【 彼女はそのままに 】
◆2LnoVeLzqY




86 :No.25 彼女はそのままに (1/5) ◇2LnoVeLzqY:06/12/17 22:44:20 ID:OcsV542b
 僕の視界は瞬く間に白く染まった。
 純粋で、無垢で、そして神聖な色、まったくの白だ。
 さっきまで絶望で目の前が真っ暗だったからだろうか。その白さは僕にとって、余計に眩しく映った。
「もしかしたら来るかな、と思っていたの」
 勉強机に座っていた彼女が、くるりと回ってこちらを振り向く。
 そしてドアのところでぼんやりと立っていた僕と、目が合った。
「……さっきはいきなり電話なんかしてゴメン」
「いいわ。忙しいわけでもないし」
 薄紅色の唇がなめらかに動く。
 半年ぶりに見る彼女は、雑念を全て取っ払って見ても、やはりとても綺麗だった。
 彼女が高校に来なくなってから、半年。
 登校拒否ってやつなんだと思う。高校生としては、珍しいとも思う。
 一年生の冬から、今は二年生の夏。
 半年というのは決して短い期間じゃない。
 親しかった友だちがひとり減るというのは、思った以上に寂しいことなのだ。
 彼女が高校に来なくなってからも、かろうじてメールで接点だけは持ちつづけていた。
「学校に来ないの?」と何度も聞いた。
 返ってくる答えはいつも、「ほうっておいて」だった。

 真っ白なワンピースに、同じように真っ白なロングのスカート。
 袖から、あるいは裾からのぞく彼女の肌は日焼けを知らないかのように、透き通るように白い。
 部屋の壁も白く、ベッドも真っ白。彼女の背後――つまりは勉強机の後ろ――にある窓から差し込む光は、白く、美しい。
 何もかもが真っ白だった。
 そして僕の顔だけが赤かった。驚きからか、恥ずかしさからか。
「突然で、ゴメン」
「さっきも謝ったわ。謝罪は一回でじゅうぶん」
「ゴメン……じゃなかった。えっと……」
 言わんとしていたことを、恐る恐る、言ってみる。
 最後の希望に、すがってみる。
「宿題を、手伝ってほしいんだ」

87 :No.25 彼女はそのままに (2/5) ◇2LnoVeLzqY:06/12/17 22:45:03 ID:OcsV542b
 元はといえば計画性の「け」の字も知らないような僕が悪い。
 夏休み中に遊んで遊んで気が付けば八月三十一日でした、だなんて冗談にもならない。
 なのに、カレンダーもケータイの表示も八月三十一日を指していた。冗談にもならなかった。
 宿題はノータッチだった。文字通り、触れてすらいなかった。
 友人に電話もかけた。「今やってる」か「むしろお前が見せろ」がきまって彼らの答えだった。
 そしてそのあとで、最後の希望に電話をかけた。家に呼ばれた。
 彼女を見る。
 真っ白な、まるで妖精か天使のような、彼女を見る。
「……そう言うだろうな、とは思ってたの」
 口元にうっすらと微笑を浮かべて、彼女が答えた。不思議な笑みだった。
 どこか僕を見下すような、または全てお見通しだとでも言いたげな、甘い微笑だった。
「いいわ。手伝うんじゃなくて、全部やってあげる。何教科あるの?」
 そう言いながら彼女は椅子から立ち上がる。
 目の高さが、立っている僕とほど同じになる。
 その透んだ瞳に僕の中を覗き込まれている気がして、あわてて「さ、三教科だけ」と言いながら、宿題プリントを彼女に見せた。
 僕なら一週間はかかる量だった。
「英語に、数学のUとBに、古典、定番ね。……わかったわ。夜の十時に、また来て」
 プリントを僕から受け取った彼女はそれだけ言った。
 それから椅子に座って勉強机に向き直って、そして彼女の手元でシャープペンが動き始めた。
 僕はしばらくそこに立ち尽くした。
 時計を見た。正午だった。短い沈黙のあとで、かろうじて「わかったよ」とだけ僕は答えることができた。
 まるで外界の喧騒とか汚れとかを全て拒絶したいかのような、この真っ白な部屋。
 あたかもそこから逃げるかのように、僕はそこをあとにした。

88 :No.25 彼女はそのままに (3/5) ◇2LnoVeLzqY:06/12/17 22:45:51 ID:OcsV542b

 諦める、という選択肢もあった。
 彼女に断られたらもう諦めようとは思っていた。
 諦めて宿題をやらなかった場合には、担任の逆鱗に触れる。それだけの話だった。
 けれど、その逆鱗が問題だった。説教だけで済めばいい。でもそんなはずはない。
 親に電話で連絡がいく。下手すると個別で面談まで組まれる。
 たかが宿題でそこまでとは思うけれど、要するに必要以上に厳しい先生だった。
 だから、できれば諦めたくはなかった。
 そうして、諦めずに済んだ。
 夜の十時。彼女の家の前。
 家から漏れる光と街灯に照らされて、彼女は夜の闇の中でもなお白く眩しかった。
「全部終わってるわ。筆跡はできるだけ、男みたいにしておいたから」
「……あ」
 筆跡のことなんか全く考えてなかった。
 たしかにそのままだと、筆跡は彼女のものだから、代わりにやってもらっていたのがバレてしまう。
 考えが及ばなかった自分が、少しだけ恥ずかしくなる。
「それは、どうも」
 そして宿題プリントの山を彼女から受け取……ろうとしたところで突然彼女が手を引っ込め、そしてぽつりと僕に言った。

89 :No.25 彼女はそのままに (4/5) ◇2LnoVeLzqY:06/12/17 22:47:03 ID:OcsV542b
「千円」
「えっと、何が?」
 間抜けな声で僕は答えた。意図も意味もまるで掴めなかった。
 彼女は、昼間と同じ、不思議な微笑を浮かべる。
「まさかまさかタダでやってもらおうなんて考えていたんじゃないでしょうね?」
 そのまさかです、と言いそうになって思いとどまる。
「三教科で千円、安いものじゃない。もしも払わないって言うんなら」
「……言うんなら?」
「このプリントはゴミ箱へまっしぐら」
 彼女の手の中で宿題プリントがひらひらと揺れる。
 予想外のギブアンドテイク。
 財布なんて持ってきていたっけ……と思ってポケットに手を突っ込むと、そこには財布がある。
 そして開ける。千円札が一枚だけ入っている。偶然を呪った。
 ここで払いませんと言うのは、つまり宿題を諦めるのと同義。
 諦めた場合のデメリットと千円の損失をあたまの中で秤にかける。
 その秤が傾いたのとほぼ同時に、彼女の薄紅色の唇が、微笑のかたちに曲がる。
 真っ白な妖精か天使だと思っていた彼女は、いまや、小悪魔のようだった。
「……払うよ」
「はい、プリント」
 千円札とプリントの山が交換される。彼女の顔は見ない。目が合ったら負けな気さえする。
 受け取ったプリントは、あたりまえだけれども千円札よりもずっとずっと重かった。

90 :No.25 彼女はそのままに (5/5) ◇2LnoVeLzqY:06/12/17 22:48:19 ID:OcsV542b

 翌日、九月一日。
「信じられない」とでも言いたげな友人たちを尻目に、僕は悠々と宿題を提出した。
 にもかかわらず、昼休み、僕はあの担任から呼び出しを受けたのだ。
 まさか、代わりにやってもらっていたのがバレた?
 それとも、お金を渡してしまったのがマズかった?
 いろんな憶測が頭をよぎるが、結局どれも憶測でしかない。
 職員室のドアをノックしてから開けると、すぐ目の前に担任の机があった。

「……お前なあ」
 担任は僕を見ずに言う。
 次に何を言われるんだろうか。予想ができない。身構えてしまう。
 椅子を回してこっちを向いて、そして担任は僕に言った。その手に宿題のプリントを持って。
「さっき見たが、この宿題、ほとんどの解答を間違えてるぞ。お前、授業についてこれてないんじゃないか? そんなんじゃ三年になってから受験が……」

 彼女が不登校になった理由。
 それは、自身があまりに勉強ができないことに、プライドの高い彼女が深く深く絶望したからなのだった。
 誰にでも欠点はある。彼女の場合、勉強がてんで駄目なことが、最大の欠点であり、そして一年生だった彼女を傷つけたのだ。
 それが半年前の冬休み前。そして半年後の夏休み明け。
 あれだけの自信やプライドを漂わせていても、やっぱり彼女は半年前と、何も変わっていない。
 そのことがおかしくて、僕はくすりと笑ってしまう。ここがどこかも忘れて。
 目の前の担任の顔が引きつる。
 そして僕の笑った顔を見た担任に、もちろん僕は、しっかりと殴られたのだった。



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