【 誰もいない何もない 】
◆gKtxKcuVo.




629 名前:誰もいない何もない ◆gKtxKcuVo. 投稿日:2006/12/24(日) 22:45:23.51 ID:UEgWimCs0
 数ヶ月ぶりに外へ出た。
 空気がおいしい。ずっと病院の中にいたから、外に出て空気を吸うのは久しぶりだった。
都会の空気だけど、今の私には、まるでアルプスの山の空気のように澄んだ空気の味に感
じた。
 遠くから人々のざわめきが聞こえてきた。ここからは大分遠いはずなのに、まるで私は
今その雑踏の中を歩いているかのような錯覚を覚えた。道行くサリーマン。スーパーのビ
ニール袋持つ主婦。学生のカップル。お年寄りの集団。それらが、私の脳裏にはっきりと
映し出された。
 私の手を、彼氏が引っ張った。私はそれに従い歩き出した。
 彼氏の手はとても大きくて、しっかりとしていて、握っていてとても安心できた。二人
の手の間に僅かな汗が滲み、湿った手が滑ってしまわないようにと、彼はさらに強く私の
手を握ってきた。私もそれを強く握り返す。
「桜が綺麗に咲いてるよ」
 彼が私の耳元でささやいた。
 彼の言うとおり、桜の心地よい香りが私の鼻腔をくすぐった。とても懐かしい香り。
 中学校の卒業式。当時付き合っていた彼と歩いた桜並木の下。見上げれば空一面に桜の
花びらが広がっていた。薄桃色の空は、風に揺れるとまるで夜空の星屑のようにきらめい
ていた。舞い散る花びらは太陽の光をきらきらと反射してとても美しかった。
 私は今、あの時と同じように桜の下を歩いている。
 踏みしめる大地は、これまでのリノリウムの床とは違う。砂利のでこぼこが、靴を通し
て足の裏に伝わる。足音は病院内の淡々とした乾いたものではなく、砂利のこすれる音が
無限のメロディーを奏でていた。
 私は横を歩く彼の肩に頭を預けた。やわらかくて、けど筋肉のあるしっかりとした彼の
肩が私の頭を支えてくれた。
 彼の匂いがする。病院内ではずっとベッドに横になっていた私。こんなに彼に近づいた
のは久しぶりだった。とってもいい香り。できれば顔をうずめてその匂いをかぎたかった
けど、そうしたら歩きにくくなるだろうから止めておいた。
 彼が、唐突に歩くのをやめた。私もそれに従って立ち止まった。

630 名前:誰もいない何もない ◆gKtxKcuVo. 投稿日:2006/12/24(日) 22:46:17.64 ID:UEgWimCs0
「退院おめでとう」
「うん」
 私は強くうなずいた。
 手を伸ばして、彼の頬に触れた。彼の頬は濡れていた。
「どうして泣いてるの?」
 私が震える声でそう訊いた。
 けど、彼は何も言わなかった。何も言わずに、ただ私を抱きしめてきた。彼の大きな体
が、大きな腕が私を包み込んで、強く締め付けた。
 彼の心臓の鼓動が私の胸に伝わってくる。彼の体温も一緒に伝わった。とってもやさし
いぬくもり。
 私の唇に、彼の唇が触れた。
 私がいた病室は大部屋でいつも回りには誰かいたから、私たちはキスをしたくてもでき
なかった。
 久しぶりのキス。彼の味。懐かしい感触。心が落ち着いていく。
 何十秒も何分もそうしていて、そしてゆっくりと私達の唇は離れた。
「俺が、ずっとお前を支えていってやるから」
 声が震えていた。きっとまだ泣いてるんだろう。
 私も泣きたかった。けど、私の目はもう涙を流せない。
「大丈夫だよ。私、がんばるから」
 もう一度、彼が私の体を抱きしめた。
 神様。お願いです。もう一度だけ。一度だけでいいから。私に彼の顔を見させてくださ
い。
 誰もいない何もないこの世界で、せめて彼の顔だけでも……
 お願いします……神様。

終わり



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