【 影絵 】
◆SiTtO.9fhI




541 名前:影絵1/5 ◆SiTtO.9fhI 投稿日:2006/12/24(日) 17:52:49.46 ID:fvP7w1Wa0
 小学校の正面に通じる緩やかな坂は、春になると桜が満開になる。
 子供達に『桜トンネル』と呼ばれる並木道だ。夏休みに入った今は、子供達が通ることもなく、桜は咲いていない。
 三年前、男はこの場所で首を吊った。


 男にとって職場は地獄だった。男は同僚や後輩から笑い者にされているのを知っていた。
 男には談笑できる仲間もいなかった。時折、同僚が話かけてくるが、それは男に仕事を押しつける半ば命令だった。
 男は断る事も許されない。
「残りは館崎君がやってくれるってよぉー。『う、あっ、うん』だってさぁ。気持ち悪いよアイツ。あははは」と、陰で馬鹿にされるのが聞こえる。
 そして、同僚は親しい仲間を引き連れ夜の街へ繰り出す。男はそれを見ていた。
 その度に自己嫌悪が湧きあがった。
 後輩にまで仕事を押しつけられた時は、しまった、と思った。怒りを覚えた。自分に。
 他に殺意を抱いた時期もあったが、メーターの針が振れるとその思いも消え失せるようだった。
 殺意の対象が自分に変わった瞬間、男はやったぁと思った。人を殺めてしまったら取り返しがつかないし、なにより残された遺族が可哀相だ。
 そんな事はしたくない。そのかわり、自分が死んで家族に訃報が届いても、ああそうですか、で済むと思った。
 小学校に通じる並木道。自分を殺せる。胸を高鳴らせ、一本の木にベルトをくくり、男は首を吊るした。
 まもなく男の遺体は発見され、自殺として処理された。
 死と同時に男の“影”が落ちた。男と“影”が分離したのである。その影は男の人生を記憶していた。男自身であった。
 だから、男は絶望した。
 神様、あなたは馬鹿ですか? 何故、ぼくを救ってくれないのですか? 何故、ぼくばかり辛い目にあわせるのですか?
 神様、あなたは阿呆ですか? 何故、影なのですか? 何故、影に魂がこもってしまったのですか?
 男は神を呪った。神の逆鱗に触れて自分を消してくれればいいと思った。しかし、そうはならなかった。


 ――三年。男の形をした影は木が作る日陰に埋もれ、陰になっていた。
 相変わらず現世に繋がっている。
 男は決して動けないわけではなかった。道さえ続いていれば移動もできた。
 しかし、今は動けない。日陰の淵が呪縛となり、男の移動を拒否し始めたのだ。
「そこにいるのは誰?」
 突然、声がした。ランドセルを背負ったシルエットが男のひそむ木に近づいた。

542 名前:影絵2/5 ◆SiTtO.9fhI 投稿日:2006/12/24(日) 17:54:08.23 ID:fvP7w1Wa0
 男は狼狽した。何故自分が見えるのか不思議に思ったが、すぐに原因がわかった。
 陽の角度が変わったせいで頭が長く伸び、ひなたに映っていたのだ。
 見つかってはいけない。直感がそう働き、頭を引っ込め、日陰の一部に扮した。  
「いるんでしょ? 隠れてるのはわかってるんだからね」
 少女の声が、先程見た男の影を探していた。 
 男はじっと息をひそめて、やり過す。しばらく探して、彼女は音をあげた。
「あれ? 気のせいだったのかな?」
 がっくりと頭をうな垂れて、去っていくのが見えた。
 次の日も少女が来た。男は警戒し、見つからないように努める。
 それが何週にも及んだ結果、男はついに音をあげた。
 男は少女の他に誰もいないことを確認し、ひなたに姿を映した。
 少女は驚いた仕草も見せず、ひなたに映る男の影に近づいた。
「やっぱり、あたしの気のせいじゃなかった!」少女は嬉しそうにそう叫んだ。
 

「ねぇ、声出さなきゃ口が腐っちゃうよ?」
 男が姿を見せてからも、少女は毎日訪ねてきた。
 男は発声しようと試みるが、声が喉元でひっかかり体内へ引き戻され、吐き気に近い感覚に襲われる。 
 ついに発声の仕方まで忘れてしまったのか、と自分に呆れた。
「そういえば、この前、捨てられた子犬を見たわ。誰か飼ってあげないかなぁ。可哀相でしょ?」
 男はただうなずく仕草を見せて相槌を打った。 
 少女は昼頃から夕方にかけて男の影に語りかけた。
 日が落ちると影が見えなくなってしまうので、秘密の雑談会は毎回夕方のうちに幕を閉じた。
 自分と語り合ってくれる存在が男にできた。男はそれが嬉しかった。
 男は彼女の明るさ触れ、徐々に声を取り戻していった。

543 名前:影絵3/5 ◆SiTtO.9fhI 投稿日:2006/12/24(日) 17:54:54.71 ID:fvP7w1Wa0
 夕焼けに染める並木道。二人の長い影が赤い路面に映し出される。
「なぁに? これ?」と、少女が楽しげに問う。
「ゴ、ゴリラ……」
 拳を重ねた男の影は、恥ずかしそうに答えた。
「へたくそ。ゴリラはこうだよ」
 そう言うと、少女はゴリラの型を作って、上に重ねた拳の指を忙しなく動かした。
「どう? ゴリラがもぐもぐしてるみたいでしょ?」
「う、うん」
 影絵なんて、小学生ぶりだった。小学生の頃は、友もいたし、自分が一番輝いていた時期かもしれないと思った。
「今日ね、ここに来る途中で、子犬が飼い主に連れられて楽しそうに散歩してたのを見たの。捨てられてた子よ。だから安心したわ」
「よ、よかった」
「だから、これ!」
 少女が手を絡めて影絵を作った。
「し、しまうま?」
「誰が見たって犬でしょッ!」 
 笑い声があがる。
 男はこの時間を永遠に繋ぎ止めておきたいと思った。
「ずっと、一緒にいたい」
 少女が言った別れ際の言葉が、男の胸に深く響いていた。


 自分の姿が消えてしまう様な夜の衣に包まれ、男は少女に思いを馳せる。
 男の思いは、次第に強い欲望へと変わっていた。
 ――あの子が、欲しい。
 男は、その欲望をすぐに否定する。
 そんなこと思っちゃいけない……。忘れろ、忘れろ……!
 否定はするものの、男の内の奥に棲みつく魔物は、舌なめずりをして更に強く少女を欲っした。
 ――あの子が、欲しい。同じ陰で暮らしたいィ。もう、独りぼっちは嫌だよゥウ。
 暗黒の沼に両足を踏み入れてしまった様な錯覚を覚えた。男は思う。
 あの子が、欲しいィイイイイ。

544 名前:影絵4/5 ◆SiTtO.9fhI 投稿日:2006/12/24(日) 17:56:00.92 ID:fvP7w1Wa0
 太陽が高く昇り、男の影が色濃く映し出す時間になった。
 男は、少女を待っている。いつもの様に楽しくお話がしたいのだ。
 見つめる先に少女の黒い頭が見えた。男の影がもぞりと蠢く。
 彼女が遠くから手を振り、近づく。
 男は手招きをして、呼び寄せる。
 ――おいで。近くにおいで。もっと、もっと、おいで。陰の中へおいでェ。おいでエエエェェ……。
 陽に照らされた男の手が長く伸びる。男の胸が激しく鳴る。少女が近づく。
 ――欲しいよォ、欲しいよォオオ。早くゥ。早くゥウウウ……。 
 伸びた手は先端で尖り、悪魔の爪の様になる。少女の首元にそれが重なる。男の指に力がこもる。
 自分の醜い手を眺め、男は思う。
 いったい、ぼくは何をしているんだ。
 男は我に返り、急いで手を引っ込めた。
 いっそのこと、今自分の首をその醜い手で締め上げて殺したくなった。
 が、影である自分は、もう死ぬ事もできなかった。
「どうしたの?」少女が言う。
 激しい後悔が男を襲った。
「ご、ごめん……。かか帰って……くれ」
「なんで?」
 少女が不安そうな声を出す。  
「き、君なんか、みみみ見たくないんだ!」
 男は咄嗟にそう叫んだ。そしてまた、後悔が襲い、消え入りそうな小さな声で続ける。
「ごめん……ぼぼぼく……」  
 男はありのままを伝えた。それを聞いて自分を恐怖、軽蔑し、彼女がこの場所に近寄らなくなれば良いと思った。 
「ありがとう」予期せぬ言葉。
 少女の影が男のいる木の日陰へと一歩一歩近づく。
 来たら駄目だ、来たら君もここから出れなくなる、そう伝えたかった。あるいは、少女が来るのを望んでいたのかもしれない。
 男の声は、喉の奥で詰まり、何か強い意志で押し戻された。
「あたし、寂しかった。だから、同じ“影”を見つけた時、嬉しかった。一緒にいたいって思った。ずっと、ずっと」
 “少女の形をした影”が日陰に溶けた。
 これでずーっと一緒だね、と少女は言った――

545 名前:影絵5/5 ◆SiTtO.9fhI 投稿日:2006/12/24(日) 17:56:52.31 ID:fvP7w1Wa0
 小学校の正面に通じる緩やかな坂は、春になると桜が満開になる。
 子供達に『桜トンネル』と呼ばれる並木道だ。
 そこに生える一本の木が作る日陰。
 闇が少し深くなった。
 
 




 おわり



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