【 天使までの距離 】
◆D7Aqr.apsM




619 名前:天使までの距離 1/5  ◆D7Aqr.apsM 投稿日:2006/12/24(日) 22:24:33.68 ID:II85zbgn0
 白い、小さなフェリーは、十五分ごとに汽笛を鳴らして船着き場を離れていく。
 午前八時。休日の朝、半島からほんのわずか離れた島へ渡る玄関口となる
フェリー乗り場は、ゆったりと活気づき始めていた。
 港前の広場。公園となっているそこは、赤と緑と金色に包まれていた。
 ホテルのエントランスに続く階段から、俺はその広場を眺めていた。
 中央に大きなモミの木。冷たいくせにやけに目に刺さる青い光が全体を
包んでいた。頂上にある星は、その中央にこの街の観光協会のマークがプリント
されていた。ぶら下げられたプレゼントの箱を模したオーナメントは、洋服屋や、
化粧品店などのロゴで埋め尽くされている。
 ツリーの根本近くに、髪の毛を二つに結った小さな人影。距離にして二百メートル。
身長は百四十から百五十センチの間。女の子。距離やものの大きさを目測するのは
職業病みたいなものだった。

――それにしても酷いツリーだ。
 ため息を一つついて、階段を降りる。公園を突っ切って次の目的地へと歩きはじめた。
 さっきから立ちつくしている少女近くを通り過ぎる。紺色のピーコート。ベージュの
コーデュロイのズボン。革靴。どれも自然で落ち着いた輝き。高級品。たぶん島の
高台あたりに家がある、いいところの娘なのだろう。身長を補正。百四十五センチ。
多分、中学生ぐらいだろう。
 すれ違いざまに、顔が見える。栗色の髪。大きな、瞳も同じ色だ。
 だが、その瞳に光るものがあった。涙。
 大人でも子供でも、それぞれに抱えているものがある。
「ひどいありさまよね」ぽつりと彼女がつぶやく。
「そう思わない?」俺をまっすぐに見上げる。
「ああ、そうだな。ひどい。こんなツリーをつくった人間の美意識を疑う」
「でも、その人達だって仕事として仕方なく作ったかもしれないわよね」
「リアリストだね」
「そう? そうかもね。ごめんなさい。いきなり話しかけたりして」
 俺は軽く肩をすくめると、彼女を残して歩き出した。

620 名前:天使までの距離 2/5  ◆D7Aqr.apsM 投稿日:2006/12/24(日) 22:24:55.31 ID:II85zbgn0
 30歳前で軍を除隊して、この街にやってきてから半年以上が過ぎようとしていた。
生活レベルの低い半島側にアパートを借り、しばらくの間、つましく暮らすだけであれば、
これまで稼いだ金で暮らすには充分だった。
 散歩と、時々図書館へ通うばかりの日々。知り合いも、係累もこの街にはいない。
 この季節、その散歩にクリスマスツリーの品評、というイベントが加わっていた。
 大きなビルや広場には必ずと言っていいほどツリーがおかれていた。さまざまに
飾り付けられたそれは、見ていて飽きることがない。
 
「ねえ。この街で最高のツリーを見たくない?」
 ふり向くと少女は腕を組んでこちらを見上げていた。
「最高の?」
「少なくとも去年はベストだったわ。この調子でいくと今年も一番になりそう」
 まっすぐに俺の前まで少女は歩いてきた。
 その背後でかすかに動く人影が三人。見慣れた配置。おそらく尾行。
 良家の子女が護衛を連れて買い物、なんて光景は島の方ではそう珍しい
ものではない。しかし、尾行をつれている中学生ぐらいの女の子、というのは
穏便ではなかった。平穏な生活を守る権利は俺にもある。
「だいぶ珍しい取り巻きを連れて――」
「逃げたいの。助けて。お願い」
 にこやかな表情を変えずに、少女は遮る。瞳だけが笑っていない。
「人として扱われてないわ。道具……って言ってもいいかも」
 伏せられる瞳。組んでいた腕が、身体を掻き抱くようにする。
 次第に近づいてくる人影。足の運びや、視線の配り方は、訓練された人間
特有のものだった。一番近い尾行者まで距離、二百五十メートル。
「ジャンプイン、解る? 三十分の船がもうすぐでるわ。セントラル行き。いい?」
 俺は小さく肯いた。ジャンプイン。桟橋を離れかけたフェリーへ飛び乗る遊び。
船員が気づかなければ無賃乗船できる。俺はうなずいた。
 ぐるり、と奴らを迂回して俺が元いたホテルの前の階段まで戻った。
 距離を開けて男達が付いてくる。
 階段を中程まで上ると、俺は彼女の二の腕を強引に掴んだ。

621 名前:天使までの距離 3/5  ◆D7Aqr.apsM 投稿日:2006/12/24(日) 22:25:17.66 ID:II85zbgn0
彼女はそれにあらがう素振りを見せる。歩きながら話した打ち合わせ通り。
「やだ! ちょっとやめてよ!」
 ホテルの前。男と、明らかに未成年の少女。周囲の目が集まる。
「おい! やめろ! なにをやっている」
 尾行してきた男のうち二人が走り寄ってくる。俺の肩を掴む。強い握力。
そのままの流れで関節を決められる位置。――それだけに、わかりやすい。
 逆手に相手の腕を掴むと、そのまま振り回す。もう一人が慌てて駆け寄るのに
向けて男を投げ飛ばした。二人が絡まるようにして階段を落ちる。
 もう一人の男は、携帯を取り出し、どこかへ連絡を取っているようだった。
 間髪入れずに少女はフェリー乗り場へと走った。俺も後を追う。
 フェリーの出航を知らせる汽笛の音が響く。
 緑色に塗られた鉄板の通路を抜けて、乗り場へ出た。制止しようとする係員を
無視して走る。徐々に桟橋から離れ始めるフェリー。少女が髪の毛を翻して
飛び乗った。船は次第に加速していく。一瞬、自分の身体に不安を覚える。
「飛んで!」少女の声が響く。
 もう一度、体制を低くして加速。桟橋からフェリーまでの距離が三メートルまで開く。
 思い切り踏み切った。一瞬の浮遊感。
 腕に衝撃。フェリーの手すりにしがみつくようにして、俺は身体を引きずり上げた。

 フロア四階分を吹き抜けにしたその場所は、周囲をぐるりとガラスで囲まれていた。
 すぐ向こうに、さっき渡ってきた海が見えた。街の喧噪もここまでは聞こえてこない。
空調の静かなうなりだけがこの場所を満たしていた。
 円形の部屋の中央に、天井まで届きそうな、大きなクリスマスツリー。朱と緑の
ベルベットのリボン。金色の大きなボールがバランス良く配置されている。木は
イミテーションではなく、本物のもみの木だった。確かに良くできたツリーだった。
豪奢な雰囲気を、針葉樹特有の香気が引き締める。
 国際会議場の最上階。銀色の小さなプレートには、センターホール、と書かれていた。
会議場自体は入ることはできないが、このホールまでは誰でも自由に入る事ができた。
穴場と言えば穴場だろう。
「あの。ありがとう。助けてくれて」

622 名前:天使までの距離 4/5  ◆D7Aqr.apsM 投稿日:2006/12/24(日) 22:26:25.43 ID:II85zbgn0
 ガラスの壁面に寄りかかり、俺は大きくため息をついた。
「助けた……のだろうが……。少しばかり事情を聞かせてくれないか?彼らは、
君のボディーガードか何かじゃないのか?」
 彼女に乱暴をはたらこうとした時、俺を制止しようとしたあの動き。どう考えても
彼女だけを目的としている人間の取るものではなかった。
「ごめんなさい。でも、逃げたかったのは本当なの」
「お嬢様の気まぐれ、か。まいったな。カンが鈍ったか。……まあいい。とっとと
お屋敷だかお城だかに帰れ。タクシーでも拾えば、あとは家の執事かなんかが
面倒みてくれるだろ。ボディーガードの奴らには謝っておけ。あとで意趣返し
されたらかなわん。身から出た錆とはいえ、こっちはただの小市民なんだ」
 少女は大きな瞳を見開いて、俺を見ていた。許しを乞うでもなく。怒りを向ける
でもなく。
「――本当に、ごめんなさい」
 ぽつりとつぶやくように言うと、彼女はツリーに向き直った。
 コートのポケットから、ガラスでできたボールのオーナメントを取り出し、枝の
一つにつけた。
「毎年やってるの。あたしが選んだ、その年一番のツリーに、オーナメントを
一つ。これも、身勝手と言えばそうなんだけど。でも、せっかく誰かが作ったのに、
二十五日を過ぎたら、あっさり捨てられてしまうから。せめて、その間だけでも
何かできないかな、って思って」
 何かを弁解するように、彼女はコートの前で手を所在なさげに動かしていた。
「それも、終わったし。えーと。じゃあ。行きます」
 くるり、と出口に向かって歩き始める。小さな背中。
 今日何度目かのため息をついた。
「すまん。こっちも言い過ぎた。自分のミスに苛立ってたんだ。――確かに、
このツリーは一番いいツリーかもしれん」
 ふり向いた少女の顔は、冬の空に日が差したように明るく見えた。

 ガラスに背中をあずけて、彼女はぽつりぽつりと自分の身の上を話し始めた。
かなり高い社会的地位がある両親。すれ違いの生活。クリスマスにした約束。

623 名前:天使までの距離 5/5  ◆D7Aqr.apsM 投稿日:2006/12/24(日) 22:26:46.93 ID:II85zbgn0
三人だけで過ごすはずの家族の時間。
「――でね、朝、目が覚めて居間に行ったら、みんな着替えてるの。お母さんは
パーティー用のドレスだし、お父さんはタキシード。あたしだけ寝間着。『さっさと
着替えなさい。出かけるわよ』って、どこに行くと思う? パーティ。しかも、
プライベートじゃなくて、ビジネス。あたしはアクセサリーなのよ。仲の良い家族を
演出するための。『一緒にいるじゃないか。何が不満なんだ?』って、全然違うと
思わない?」
 会議場の中で見つけた自動販売機で買ったコーヒーを飲みながら、俺は彼女の
話を聞いていた。
「そういう感覚は、しばらく持ったことがないけれど、多分わかると思う」
 俺は慎重に答えた。
「……何をしている人なの?」
「今は何もしていない。一人で暮らしている。図書館と散歩の日々だよ。
前は軍にいた。狙撃兵だった。仲間も、もういない。」
「一人は、寂しくない?」
「孤独である、というのは悪いことじゃあない。それに、一人でいることができる、
というのはとても大事な事だ。少なくとも、狙撃兵としてはとても役に立った。
もう狙撃兵ではないけれど、時間を全て自分の好きに使える、というのは
とても良いことだ」
 彼女は静かにツリーを見上げていた。
「送ろう」俺は立ち上がりながら彼女に向けて手を差し出した。
「ううん、いいよ。……ねえ、街で見かけたら、また、声をかけてもいい?」
 彼女はツリーの前に立つと、振り返った。
 俺がうなずくと、彼女はにっこりと笑いってホールから出て行った。

 ツリーを見上げる。
 木の頂上。そこには、クリスタル製の天使が一人、飾られていた。
 おそらく、街で彼女を見かければ、俺はひっそりと身を隠すだろう。
 一人でいる時間が長すぎたのかも知れない。
 俺には天使までの距離は、計れそうになかった。



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