【 蝉小便と彼女の涙 】
◆twn/e0lews




48 :No.16 蝉小便と彼女の涙 (1/5) ◇twn/e0lews:06/12/17 20:59:37 ID:wGsW+Rmx
 夏。蝉の声は無意識に締め出されていたらしい。
 蝉が鳴いているという事に気が付いたのは、水色のワンピースを見た瞬間だった。
僕は彼女を見た瞬間に固まってしまって、彼女もまた、僕を見た瞬間に固まった。
 駅前通り、僕等が存在しないかの様に、人混みは通り過ぎていく。時を動かしたのは、道路を走っていたバスの音。
 バスの騒音と振動が体に響いて、僕は、また無意識に蝉の声を消した。
「久しぶり」
 ああ、言える物だなと、自分自身思ってしまう程に、言葉は滑らかに喉を通った。
彼女の方も、まるで朝の挨拶を返す様な気軽さで頷いたから、どちらからでもなく苦笑する。
「五年、かな?」
 口許を押さえ、両の頬にえくぼを作りながら、彼女は言った。
 僕はそれに頷いて、彼女を見る。何も変わっていない様に見えて、その実何か変わっているのかも知れない。
例えば、彼女は薄灰色のセーラー服を着ていないし、僕もまたカッターシャツに黒ズボンではない。
「今、何してるの?」
 零れる様に出た、余りにもありきたりな問いに、彼女はほんの少し考える仕草を見せてから、働いている、と答えた。
そして、ほんの少し間を開けてから、間抜けな問答に気が付いた僕等はまた笑った。
 人混みは、通り過ぎていく。
「どこか入らない?」
 首を傾げる彼女に、僕は勿論、頷いて返す。


 僕はこの店の事を知らなかったが、彼女に言わせるともう大分前からあるらしい。
「そう言えば、地元進学だったね」
「そう言えば、なの?」

49 :No.16 蝉小便と彼女の涙 (2/5) ◇twn/e0lews:06/12/17 20:59:47 ID:wGsW+Rmx
 言葉尻に噛みついた彼女に、僕は渋い顔になって、そうじゃないと、必死になって言い訳を始める。
「だって、何て言って良いか解らなかったんだ」
 慌てた僕の返答に、彼女は妙に嬉しそうだった。変わって無くて安心した、のだそうだ。
「就職も?」
「そうよ、しかも我らが母校の教師……驚いたでしょ?」
 微笑む彼女に、僕は豆鉄砲を食らった鳩になる。有り得ない話ではない、むしろ一般的な事例なのかも知れない。
けれど、彼女があの茶色い教壇に立っているのを想像するのは、どうにも難しい。
 きっとそれは、僕等がいつの間にか、生徒ではなく教師の年齢になっていたことへの驚きなのだろう。気が付けばスーツ。
「ひぃは?」
 尋ねた彼女に答える時、僕は頬が緩んでいた。ヒロトという名前、皆はヒロとか、ヒロトと呼ぶのに、彼女だけはひぃと呼ぶ。
「俺は未だ学生、大学院だよ」
「ああ、なら。夏休み?」
 お盆だしねと、僕は頷いた。
「高校だって、そうだろう?」
「そうだけど、ウチは特別講習やってるから、教師は割と休みがないのよ?」
 覚えてない? と続けた彼女に、僕は首を振った。
「覚えてる」
 忘れる訳がない。ましてや、彼女が目の前にいれば、自然と思い出す。
「蝉のオシッコ」
 ぽつりと呟いてから、彼女は肩を震わせる。僕は思い出して、恥ずかしさに薄く頬を赤くした。
ファーストキスは、蝉の小便でしょっぱかった。
「格好悪かったな」
「ああ、でも。良いんじゃないの?」

50 :No.16 蝉小便と彼女の涙 (3/5) ◇twn/e0lews:06/12/17 21:00:18 ID:wGsW+Rmx
 薄く自嘲した僕に、彼女は曇りのない笑顔で返して、続けた。
だって、ひぃはそういう人だから良かったのよ? 自身の三枚目ぶりを指摘された僕は、少し唇を尖らせる。
「ほら、そういう所」
「どういう所さ」
「程良くおバカ、言い換えると可愛らしい」
 言って、ニヤリ勝ち誇った表情の彼女。
僕は面白くないと、視線を外して鼻を鳴らしたけれど、その実頬が少し熱い。こんな感覚は久しぶりだ。
「そうだ! 久しぶりに、行ってみる?」
 どこに、等という野暮な事は、僕も言わない。



 職員室に居た恩師は、今の彼女にとっては職場の先輩で、けれど禿げた頭は変わっていなかった。
教室の机は、僕達の時代は木製の物だったのに、今は全てプラスチックの様な素材の物に変わっていて、自分の机に彫った落書きを見つける事は出来なかった。
トイレは強烈な刺激臭ではなく芳香剤の香りがして、内装もタイルを貼り替えた様で綺麗になっていた。
ボコボコにへこんでいたロッカーは、全て入れ替えたらしい、けれど所々へこんでいる場所もあるから、生徒というのは変わらないのだろう。
 そして、図書室に置かれている本も変わっていなくて、太宰治全集の裏表紙には、『走れエロス』の落書きが残っている。
「マナーの悪い利用者だこと」
「だって、何となくやってみたかったし」
「しかも低俗」
「可愛らしい、だろ?」
「解ってない」
 肩を一つ竦めてから、彼女は続ける。
「自分で言ったら駄目なのよ」
 あの頃と変わらずに、二人で笑った。


 気が付けば、空は夕焼け。僕等は、正門脇の階段を駐輪場に降りていく。
「いつまで居るの?」
「今週中は居るかな」

51 :No.16 蝉小便と彼女の涙 (4/5) ◇twn/e0lews:06/12/17 21:00:28 ID:wGsW+Rmx
 階段を下り終え、ふと振り返ると、そこには彼女が立っていて、またも蝉の声。
 忘れていた、蝉が鳴いているのだ。
蝉に気が付かないのは、きっとボンヤリと生きてしまっているせいだ。
夏になれば、蝉は鳴く。
「七年前、だっけ?」
「そうね、七年前」
 七年前も、忘れていた蝉の声が聞こえてきたのが始まり。
「俺は何て言ったっけ」
「好きです、って言った瞬間にアレよ」
「ああ、蝉の……」
 ションベン、と言うのは雰囲気がぶち壊しな気がしたので、言えなかった。
だって、僕はこれから彼女を口説くのだから、雰囲気は重要だ。
 蝉が鳴く、その音は一定のリズムで絶えず響いている。
在って当たり前の音だから、やがてそれは世界に溶けて、ボンヤリとしていたら消えてしまう。
今、僕は蝉を聞けている。
「蝉、鳴いてるね」
 彼女は言って、続けた。
「この時期って、蝉が鳴いてるのを忘れちゃうのよね」
 茜に染まる彼女が、フラッシュバックしたかの様に、七年前とダブって見えた。

52 :No.16 蝉小便と彼女の涙 (5/5) ◇twn/e0lews:06/12/17 21:00:38 ID:wGsW+Rmx
「蝉に気が付けない夏は、味気ない」
 僕は続ける。
「君に相手がいるかどうかは、知らないけれど。君が居ないと、俺は蝉の声が聞けない」
 首を傾げて、彼女の答えを待つ。
 やがて、彼女は言った。
「それは、告白?」
 伝わってない、その事実に僕は肩を落とし、苦笑した。
「解りにくかった?」
「やっぱり、ひぃは格好悪いよ」
 彼女は腹を抱えて、腰を曲げて笑い始めた。漏れてくる笑い声が、蝉と混じり合って居る。
「――好きです」
 僕は彼女に向かって、ゆっくりと、歩み寄る。今度は、蝉の小便は降ってこない。
 動かない彼女の顎に手を掛けて、優しく顔を引き上げる。頬が赤らんで、目が潤んで見えるのは、空の茜のせいだろうか。
彼女の閉じた目蓋から流れた雫が、僕を待っている。
 キスの味は、しょっぱい。
「しょっぱいね」
 彼女が言って、僕は返す。
「ファーストキスより、上等さ」
 蝉小便と彼女の涙、響く鳴き声、こいのうた。


                了



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