【 蝉の声、夏の空 】
◆I2bsRUvXJs




112 :No.31 蝉の声、夏の空 (1/4) ◇I2bsRUvXJs :06/12/17 23:28:03 ID:wGsW+Rmx
 「お父さん、これ何の音なの?」
 モニターから目を離さずに建太が私を呼んだ。
 「それは、蝉の鳴き声だよ」
 「蝉ってなに?」
 そうか。この子には蝉を教えていなかったな。
 「蝉っていうのは、日本の夏に鳴く虫なんだ。七年くらい土に潜ったまま幼虫の時期を過ごして、
その後夏の時期に土から這い出して羽化する。その後一週間くらい生きて、交尾をしたら死んでしまうんだ」
 「ふーん」
 建太は分かったような分からないような返事をした。しょうがない。実物を見せてやれないのだから、
理解しろという方が酷なのかもしれない。
 「お父さんは見たことあるの?」
 モニターから目を離しこちらに顔を向けた建太の問いに、私は答えがつまった。
 「いいや、実際は父さんも見た事がない」
 「お母さんはどうかな?」
 「お母さんもきっと見た事がないはずだ」
 「そうなんだ」
 明らかに落胆した顔をしている。私の辞書的な通り一遍の説明ではやはり満足できなかったのであろう。
私だって父から教わった知識とデータベースの情報しかもっていない。 ああ、こんなときに父が生きていれば。
 父が死んで三年が過ぎた。健太の物心がつく前の事だ。だから建太は祖父と遊んだ記憶などない。私も子供の頃、
あまり父と日本の風物に関して話をした事はなかった。大人になってからはそんな時間そのものがあまり取れず、
子供の頃にもっと話しておけばよかったと今でも後悔する。
 「そうだ。隆介おじさんの所に聞きにいってみよう」
 私の提案に、建太が目を輝かせた。
 隆介おじさんは父と同世代であり、日本にいた経験もあるはずだ。あの人ならば蝉についても知っているかもしれない。

113 :No.31 蝉の声、夏の空 (2/4) ◇I2bsRUvXJs :06/12/17 23:28:15 ID:wGsW+Rmx
 隆介おじさんの部屋を訪ねると、彼はモニターに向かって何かを打ち込んでいた。
 「おお、よく来たな。さあ、まあ上がれ」
 促されるままに私と建太は部屋に上がった。隆介おじさんの部屋は他の所と違って珍しく
畳と呼ばれるものが敷いてあり、そこに上がるためには靴を脱がなければならない。
部屋を畳の香りが漂っていて、私はおじさんの部屋を訪ねるのが子供の頃から好きだった。
 「今日はどうした?」
 おじさんはモニターを閉じて、畳に座り込んだ。ちゃぶ台を出して、私たちにお茶をついでくれる。
 「実は、建太が蝉とはどんなものかと聞いたもので、どんなものか教えてもらいに来ました」
 「ほう、そうか」
 おじさんは豪快に笑った。
 「そうだな。お前は実物見た事もないから、建太に教えてやる事が出来んのだな」おじさんが
お茶をすすりながら言う。「まあしょうがない。お前さんはこの船で生まれたんだから」
 「父はあまりそういう話をしてくれませんでした」
 「そうかも知れんな。お前の父さんは学者先生だったから、あんまり夏には思い出がなかったのかもしれん。
わしはまあ子供の頃出来の悪い子供でな、夏なんかずーっと遊び惚けとったよ。蝉もそう。捕まえようとして
ションベン引っ掛けられたり、他にもクワガタやらカブトムシやらを捕まえたり」
 「クワガタは見た事があります。標本で、ですけど」
 「おお、あの資料庫にある奴だな。あれは昔わしが採って標本にした奴だ。あれが子供の頃人気でな。
みんな山の中にトラップを仕掛けたりして採ったもんだ」
 「おじちゃん、蝉は?」
 建太が口を挟む。そういえば今日は蝉について話を聞きに来たのだった。
 「おお、そうだったな。蝉もいっぱいいたぞ。データベースに入っているのはミンミンゼミという種類の蝉だが、
他にも色々種類がおった。クマゼミなんかは大きくて採りやすいから、よく採っとった。アブラゼミなんぞは
五月蝿くてなぁ。学校の校庭の木に鈴なりに付いて、こっちの頭が割れるほど鳴いとる。あれには参った」

114 :No.31 蝉の声、夏の空 (3/4) ◇I2bsRUvXJs :06/12/17 23:28:43 ID:wGsW+Rmx
 「他には?」
 「ヒグラシやらツクツクホウシやら、まあ色々おった。わしもそういった奴の鳴き声を残せといったんだが、
結局つれてこない虫の鳴き声は要らないだろうというので積んでこなかったんだ。建太みたいな
日本に興味を示す子がいずれ出てくるかもしれんから、こういうものもやはり積んでおくべきだったな」
 おじさんはため息をついた。この船にもおじさんの世代はもうあまり残っていない。風物が消えていく事が、
寂しいのだろう。私だって同じ気持ちだ。バックボーンとしての風物や情景の知識が消えていく事は、
そのまま私たちのアイデンティティの喪失につながるような気がする。存在が希薄になっていく感覚すら覚えることもある。
 私たちは一体、何者なんだろう。

115 :No.31 蝉の声、夏の空 (4/4) ◇I2bsRUvXJs :06/12/17 23:28:59 ID:wGsW+Rmx
 「おじさん、さっき何してたの?」
 建太がお茶をすすり、渋い顔をしながら聞いた。建太にはお茶は口に合わないらしい。私もこの味が
分かるようになるまでに二十年以上を要したのだ。仕方ない。
 「回顧録を作っとったんだ」
 「回顧録?」
 「そう。わしみたいな地球出身者はもうあまり残っておらん。これからも減り続ける。わしももう六十。
宇宙船に乗る者の平均寿命を過ぎた。皆おらんようになってしまうその前に、少しでも地球、日本という所は
どういうところであったかということを、知識や情報としてではなく自分の言葉で残そうと思っとる」
 そう。この外宇宙開拓船の搭乗第一世代の人々は、宇宙放射線の影響などで早く亡くなる人が多かった。
隆介おじさんは第一世代でも一番若いくらいの人だが、それでももう六十歳を超える。文化的な断絶は
避けられない近い将来の現実となってしまっている。
 「おじさん」
 私は居てもたってもいられなかった。
 「その回顧録、私にも手伝わせてください」
 「手伝う?」
 「ええ。私や建太からも、いろいろ地球について、日本について知りたい事を質問させてください。
風習、風俗、文化、風物。いろんな事を聞かせてください」
 「なるほど。Q&A形式というやつだな。それじゃあまた手伝ってくれ」
 おじさんは建太の頭をなでながら、うれしそうに笑った。少しでも僕らの民族として、種族としての
アイデンティティの保存に関われる。それだけで、根無し草のような気分だった宇宙開拓民第二世代の
自分の存在意義が感じられた。
 「おじさん、もっとお話して」
 建太が隆介おじさんにせがむ。
 「よーし。じゃあ他の話だ。あのな、夏の真っ盛りには街で大きな打ち上げ花火のお祭りがあってな…」 
                                    <終>



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