66 :No.21 ねこのなつ (1/5) ◇KARRBU6hjo :06/12/17 22:09:17 ID:wGsW+Rmx
あれは十年前の梅雨の終わり、まだ初夏の癖に酷く暑い夏の日の事だった。
猫を、拾ったのだ。血だらけで道端に倒れていた、瀕死の猫を。
待ち合わせの十分前きっかりに、彼女は姿を現した。
「ごめんね、待たせちゃったかな?」
「いや、今来たところだよ」
デートの約束をした恋人同士のような会話を交わす。
それに気が付いたのか、彼女は口元に手をやってくすくすと笑った。
「久し振り、土屋くん。背、伸びたね」
「うん。久し振り、佐倉。そっちは随分と美人になったな」
「ふふ、お世辞も上手くなった?」
「どうだかね」
正直に言うと、お世辞ではない。
約三年ぶりに会う佐倉朝霞は、昔の面影を残したまま、確実に大人の魅力を身に付けていた。
「三年ぶりかぁ。お互い、もう社会人なんだよねぇ」
「まぁな。そっちは今なにやってる?」
「私はしがないOLです。土屋くんは?」
「俺もしがないサラリーマンだよ。毎日上司にいびられてる」
「一緒だね。ウチにも怖い人がいるよ」
笑い合う。彼氏はいるんだろうか、と一瞬不純な思いがよぎったが、白けるのも嫌なので無視する事にした。
俺たちは、今も昔も、恋人同士などではない。
友人同士というよりも、知り合い同士。
本当に、浅く、浅い関係だ。
「……行こうか」
立ち話をする為に待ち合わせたのではない。
頷く佐倉の前に立ち、俺は目的地に向かって歩き出した。
67 :No.21 ねこのなつ (2/5) ◇KARRBU6hjo :06/12/17 22:09:31 ID:wGsW+Rmx
中学二年生の、夏休みに入る直前の日曜日の事だった。
まだ梅雨が明けたばかりだというのに、その日はまるで真夏のように暑くて、俺は自転車に乗って一人で市営プールに向かっていた。
向こうで誰かと待ち合わせをしている訳でもない。ただ、霧消に泳ぎたかったのだ。
だが、結局俺は、その日にプールで泳ぐ事はない。
ドンという音と共に、目の前の交差点で、何かが車に撥ねられるのが見えた。
猫か、犬だろうか。よく見えなかったが、大方そんなところだろう。流石に人ではない筈だ。
取り合えず俺は、それを確認するために交差点を見回してみる。
いた。身体の大きさからすると、恐らくは猫だろう。道路の端の方で、だくだくと血を流している。
白い毛皮が赤く染まっていくのを、俺は呆然と見守っていた。
死んだだろうか。
そう思って、俺は何となしにその猫の側に自転車を走らせた。
ただの野次馬根性だった。それ以上の善意もなかったし、それ以下の悪意もなかった。
だが、もう一人、俺と同じようにその猫に駆け寄ろうとした人間がいたことに、俺はその時気が付いていなかった。
同じ年頃の少女だった。隣の中学の制服を着ていて、肩に何かの楽器のケースを担いでいた。
今でも憶えている。
青ざめた顔で、どうしようどうしようと混乱する彼女の声。
服が血に濡れる事も構わずに、猫を抱きかかえる彼女の仕草。
ねえ、どうしよう、と泣きそうな表情で俺を見上げる彼女の瞳。
そんな彼女を見て、俺は下心丸出しに思ったのだ。
この猫を助けよう、と。
それから、俺と彼女は血に塗れた猫を抱え、夏の日の炎天下で、営業している獣医を探し回ったのだった。
68 :No.21 ねこのなつ (3/5) ◇KARRBU6hjo :06/12/17 22:09:44 ID:wGsW+Rmx
駅から歩いて十分程度の場所に、ハートプレイスはある。
俺たちが降りた駅はそこそこに町の中心から離れていて、荒れてはいないものの人影はない。
寧ろ綺麗すぎる程に整備された道が、目的地まで一直線に伸びていた。
その道を、俺が先に立って彼女と歩く。
最初の内はある程度思い出話もしたが、すぐに俺たちの間を沈黙が支配していた。
色々話したい事もあった筈なのだが、緊張の所為か彼らはすっかり頭の中から消え失せている。
佐倉との交流は、中学二年の夏休み以降はほとんど無いと言っていい。
ごくたまに連絡を取り合ったりもしていたが、それも三年前から途絶えていた。
佐倉朝霞、隣の中学の吹奏楽部の女の子。
あの頃はまだ、恋人とは呼べなくとも、友人とは呼べただろう。
一緒に街を歩き、買い物をし、喫茶店に入り。
夏休みの最後に、彼女の演奏を聞かせてもらった。
あの夏は恐らく、自分が最も青春をしていた夏だと思う。
少なくとも、あれ程充実した夏休みは他にはなかった。
「ねぇ、土屋くん」
唐突に声を掛けられて、俺の身体がびくんと反応する。
それに彼女が気付いたのかどうかは分からないが、彼女は俺の顔を見据えて、続けた。
「どうして、私に連絡をくれたの?」
「……どうして、って」
佐倉は目を逸らさずに、ずっと俺の顔を見詰めている。
責めるような瞳ではない。純粋な、問いかけだった。
「――お前はアイツの、もう一人の主人みたいなもんだっただろうから。伝えるのは、俺の義務かな、って」
言い終わって、俺は佐倉の顔から目を逸らす。
「……そっか」
雰囲気で、彼女が微笑んだのが分かった。
何に微笑んだのかは、解らなかったが。
視線を前に戻す。目的地は既に見えていた。
動物霊園ハートプレイス。俺たちの猫が眠る場所。
69 :No.21 ねこのなつ (4/5) ◇KARRBU6hjo :06/12/17 22:09:57 ID:wGsW+Rmx
「お前、本当に死んじゃったんだね……」
そう言って、佐倉は寂しそうに墓石を撫でる。
人間のそれに比べたらかなりチンケな墓石は、先ほど掛けた水で濡れていた。
「あれから十年も生きたんだ。大往生だよ」
拾った時、アイツは既に年齢不詳だった。猫の寿命を考えれば、寧ろ随分と長生きしたのだろう。
夏休みの直前の日曜日、俺たちが拾った猫は無事に獣医に預けられ、なんとか一命を取り留めた。
もう少し遅ければ危なかっただろうと医者に言われたが、俺と佐倉は手放しで喜んだものだ。
治療代は誰が払うのかとか、この猫はこれからどうするのかとか、その後に色々とごたごたがあったのだが、結局猫は俺が飼う事になって落ち着いた。
そうして、十年。
その間に猫は順調に回復し、佐倉は遠くへ引っ越した。
最初の内はそれでも連絡を取り合って、家の猫に会いにきたりもしていたが、それもだんだんと疎遠になった。
三年前まで関係が続いていた事の方が奇跡だったのだろう。
次に二人が会う時は、コイツが死ぬ時か、それとも二度と会わないかのどちらかだろう、と俺は密かに思っていた。
「土屋くんから電話があった時は驚いたよ」
墓石の前にしゃがんで、佐倉は刻まれた猫の名前を見詰めながら言った。
「もう二度と会わないんじゃないかって思ってた」
佐倉は手を伸ばして、つう、と墓石の名前をなぞる。
俺たちを繋げていたのは、あの夏の思い出と一匹の猫、ただそれだけだった。
それも、終わりだ。アイツが死んで、終わり。
このまま何もしなければ、全て切れる。
「なぁ、佐倉、お前――」
「彼氏なら、いるよ」
「…………」
「残念でした」
佐倉は笑う。そのまま俺に背を向けて、出口にむかって歩き出した。
「じゃあね、土屋くん」
70 :No.21 ねこのなつ (5/5) ◇KARRBU6hjo :06/12/17 22:10:07 ID:wGsW+Rmx
「――ままならねぇもんだよなぁ」
佐倉が去った後、俺は墓石の前にしゃがみ込んで苦笑する。
多分、コイツも笑っているだろう。但し、苦笑ではなく嘲笑だろうが。
クソ生意気で可愛げの欠片も無かった白猫の鳴き声は、何時だって俺を馬鹿にしているようにしか聞こえなかった。
にゃあという幻聴が聞こえる。
あの、精一杯人を馬鹿にしたような顔を思い出す。
――ああ、どうせ俺はヘタレだよ、このクソ猫。
俺は、生きていた頃にコイツが一番嫌がったデコピンを墓石にかまし、立ち上がった。
解いていたマフラーを首にきつく巻きつける。
あの時から続いていた俺たちの夏は、今日で終わったのだ。
「アリガトウとサヨウナラ、ってか。また来るよ、ナツ」
踵を返す。
その俺の背中に向かって、頭の中の猫の幽霊が、またクソ生意気な声でにゃあと鳴いた。
「――ナツ、っていうのは、どうかな」
十年前のとある夏の日、動物病院の待合室で彼女は言った。
「ナツ、って、夏のナツ?」
「うん、そう。この夏みたいに、元気いっぱいになってくれるように――――」
終。