憂き目。
 十日もたたない内から撤退戦を余儀なくされた北日本軍に、己はいる。網走で既にわが中隊長殿は行方知れずとなった。中尉である己に中隊指揮権が与えられ、大隊長殿は己の部隊に殿を勤めるようお言いになった。
 函館の港に最終防衛ラインを張り、札幌に戦力を集中する腹の大隊長殿は、殿である己の隊に命運をかけている。
 己と己の隊の役目は時間稼ぎである。日の本の面子を保つためには、己が死ぬ覚悟で戦わねばならない。
 狭い道一杯に浅い穴を掘り、雪を固めて壁を作り、あまりに粗末なものではあるが、一種の防壁を作った。
 そして、お人好しの少尉は死んだ。
 雪が止んでいる所為で、敵の正体は百間離れていても視認できた。銃の射程は通常せいぜい五十間。敵の侵攻部隊の先頭は軽装の偵察隊だから、まず銃弾は飛んでこないだろう。
 壕から顔を出すのは厳禁だと、己は言っていた。しかし少尉は顔を出した。少尉は油断していた。それが仇だ。
 顔を出しても撃たれることは無いと、油断していた少尉の額に穴が開いた。赤い血が後頭部から噴出し、宙を舞い、やがては雪を赤に染めていく。少尉が死んだ次の瞬間には己は赤い雪に見とれていた。薄情なものだと、己は己を笑った。
 状況を甘く見た己に反吐が出る。銃の射程が五十間だなんていう、北日本の軍備を当然の如く思っていた己に嫌気が差す。軍備に差があるのですら、考えてみれば当然の事なのだ。
 敵はライフルを持っていたに違いない。通常の銃と違って、ライフルには腔線と呼ばれる溝が銃身に掘られていて、その特殊な形状は弾丸を回転させ、弾道を安定させる。
 仕組みは簡単だが、効果は絶大だ。このお蔭で銃の射程は百間にはなると言う。日本ではまだ鋭兵にも行き渡っていない銃だ。だが、敵はかの英吉利である。資本力が違いすぎる。おそらく敵方ではライフルがすでに雑兵まで行き渡っている事だろう。
 ガチガチとなる歯の根を押しとどめ、奥歯を噛んで後悔する。それしか出来ない。

302 名前:古いものの通る道 第三十九回品評会用 2/5 投稿日:2006/12/29(金) 00:23:29.37 ID:B2ki/nwq0
 手振りで中隊全員に壕から出るなともう一度指示し、敵の様子を伺う。正面切って睨んでやりたいところだが、そうはいかない。少尉の二の轍を踏みたくは無い。
 敵はもうこちらがいることに気付いてるし、隠れるわけにも、一目散に逃げるわけにもいかなかった。己がもっとしっかりやっていればこう追い詰められる事も無かったのかと思うと、悔しい。
 戦況はたった一人で動かせるものではないが、己は仮にも中隊長だ。従ってくれる部下とならば、もっと上手くやれていた筈だった。
 なんて無能な指揮官なのかと、顔が熱くなる。弱くなった瞳の色を帽子のつばで隠し、銃を持ったまま少尉の死体を今一度眺める。
 瞳を開けたまま大の字になって倒れる少尉は、まだ生きているようにすら思えるのに、彼の額には穴が開いている。生きているように見えるのに、どう考えたって死んでいる。死んでいるのに、生きているように見える。矛盾にすら思えた。
 感傷に浸るなど、今やるべきことではないというのに、少尉の死体を見ているだけで後悔の念が吹き出る。
 最も確実な事は、彼はもう役に立たないと言う事だ。
 これまでの行軍中にも己は何人も人を殺した。足をけがしたヤツに止めを刺すのはいつも中隊長である己の役目だった。
 それと同じ事をしなければならない。もう彼らはこの世にはいないのだと、彼らが護国の鬼となったのだと思う為には、止めを刺さなければならない。
 少尉を殺したのは己なのだと、言い聞かせながら少尉の両の目蓋を閉じてやる。彼は既に人では無い。人の体がどうなろうと知った事ではないだろうが、こうでもしなければ己は納得出来ない。
 顔色を部下に悟られないよう、俯いたまま雪の防壁に身をゆだねる。冷たい雪が火照った感情を侵食し、静かにし、感覚を鋭敏にしていく。
 馬に乗った銃兵の事を、向こうでは龍騎兵と呼ぶそうだ。それを知る己には、聞こえてくる雪踏みの音は、まるで龍の羽音にも聞こえる。
 中隊にいる全員が息を殺していた。呼吸音を殆どさせないで、白い息を吐きたいのをガマンしている。己達がいることを悟られようとも、その規模を悟られてはならないからだ。
 敵に与える情報は、極限まで少なくしたい。もはや全滅は避けられないが。己は、良くても死んで無能な護国の鬼だろう。しかし、そこらの犬畜生のエサにもなれぬ死に方をする気はない。
 せめて一矢報いるのだ。おそらく、皆そのために息を殺している。
 この中隊は狂気をもった集団で、既に人間ではないのかもしれない。正気を標準とするのだから、狂気は紛れも無い異常だ。
 敵はもう壕から六十間の所まで来ている。馬の足取りは、人間のそれとは比べ物にならないぐらい軽く、距離が縮まるのも早い。己は震えて鳴る歯の根を押さえつけて銃を抱き込んだ。
 まだ確実な射程とはいえないはずだ。相手の銃が高性能であるならば、わざわざギリギリの射程で戦う事も無いように思える。
 さくさくと、降り積もった雪を固める音が響いている。積もった雪が吸収しきれないかすかな音に耳をすます。
 もう正面からの殴り合いしか出来ない。「裂帛の気合をもってすれば」と軍学校の教官が言っていたのを思い出すが、敗走する兵士に裂帛の気合があるはずも無い。装備も無い。
 僅かな銃弾を無駄にする訳にはいかないから、限界までひきつけたい。
 永遠に続くかのような雪踏みの音。己の耳から脳の中身から骨の髄までに忍び込み、時が止まったかのように錯覚してしまう。音は全くリズムを崩さず、等速で中隊の部下達にも忍び寄っていく。
 しかし、時は永遠には続かなかった。大体壕から三十間ほどの位置で音は止まって、再び辺りは静寂に包まれる。
 曇り空から雪が舞い降りる。止んでいた雪が静かに降り始め、近くの木の枝から雪の塊が落っこちた。どさり、と大きな音。
 それでもその音はあくまで自然なそれで、人為的なにおいのする足音よりも遥かに小さい音であると言える。
 不用意に壁から顔を覗かせるわけにもいかずに、己は銃を小脇に構えたまま背筋までも凍った気分で息を潜めて、やがて一つの静かな足音に気付く。
 たった一つ。敵の隊が動いたならば、いくつもの足跡がなるはずだ。
 イレギュラーな事態に眉をひそめて、己は部下に待ての合図を送る。ゆっくりと、用心深く、敵に視認されない様に、瞳だけを覗かせて敵方を伺う。
 日本人が見えた。我々を追っているのは主に英軍の騎兵のはずで、日本人がまぎれている筈は無い。
 ちらつく雪が視界を僅かに遮る。ただでさえ狭い視界がさらに限定されるが、近づいてくる足音の主の姿はかろうじて確認できる。 

303 名前:古いものの通る道 第三十九回品評会用 3/5 投稿日:2006/12/29(金) 00:25:04.93 ID:B2ki/nwq0
 黒い日本製の長靴で雪を蹴り、日本軍の士官用コートに身を包み、胸に大尉の階級章を付けていた。顔がよく見えないが、掲げているものは良く見える。
 後方で金属音が鳴る。敵が戦闘態勢に入る前にこちらから攻めればいいと考えた部下がいたかもしれない。
 無理も無い。先手を打たれて既に仕官が一人殺されている。宙ぶらりんになった一個小隊の内の誰かが銃を構えたのだろう。
 だが、撃ってはならない。上官を失い、激昂する部下の気持ちを抑えるために、己はただの手の一振りを後方にやる。
 待て、とたったの一言すらもかけず、一人の人間の昂ぶる気持ちを抑えつける。
 撃ってもいいのならば、己が撃っている。仲間が死んで全滅も間際で、それでいて上官までも失い、気持ちのやり場をなくした兵の気持ちが全くわからないでもない。
 わからないでもないのに、己はたった一振りの手で部下を押さえつける。心を締め付けている痛みは、きっと自らの無能が生んだものだろう。
 接近者が掲げていた雪と同じ色の旗が、雪交じりの風にはためく。

 「中尉が指揮権を担っているのか」
 なんでもない顔をして、白旗を持った男は言った。命の安全を保障され、争い事とはまったく無縁とでもいいたげな様が、己の癪に触る。
 英国の偵察隊から十五間、撤退する南日本軍の殿部隊から十五間。中間の位置で、己は行方不明になったはずだった中隊長と話をしていた。
 どうも元中隊長殿は自分の部下の心に対して気配りが足りないようだ。彼は随分と血色のよさそうな顔をして己を見下ろした。
 当方は食料も足りず、飲料水すらろくに持てずに五日間もの間歩き通しだった。それなのに、元中隊長は自分の部下の弱りようを無視するかのような目をしていた。
 それでもこの反感を表に出す事は出来ない。生き残った中隊員九十四人を助ける為には、英軍と交渉できるようでいる中隊長に無礼を働くわけにはいかない。
 いまやこの男は地獄に垂れた蜘蛛の糸であり、備蓄の無くなった村に残された一粒の米だ。その米が糞に塗れていようと、とやかく言うことは出来ない。
 一糸乱れぬ敬礼と、睨むような瞳でもって中隊長に向かう。
「はっ、我が中隊に残された人員は九十四名であります」
 限界までいやみを込めて「我が」、と発音したが、中隊長は気にも留めようとしない。暖かそうな手で無精ひげを擦り、憎らしい目を細めるばかりだ。
 目だけじゃない。己にはその口も鼻もひげも気に入らない。
「中尉」
「はっ、何でありましょう」
 部下が戦うその瞬間にも、何もせずに水と食料を得ていたと思える中隊長に、たった一筋でも敬意を払うのが馬鹿馬鹿しい。
 歯の根は、煮えくり返る腸に叱咤されてしゃんとする。己の唇をかみ締めて、敬礼を正す。
「青森は、首都は落ちた。御三家は既に存在しない。北日本などという国もだ。戦争は終わった」
 心まで真っ白になって、煮えくり返った腸が一息に冷却される。決して揺るがない筈の地盤が一瞬で崩れ落ちて、あることも知らない奈落のどん底にむかって心が落ち込んでいく。
 己は中隊長の先の発言を、予想する事なんて出来なかった。己が挫けない限り、決して守るべき面子が朽ちる事など無いと信じていたからだ。
 理解が追いつく筈なんて無かった。神でもなければ見通せぬ結果に、鬼ですら無い人間が順応できるわけが無い。奇妙な事実の質感を心が認めようとしなかった。己は聞き違いだと信じて、紫色の唇から音を漏らす。
「今……なんとおっしゃいました……?」
 事実に既に順応した者は、事実を認められぬ人間よりも遥かに毅然としている。人が国の消滅を一週間やそこらで認められるとは、己には思えないが、元中隊長はそれをやってのけている。

304 名前:古いものの通る道 第三十九回品評会用 4/5 投稿日:2006/12/29(金) 00:27:01.38 ID:B2ki/nwq0
 もしかしたら、中隊長ははなから北日本を国と認めていなかったのかもしれない。もしかしたら、軍から除隊し忘れただけの、天皇派だったのかもしれない。
「北日本はもう存在しない。貴君らの抵抗は無駄だ」
 俯けば、その視線の向こうには白い雪が降り積もる大地がある。ただの真っ白が、雪の持つその迷う事の無い明確さがうらやましい。もしそんなものがあれば、己も苦しまずに済むかもしれないと思う。
「あなたは、それをあっさりと認められるのですか?」
 元中隊長の瞳は見ずに、敬礼だけを崩さない。中隊長がどんな顔をしているのか己には皆目見当がつかない。
「認められたから言っているのだ。お前のその銃ももう用済みだ。お前の前にいるのは敵ではなく、味方だ」
「ならば何故少尉は撃たれたのです!」
 どうにも不可解な事実だ。もしも、もしもの話だが、英国の鬼畜共が味方だというのならば、少尉は撃たれる事も無かった。そうすれば己は少尉の瞳を閉じ、己自身の責だと思う事も無かった。誰一人としてその責を感じることなく生きていられた。
 元中隊長の瞳を見上げる気にはなれない。見上げれば、惨めになる。見上げる事は、相手より下にいる事を指してしまう。
「あれは事故だ」 
 己は俯いていたから中隊長がどんな顔をして言ったのかは知らないが、たった一言だけでははなむけの言葉にもならないのは確かだ。動揺の欠片も感じられない言葉では報われるものなどいない。
 己で己を皮肉る。部下の怒りを声も出さずに押さえつける癖に、他の誰かがそれをやれば怒るのか、と。酷い傲慢を、己の内に意識せざるを得ない。
 少尉の死体がある後方に一瞬だけ目をやって、これ以上己自身を責めるのが嫌ですぐに目をそらす。少尉の話をしているだけでも自身に嫌気が差すから、少尉の事を会話の世界でさえ忘れようとする。
「……中隊長殿は、日の本が消えることに納得出来るのですか」
「消えるのではない、新しくなるのだ。英国の手を借りて、文化から再編成を行う。我ら日本人は蛮族ではなくなる」
 元中隊長は迷いも無く、自分たちを蛮族と言った。自らを敵の価値観に当て嵌め、蛮族呼ばわりをすることで、自らを育んで来た文化を抹消したつもりになっている。
 幼少より、自らを育んで来た大地をあっさりと捨てるようなマネを、この男はしたのだ。少なくとも、己には出来ないことだ。
 だがそれが出来ても、人として上位であるのだとは、認められなかった。やはり元中隊長を、己は心の中で見下している。文化の鞍替えをあっさりと行ってしまった事で、侮蔑の念はさらに大きくなった。
 鞍替えが出来てどうだというのか。鞍替えが出来なかったから己はここにいる。ここで全滅扱いの部隊を指揮している。
「新しくなれない者は、古いままの者はどうしたらいいのだと思いますか」
 己は顔を上げる。かすかに頬を引き締め、明確な怒りを込めて上司だった男を睨み上げる。見上げるわけではない。明確な反抗の意思を持ってすれば、それは相手の下であることを認めてはいないといえる。
 その眼差しを見返す中隊長は、全く涼しい顔をしている。確保された安全にすがり付いているせいで、後ろが全く見えていない様子だった。背後に危険が迫っていても後ろを見なければ危険に気がつくことは出来ない。
「無理にでも、新しく変わるしかないだろう」
 人が文化を育むのではない。文化が人を育むのだ。食物を得る方法だって、寒さを防ぐ方法だって、意思疎通を図る方法だって、人は文化から学ぶ。
 そうやって己を育てた文化は、己にとっては親と同列と言うことの出来る大切なものだ。
 容易に親殺しが許される時代なんて、この日本には一度だって来た事は無い。文化を見捨てることは、親を殺すことと同罪だ。己にできる筈が無い。人に出来るわけが無い。
 己は、残った力を肺に集めて、精一杯に叫ぶ。仮であろうと、中隊長としての最後の命令の言葉を吐くのだと、心の内に決めれば後はそれを実行するしかない。
「全員着剣! 一斉射の後、突撃!!」
 英国兵は蛮族の言葉など知らないだろう。敵の軍の中、己のこの叫びの意味を理解したのは、己の目の前にいる中隊長とごく一部のものだけのはずだ。
 最後にして最大の奇襲の機会だ。徹底的に抗戦すると、腹に決めたのならばここで戦わずにはおれない。


305 名前:古いものの通る道 第三十九回品評会用 5/5 投稿日:2006/12/29(金) 00:29:13.88 ID:B2ki/nwq0
 裏切り者が倒れた時、ようやく英軍は異変に気付く。龍騎兵はあたふたと銃を構えるが、その動作はあまりにも遅すぎる。遠めにも、焦りが見て取れた。
 己は一息に抜刀し、刀を引きずるように構えて走り出す。同時に後方で銃が斉射される。鉛の津波は牙となって、慌てふためく龍を撃ち貫き、落馬する兵たちは身動きが取れなくなる。
 混乱はさらに大きくなる。乗じて我が中隊員九十四名は腹の底から怒声による戦場音楽を奏で、総勢三百人を超える偵察隊員を威嚇した。
 我が方の兵は既に鬼と化している。その勇気は決して蛮勇ではない。
 己も戦場音楽隊に加わり、雪を蹴り上げて走る。敵の先頭には馬の毛があしらわれたヘルメットをつけた男がいる。馬から降りており、刀はまだ鞘に収めたまま。おそらく指揮官だろう。
 その指揮官まで残り十間。この僅かな距離を走り抜ければ己は護国の鬼となれる。そうでなければ犬のエサにもなれないだろう。
 軽いものだ。己は地が雪に覆われているとは思えない速さで駆け、まだ弾の装填も完了していない者が殆どである龍騎兵を尻目にする。
 目を白黒させる敵の指揮官に迫り、遼の目を見開き、刀を振りかざす。確実に殺せると思った。刀が雪の白に閃き、そして血を求めて振り下ろされるその瞬間に、
 己の耳元で龍がいなないた。
        ※
 そのいななきを聞いた直後に、己には戦場音楽が聞こえなくなった。それと同時に、己の目の前から全てが姿を消した。敵軍が消えたとか、味方が消えたとかの規模で無く、雪景色そのものまでがなくなっていた。
 何が起こったかが直ぐに理解できなくて、ただ瞳を白黒させるばかりだ。
 そして、何も無くなったそこには、町があった。何も無くなったくせに、町があった。
 人々の喧騒が通りに溢れ、居酒屋の客引きの声がひときわ大きく響く。通りの向こう側には小さい川があり、橋が掛かっていた。路上で石を投げて遊んでいる子供もいた。
 その町に己は見覚えがある。何の動揺も無く、己はその光景を受け止める。
 己はこの町のある家の長男坊として生まれた。小さい頃の俺は、よく探検と称して町を練り歩いたものだ。
 だがそれも昔の事である。
 ふと、先程の元中隊長との問答を思い出す。
 ――新しくなれない者は、古いままの者はどうしたらいいのだと思いますか?
 あの男は、迷わずに、理論ですらない最低の答えで質問を叩き伏せた。
 ――無理にでも、新しく変わるしかないだろう。
 それは違うのだと、己は思う。
 この町は、己の思い出がある場所だ。己の帰るべき場所があるのだ。子供の頃に通った道を通れば、当然のように温かいみそ汁にありつけるのだ。
 簡単な事だったのだ。古いままのものは、思い出の中に帰ってしまえばよいのだ。
 己は家路を急ぐ。 
            了



BACK−幕末の新 ◆BLOSSdBcO.  |  INDEXへ  |  NEXT−命の名前 ◆7CpdS9YYiY