【 冬色のカンバス 】
◆qVkH7XR8gk




59 :No.19 冬色のカンバス (1/5) ◇qVkH7XR8gk :06/12/17 21:20:41 ID:wGsW+Rmx
 夏休みの学校というのもそれなりに活気に満ちているものだと、亮平は窓の外をちらり眺めて思った。授業がある日ほどでは無いにしても駐輪場は
賑わっているし、あちこちで部活に精を出す生徒の掛け声が聞こえる。
 汗を吸ってべったりと張り付くシャツのボタンをいつもより余分に外しながら、美術室へと向かう階段を上る。そろそろ完成という絵のことを思うと、自然と
足は速くなった。
 亮平は美術部に籍を置いているが、別段夏休みに熱心に部活動があるというわけでもない。あくまで自主的に、運動部の連中ですら嫌になるような
暑さの中で絵を描きに出てきていた。
 普段からここまで絵を書く事に執心する亮平では無い。そもそも美術部だって、参加は自由で描きたかったら描けばいいという言葉で入部を決めた
ようなものだ。
 美術室の鍵を開けると、篭った熱を逃がすために窓を開ける。当然のように扉は開けっ放しだ。こうでもしないと、真面目に絵を描いていられる様な
環境にはならなかった。
 亮平はポケットから別の鍵を取り出すと、美術室から続き部屋になっている準備室の扉をあけた。縦長で八畳ほどの広さしかない物置部屋。壁には
戸棚が据え付けてあって、部屋の片隅には六号程度のサイズのカンバスが乱雑においてあった。折りたたみの長机とパイプ椅子が数脚
――机の上にコーヒーメーカーが置いてあるのは、美術教師の職権が濫用された結果だ。部屋の真ん中には十号サイズのカンバスが描きかけで
置いてある。
 さっきと同じように窓を開け、その辺りにある机の上に肩掛けの鞄を放った。美術部室への割り当ては美術室だったが、顔を出すような幽霊でない部員は
もっぱらそっちで作業をしていた。
 鍵も掛かっていない戸棚から絵の具や筆を取り出すと、亮平は慣れた手つきで準備を進めた。

 絵の下書きは半年も前にもう終わっていた。思いついたように準備室にあるカンバスを引っ張り出して、部長の悠子にあれこれ聞きながら三日ぐらいで
一気に書き上げ――そこでぱったりと描くのを止めて、部屋の片隅に放置していた。
「あの絵――この間急いで下書きしてたのに、どうかしたのかい?」
 亮平がカンバスに向かわなくなり二日ほどして、悠子がそう尋ねる。彼女は相も変わらず、カンバスに向かって筆を走らせていた。片や亮平は空いている
机で、その日出た分の宿題をやっつけていた。
「思いつきで描いたのは良いんですけど、ふとなんか馬鹿らしく思えて」
「絵を描くことが? それとも、あんな青臭いモチーフを選んでしまったことが?」
「後者ですかね。いろいろ教えてくれた先輩には申し訳ないんですけど……」
 青臭いと悠子が表現したが、あながち間違ってないと亮平は絵の構図を思い浮かべた。優しく微笑む彼女に合わせるように、亮平もはは、と笑った。
「ふぅん。ああいうの、嫌いじゃないんだがね」
 ああ、そうだ、と言って筆を置いて、鞄の中をごそごそと探る。取り出したのは綺麗に包装された小箱。丁寧にリボンまで掛けてあって、贈り物のようだ。
「……君の絵を描いてる姿、嫌いじゃなかったな。あの絵のモチーフになってる少女が私だったら――」
 次の言葉を継げずに逡巡するような表情を浮かべて、別の言葉を続けた。
「バレンタインデーなんて忘れてたかい?」
 思いがけないプレゼントを渡されて、亮平は戸惑った。悠子がそんなイベントを気に留めていたというのが驚きだった。
「年に一度、真正面から女の子が愛を伝えれる日だなんて、たとえそれが菓子メーカーの陰謀でも素敵じゃないか?」
 その驚きが顔に出たのか、亮平は彼女にそんなことを言わせてしまった。案外自分も青いなと笑って、悠子は完成を心待ちにしていた亮平の絵をちらと見る。
「君があんな絵を描くなんて思いもしてなかったから、少しはしゃいでしまったじゃないか。ちゃんと完成させて――誰だか知らないが、あの絵の子には
見せてあげなよ」
 筆を取ろうとして、小さな溜息を一つ。ふるふると頭を振って、手を引っ込めると鞄を持ち上げた。
「私は帰ることにするよ。鍵は任せた」
 振り向いて準備室の扉をくぐった所で、悠子の目からようやく堪えていた涙がこぼれ出た。しっかり背を向けて、亮平には涙を見せないように悠子は立ち去った。
 一人きりになった亮平が包みを開けると、真っ白な小箱の中に手作りだと分かるチョコレートマフィンが入っていた。少し複雑な気持ちで味わっても、
甘いチョコの味は変わらなかった。


60 :No.19 冬色のカンバス (2/5) ◇qVkH7XR8gk :06/12/17 21:21:35 ID:wGsW+Rmx
「やっほー、ちゃんと今日も居るねー?」
 正午を報せるチャイムが鳴ってしばらくすると、いつも通りの闖入者の声。スポーツバッグから弁当の包みを取り出すと机の上に置き、パイプ椅子を
引き寄せて適当に腰掛ける。バスケット部に所属している少女は、着替えもせずユニフォーム姿のままで、わざわざ美術準備室に来
て昼食をとることにしたようだ。
「よくも懲りずに来るもんだな」
「亮平の描く絵が気になってね。夏休みに学校来てまで描くなんて、どんなもんかなー、って」
 言うのと弁当の包みを開けるのが同時だった。亮平はその落ち着きの無い幼馴染を見て、知らずの内に溜息をつく。
 やれやれと筆を置いて、鞄の中から弁当を取り出す。亮平にしてみれば、別に食べなくても絵を描き続けるぐらい何でもないのだが、なぜか幼馴染の
少女――夏生は彼が筆を休めるまで箸を動かそうとしない。
「だからって、わざわざこっちでメシ食わなくったっていいだろう」
「部活でくたくたになってからここまで来る元気なんて無いって。それに、汗臭い女の子が会いに来ても扱いに困るでしょ?」
 けたけたと笑いながら弁当の蓋を開ける。
「今日は昼前で終わりだから、ゆっくり見物させてもらうよ」
「見てたって面白くもなんともないぞ?」
「いいの、亮平が絵を描いてるとこ見るのが好きだから」
 そうか、と答えて亮平はおにぎりに噛り付いた。

 取り留めのない会話をしながら食事を終えると、亮平はコーヒーメーカーに豆と水をセットした。時計は既に一時を回っていた。
「俺は描いてるから、適当に帰れよ」
「うん、分かった」
 筆を取って、こぽこぽというコーヒーの落ちる音を聞きながら亮平は絵の続きに掛かった。夏生は机に肘を付いて、ぼーっと眺めていたが十分もしない
内にうとうとと船を漕ぎ始めた。
 亮平は立ち上がると、コーヒーが落ち終わったのを確認してスイッチを保温に切り替える。マグカップにたっぷりと注ぎ、カンバスの前に戻らず適当な
パイプ椅子に腰掛けた。その頃には、しっかりと夏生は夢の中だった。
「疲れてんなら帰ればいいのにな」
 夏生の寝顔を眺めてコーヒーを啜る。カンバスの絵と寝顔を交互に見て、亮平は少しあきれたように首を振った。

 夏休みの初日、準備室に忘れた教科書を取りに走っていた。日が暮れて、少し涼しくなり出してきた頃に宿題に手を着けようとして、置き去りにして
しまったことに気づいた。
「あれー?」
 亮平が職員用昇降口から出てくるのを見つけた夏生は、とたとたと走り寄る。部活が終わったところなのか、セーラー服に着替えていた。
「夏休みに学校に来るなんて、珍しいじゃない」
「ちょっと部室に忘れ物」
「確か美術部だったっけ。最近あんまり絵見せてくれないけど、調子でも悪いの?」
 亮平も小学生ぐらいの時には、あれこれ絵を描いては幼馴染だった夏生に見せるということもあった。だが、部活ですっかり会わないようになってからは、
こうやって話すことも珍しくなっていた。


61 :No.19 冬色のカンバス (3/5) ◇qVkH7XR8gk :06/12/17 21:21:56 ID:wGsW+Rmx
「描きかけのはあるんだけどな」
 去年の冬に描きかけて放り出した、今の季節にはちょっと合わない絵のことを思い出す。理由があって頓挫しているのだが、それを言おうとして夏生が遮った。
「じゃあ、それ出来上がったら絶対見せてね! ほら、約束!」
 夏生は右手の小指を突き出す。つられるようにして亮平も自分の小指を絡めた。「ゆーびきりげーんまんっ!」と元気よく声を上げて、夏生はじっと
亮平の目を見つめる。
「あ、ああ、分かった」
 答えに窮して、亮平は反射的に声を上げた。満面の笑みで夏生は次の質問を投げる。
「いつ出来る?」
「夏休みいっぱいぐらい掛かるかもな」
「じゃあ、毎日見に行くから。描くんだよね?」
 当分その絵に触れるつもりも無かった亮平だが、夏生の押しに負けて情けない声で「ああ」と答えてしまった。答えてから、夏生が見に来るのならそれも
悪くないと思った。
「楽しみにしてるっ!」
 じゃあね、と言って夏生は駐輪場へと走っていった。

 亮平が黙々と筆を走らせていると、扉をノックする音と、少し遅れて声が掛かる。
「随分と完成が遅いじゃないか」
 びっくりして亮平は振り返ると、去年卒業した悠子が戸口に立っていた。パンツルックで、スカート以外の姿を見る亮平には少し新鮮だった。
「どうも、お久しぶりです。今日はまた、何で?」
「恩師に挨拶がてら、可愛い後輩が元気でやってるか見に来ちゃ悪かったか?」
 椅子から立ち上がってコーヒーを注ごうとする亮平を、すぐに帰るからと手で制した。
「美術部の男の子が、準備室にここ最近篭ってるって聞いてね。この子は――あの絵のモデルか」
「違う、って言ってもそうはさせてくれないんでしょうね」
 当然だとでも言いたげに悠子は口の端を吊り上げた。参ったというまでも無く、頭を振る亮平。
「君が筆を振るうところを少し眺めて行きたかったんだが、先客が居るようだしね。元気な姿を見れただけでも良かった。それじゃ」
 手を振ったところで、亮平が呼び止めた。新聞に包まれた三号カンバスを戸棚の中から取り出す。
「バレンタインのお返しです。部長の気持ちに応えられませんでしたけど――精一杯の気持ちです」
「えらく遅いお返しだな。開けても?」
 ええ、と頷く亮平。テープで止めてもいない包みは簡単に解けた。
「君――これ」
「僕に出来ることはこれぐらいですから」
 小さめのカンバスに書かれた自分の顔を眺めて驚く部長に、微笑みかける亮平。しばらく額に手を当てたり、窓の外を眺めたりして、亮平には
聞こえないぐらいの声で「参ったな」と呟く。


62 :No.19 冬色のカンバス (4/5) ◇qVkH7XR8gk :06/12/17 21:22:13 ID:wGsW+Rmx
「君の前で涙は見せまいと思ってたんだが」
 微笑んだまま、ぽたぽたと涙を流す悠子の姿があった。ポケットからハンカチを取り出すと、目の端を押さえる。
 突然のことに亮平はおろおろとして、椅子に蹴躓いて派手な音を立てた。
「困らせるつもりじゃ無かったんだが。うん、すまない。きっと嬉し涙だ、だから気にするな」
「そんなこと言われても――」
 机に突っ伏して寝ている夏生をちらと見て、悠子は亮平に向き直った。
「君にはもっと大切なことがあるだろう? さて、邪魔者は退散することにするよ」
 ハンカチで涙を拭うと、悠子はくるりと背を向けた。
「一生大切にするよ、この絵。ありがとう」

 少し日が傾きだして、部屋の中に朱が走りだした頃には亮平もひと段落着いた。グラウンドも随分と静かになって、学校の一日が終わることを知らせている。
 あれから半ば勢いで書き上げて、まだ手直しや乾燥で多少時間は掛かるだろうが、とりあえず形にはなっていた。
「おい、起きろって」
 声を掛けるが夏生は目を覚まさない。軽い溜息をついて、肩に手を掛けてゆさゆさと揺さぶる。
「ん……うーん」
 目をぱちぱちさせて大きく伸びを一つすると、夏生はすっかり薄暗くなった部屋の中を見渡した。はっとして、寝起きとは思えないような声を出した。
「絵は!?」
「大体出来上がったよ。あとは手直しを少し――」
 亮平が言い切らないうちに、勢いよく椅子から腰を上げカンバスの前に立つ。
 ひとしきり眺めてから、感心するように大きく頷いた。
「綺麗な絵。でも、よく見もしないのにこんな景色描けるよね」
「しっかりと覚えてるからな」
 この絵が描かれ始めたのは去年の冬――雪景色の絵。木陰で止む様子も無く降っている雪の中を一人の少女が空を見上げていた。
「これ、木の下に居る女の人って、亮平の彼女?」
「そんなんじゃないよ。俺が勝手に想ってるだけ」
「こんな綺麗に描いてもらえるなんて羨ましいなぁ。私もそのうち描いてくれる?」
「ああ」
 生返事しか返ってこないことに多少腹を立て、夏生は振り向いた。文句の一つでも言おうとしたが、思いつめたように自分で描いた絵を見つめる亮平を見て、心配の言葉の方が先に出た。
「どうしたの、なんかすっかり上の空だよ。なんかボーっとしてる」
 一度目を瞑ると、顔を上げて亮平は夏生に向き直った。


63 :No.19 冬色のカンバス (4/5) ◇qVkH7XR8gk :06/12/17 21:22:23 ID:wGsW+Rmx
「この絵さ、去年の冬から描き始めたんだ」
 決心を固めたように、訥々と話始めた。いきなり話し始めた亮平についていけず、夏生はきょとんとしている。
「描きあがったら、この子に見せて告白しようと思ってた。でも、下書きが出来た時点で怖気づいて、ずっと放ってあったんだ」
 ひと呼吸。しっかり息を吸って、亮平は言葉を続ける。
「お前が見たいって言ったから――この絵のモデルはお前なんだ」
「それって……」
「好きなんだ。夏生」

 当直の教師に追い立てられるようにして学校から出てきた二人は、駐輪場へと向かっていた。夏生もゆっくりと亮平の横に並ぶ。
「今日は急がないんだな」
「彼氏と一緒に帰りたいって思うの、不自然?」
「それもそうだな」
 嬉しそうな笑顔が夕日で染まっていた。亮平はやれやれと頭を掻く。
「次の絵は、今笑ったお前の顔にしようかな」
「えー、もっとカッコいいとこ描いてよー」
 頬を膨らまして、少し不服そうに夏生が亮平の袖を引っ張った。くすくすと亮平が笑う。
「近いうちに描きたいな――やっぱりお前には夏が似合ってる」

<完>



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