【 日曜日に 】
◆Awb6SrK3w6




150 時間外作品No.01 日曜日に (1/5) ◇Awb6SrK3w6 06/12/10 23:57:12 ID:4McSGALH
 遠い極東の果ての海で兄が死んだという報が届いたのは、街路に黄葉が舞い落ちる、ロシアの秋のことだった。
 今街を埋めているのと同じ黄色の海で繰り広げられた海戦で、雷撃によって四散した船の破片を喰らって、意識不明の渋滞に陥った兄は、
旅順の軍の病院で三十日間生死の縁を彷徨った後、とうとう力尽きたという話だった。
 それは、すっかり白髪頭となってしまった老いた母に生きる気力を失わせるのに十分な話であった。
三日三晩部屋に閉じこもって彼女はただひたすらに泣き明かした。それまではロシアの中年女性にありがちな、ふっくらとしたその顔が、
部屋から出てきた時には、げっそりと頬がこけ、まるで別人のような表情となっていたのを、私は今でも覚えている。

 それから一ヶ月くらいした頃から、母の言動は少しずつ変わり始めた。
 まず、母は私に政治について語り始めるようになった。
「日本との戦争はいますぐ止めるべきよ」
 この程度ならば、子を亡くした母親の言葉としてはごく自然なものである。だが、
「資本家どもは、私たちの富を収奪してるのよ」
「政府は議会を開くべきなのよ。私たちの声を政治家どもは耳を貸そうともしないから」
などと言った、滅多に帰れない自宅で食べるボルシチの上を飛び交うには少々不穏当な発言が、彼女の口から飛び出すようになっていた。
 次に母は、外出が多くなったようだった。軍隊勤めの合間をぬって家に帰ってきてみても、誰も私を出迎えてくれないなどということが、しょっちゅうになっていった。
 母にそのことを問いつめてみれば、
「教会に通っているのよ」と言い、そして、
「あなた、ガポンという神父を知っているかしら?」と、逆に私に質問してくるのである。
「誰だい、一体その人は」
「素晴らしい方よ。あの方が、皇帝陛下に我々に謝して、ロシアを救ってくださるよう頼んでくれる」
 母は兄を亡くしたという辛い経験を、そのガポンが説く言葉に熱中することで忘れようとしているのだった。
 それから数ヶ月の間、私は母伝いに、ガポンの思想を吹き込まれていった。

 そして、その日はやってきた。
1905年1月9日。日曜日のことである。
 母が崇めて止まないガポン神父は、この日サンクトペテルブルクの市民を率い、大規模なデモを執り行っていた。
このデモに立ち向かうために、私たちは前日から集められ、皇帝陛下がおられる冬宮の守りを固めていたのである。
 その際、我々にはある命令が布告されていた。
市民がデモを止めず冬宮へと近づこうとするならば、その時は躊躇うことなく撃て。というものであった。

151 時間外作品No.01 日曜日に (2/5) ◇Awb6SrK3w6 06/12/10 23:58:15 ID:4McSGALH
 ロシアの冬には珍しく、雲一つ無い良く晴れた空が広がっていた。
 日光を吸い込んで反射した雪が光る。
デモに参加している労働者たちの足下は燦然と煌めいていた。
襤褸のような服をまとい、旗を振り回して叫ぶ彼らの行動は、暴徒以外の何者でもない。
「撃てるものならば、撃ってみろ!」
「お前たちも俺たちと同じだ! 糞みてえな残飯を喰らって毎日を生きる、苦しい民衆だ!」
 彼らの言葉は乱暴そのもので、私たちを強く打つのである。
だが、私の瞳に飛び込んでくる光がそう私に錯覚させたのだろうか。
白昼に並ぶ群衆が、私には聖者の歩みに見えていた。

 私は近衛兵であった。この国家の全てである皇帝陛下の安全を守るために存在している、一兵卒である。
そんな近衛兵たる私には義務がある。
 皇帝陛下に危害を加える者があらば、すぐさまその者を打ち倒す。
これが、私の使命であり、今果たすべき責務であった。
だが、である。
 眼前にいる彼らは、果たして皇帝陛下に危害を与えようとして行進してくる者たちなのであろうか。
彼らは銃を手に持ち、ナイフを持って、皇帝陛下のその肉体を傷つけようとする邪悪な意図を抱いた輩であろうか。
 断じて違う。
彼らは何も持っていなかった。武器になる物など何も持ってはいなかった。
 彼らが持っていたのはたった一つの思いである。
「皇帝陛下は、苦しむ我々の味方だ。だから、我々に謝ってくれる。我々を苦しめる政府・資本家連中を使っていたことを謝って、
彼らに罰を下してくれる。きっとそうに違いない」
 これなのだ。これだけのことなのだ。
母が信奉して止まない、そして今あの民衆を率いているガポンとかいう神父が、そのような事を言っているのである。
彼らはそのガポンの言葉を、そして皇帝陛下を信じ切って疑わない。
彼らの信念は、彼らの足を前へと歩ませ、サンクトペテルブルクの冬宮へと一直線に突き進ませているのである。

152 時間外作品No.01 日曜日に (3/5) ◇Awb6SrK3w6 06/12/10 23:58:35 ID:4McSGALH
 私は、彼らを撃てるのであろうか。
騎馬し我々を睥睨する上官の言うとおりに、彼らが冬宮へと入ろうとするならば、躊躇うことなく引き金を引くことができるのであろうか。
皇帝陛下を慕う心。その純粋さは私も、彼らも何ら変わることがない。
労働者も、貧者も、そして戦争で家族を失った私の母のような者も、あのデモの列に並ぶ者たちは皆、
皇帝は公正無比な聖者であるから、自分たち近衛兵に発砲を命じることなど有り得ないと確信しているのである。
その事実が、私を煩悶させる。その事実が、引き金にかけた私の指を凍り付かせるのである。
 私は彼らの確信を裏切らなければならない。私は彼らのささやかな願いを踏みにじらなければならない。
私も、この苦しいロシアという国を、皇帝陛下に何とかして欲しいという彼らの願いを心に抱いているというのに。
 ここまで考えて私はハッとした。
兄が亡くなってからこの方、母が支えとし、ガポンが説いてきた「苦しい現状からの解放」という夢物語を、
いつの間にやら随分と信じ込んでいることに、私はこの時気づいたのだった。
 刻一刻と叫び声は近くなる。群衆はその速度を落とすことなく、一直線に銃を構えた我々を指してやってくる。
労働者の見開いた目に広がる充血が見える。男の降る旗が
 上気した息が白い霧となって口外へと出る。落ち着かない心は、私の呼吸を激しくし、銃の照準をぶれさせた。

 時計塔から鐘の音が響く。二時を告げるその音は群衆の上を、そして我々の頭上を飛んでゆく。
それと共にラッパが鳴った。三回。
 撃て。
ラッパは命令の執行の合図であった。時計塔の鐘の低い音とは対照的な、金管楽器の高い音が鳴り響く。
 撃てるのか。
私は、彼らを撃てるのであろうか。
 先ほども心の中で呟いた、自身への問いを噛み締める。
 できるのか。ためらうことなく。できるのか。その冷たい引き金に力を込めることが。
 彼らは労働者であって、市民であって、デモを行う陛下への反逆者であって、そして陛下を信頼する者たちであって……
思考は私の中で渦となり、私の体は動かなくなる。
 そして、広場を覆っていた罵声と、私の堂々巡りを繰り返す心中の呟きは、銃声によってかき消された。

153 時間外作品No.01 日曜日に (4/5) ◇Awb6SrK3w6 06/12/10 23:58:46 ID:4McSGALH
 血煙が滲む。
 粗野な聖者たちの列は崩れ、撃たれた男は糸が切れた操り人形のようにばたりと雪に倒れ伏す。
男たちの行列を、祭か何かと勘違いして楽しそうにはしゃいでいた小さな子供の頭が弾ける。
大きな体を揺らしてきていた中年女性の太い腹に命中する。
 私の周りの兵たちは、次々と銃を撃っていた。
一方私の銃の中には、未だに7.62mmの銃弾が放たれることなく込められていたのである。

 既に始まってしまった虐殺を私はただ眺めていた。
目の前に広がるのは全て夢幻で、冗談みたいで、現実離れした光景だった。
倒れるのは銃を持ち突撃してくる兵隊ではない。
 フランス人でもないし、ドイツ人でもないし、ましてや、
今の我が国の敵国である東方の小さな島国のマカーキー(黄色い猿)でもないのである。
 呻き声を、悲鳴を上げる、哀れなロシア人の市民であった。

 既に私の隣の兵は、銃のボルトを前後させ次弾の装填を行っている。
「おい! 何をぼさっとしている!」
「……」
 何もせずに凍り付いた私を上官が咎めるのは当然のことであった。
「答えぬか!」
「はっ!」
 銃声の中でも良く通る、上官の声が私の頭をぐらぐらとさせる。
「早く撃て!」
「……はっ」
 私は抗うこともできずに、上官の命令を受け取った。

154 時間外作品No.01 日曜日に (5/5) ◇Awb6SrK3w6 06/12/10 23:58:57 ID:4McSGALH
 謝っても、許されない。
今から我々が、そして冬宮にいて、紅茶でも飲んでいるであろう皇帝が犯す罪は、おそらく誰も許してくれない。
 彼らはもう皇帝に謝って欲しいなどとは願わないだろう。
彼らは同志の死の仇を、愛する息子の死の仇を晴らすことだけを願い続ける。
 それほどまでに深い罪を、我々はこれから犯すのだ。
 だが、私は謝らずにはいられなかった。
彼らの願いに少しでも同調したこの私が、彼らを裏切ることを。
そして、彼ら――労働者、貧者、子供、そして私の老いた母のような、子を失い希望を無くした老人たち――を殺すということを。
 怒号と悲鳴が交錯する広場へと、私は再び照準を向けた。
手は寒さのせいか、それとも私の感情のせいか、震えてとにかく狙いが定まらない。
「撃たぬか! 皇帝陛下の命令なのだぞ!」
 上官が私を怒鳴りつける。
「……ッ」
 言葉にならぬ懺悔を吐き出し、私はその重く冷たい引き金を引いた。



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