【 その手のひらはペンよりも強くて 】
◆wDZmDiBnbU




105 No.32 その手のひらはペンよりも強くて (1/5) ◇wDZmDiBnbU 06/12/10 20:58:33 ID:4McSGALH
 たとえペンが剣より強くても、それを振る人間が貧弱なら意味がない。

 この入院生活で嫌というほど実感したことが一つ。このあたしには、文才がない。当然
だ、いままでまともに文など書いたこともないのだから。ちょっとした不幸をきっかけに
才能が花開くだなんて、そんな甘い話はドラマや小説の中だけのことだった。
 不幸といってもたいしたことはない、簡単にいえば交通事故。右足はギプスでガチガチ
だが、完治すれば一回り細くなって戻ってくる。そんなことより大変なのは、余りに余っ
たこの時間だ。あたしは天井の模様を全て数えきり、その一つ一つに名前を付け、彼らの
間に巻き起こるドラマを妄想し尽くした。だがそれでも十分おつりが来る。我慢の限界を
超えたあたしが手にしたのは、一本のボールペンだった。
 結論から言えば、ペンは信じられないほど弱かった。最初の一日は学年とクラスと名前
を書いただけ、あとはうなり声が響くのみだ。あれだけ好き勝手に浮かんでは消えた妄想
も、いざ文字に起こしてみると難しい。丸一日かけて検討した結果、あたしは考えるのを
止めた。もうなんでもいい、思いつくままに書く。かくしてあたしの数学のノートは、も
はや日記とも小説ともつかない、十四歳の青い春で埋め尽くされた。
 それだけの話ならよかった。あたしがひっそりと生き恥を垂れ流したところで、別にど
うということもない。ただ一つの致命的な問題は、いまそのノートが手元にないというこ
と。初めての松葉杖に調子に乗って歩き回ったときに、どこかに置いてきてしまったらし
い。一体どこにいってしまったのか――いや、その答えはすでに出ていた。
 目の前に、一人の青年。窓から差し込む春の陽光を、その身に受けて一人たたずむ。華
奢な体に、長い手足。雪のように白いその肌が目にまぶしい。柔らかに微笑むその顔はま
るで、美男子と形容しろと言わんばかりの男前だ。
「これ、拾ったんだけど、キミの?」
 優しく響くその声が、あたしのハートを貫いた。もう串刺しだ、あらゆる意味で。早鐘
を打ったような胸の鼓動は、あたしにとって初めての予感。
 震える手でノートを受け取りながら、上目遣いに彼を仰ぎ見る。『まさかご覧になって
はいませんよね?』そんなあたしの熱視線を感じてか、彼は満面の笑顔で宣言した。
「とっても面白かったよ。また続きを読みにきてもいいかな」
 人生最初の恋・オア・ダイ。あたしは二度と、ノートには名前を書くまいと誓った。
         *

106 No.32 その手のひらはペンよりも強くて (2/5) ◇wDZmDiBnbU 06/12/10 20:58:50 ID:4McSGALH
 ただ一つの教訓を残して、終わったはずのあたしの青春。でもそれは、その翌日からす
ぐに再開された。彼はまた、あたしの前に現れたのだ。それも、ほぼ毎日。
 あたしのベッドの傍らで、彼が椅子に腰掛ける。手には開かれた一冊のノート。もう何
度目かの光景だった。でもこればっかりは、いくら繰り返しても慣れることはないだろう。
ゆっくりとノートの文字を追う彼、その顔から目が離せない。些細な表情の変化を読み取っ
ては、簡単に一喜一憂するあたし。今日のは面白い? それともダメだった? 止まらな
い手のひらの汗は、あたしが臆病者であることの証だ。
「うん、面白い」
 そんな一言を貰っただけで、あたしの心は踊りだす。そんなことないよ、と返しながら
も、自然と顔がにやついてしまう。ペンを握るその目的は、いつの間にかすっかり変わっ
ていた。唯一の読者に読んでもらうために、少しでも面白いと言ってもらえるために。日
刊連載をかかえたあたしにとって、時間はいくらあっても足りないものになった。
 ただひたすらあたしは書く。そのすべてを彼が読む。面白いと言っては笑い、どこに惹
かれたか真剣に語る。自分でさえ気づかなかった色々な点を、彼は見つけて褒めてくれた。
他の何にも代えがたい、宝石のような大切な時間。それは今日も同じだった。ただ一つい
つもと違ったのは、彼が帰り際に放った一言。
「ねえ、この作品、一つリクエストしていいかな」
 あたしは少し驚いた。彼が自分の願いを言うなんて、今までにはなかったことだ。それ
はなぜかとても嬉しかったが、同時に少し怖くもあった。あまり難しい注文じゃなければ
いいけど。
「やっぱり最後は、ハッピーエンドがいいな」
 ハッピーエンド。あたしは少し拍子抜けのする思いだった。言われるまでもない、悲し
い結末にする予定なんて、さらさらなかった。あたしは自信満々に頷いてみせる。
 彼が望むなら、やってやろう。全く予想もできないくらいの、これ以上ないほど幸せな
最後。目的地を見つけたあたしのペンは、どこか少し強くなったように見えた。
         *

107 No.32 その手のひらはペンよりも強くて (3/5) ◇wDZmDiBnbU 06/12/10 20:59:09 ID:4McSGALH
 予想外の展開、というのはこのことだろう。あたしは悩むことが多くなった。
 リクエストを貰ったその次の日、あたしの創作意欲はかつてないほどに膨れ上がった。
でも不思議なことに、それは三日ともたなかったのだ。結末はすでに考えてある。それな
のに、ペンは全く進んでくれない。一日に書き進む分量は、目に見えて減ってきていた。
 思いもしなかったことはもう一つある。彼があたしに会いにくる、その回数が減ったこ
とだ。いつの間にか立場は逆転し、あたしが彼の部屋を訪れるようになった。理由はもう、
火を見るより明らかだ。個室のベッドに横たわる彼、小奇麗な装いのその部屋に、どこか
重量を漂わせる設えがちらほらみえる。いくつかの医療器具、大仰な点滴台、見たことも
ない謎の機器。それらはあたしにいくつかの、嫌な言葉を連想させた。
「なんて言っていいか、急に行けなくなっちゃって」
 申し訳なさそうな彼の言葉を、あたしは無言で遮った。手渡したノートを、力なく開く
彼の指。それが前より細く感じるのは、気のせいであって欲しかった。
 今日書けたのはたったの数行。それを読み終えるのに、たいした時間は必要なかった。
「やっぱり、面白い。この話を読むと、元気がでるよ」
 言葉とは裏腹の彼の声。あたしは胸が張り裂ける思いだった。すでに立ち上がることす
ら満足にできない彼。それとは逆にあたしの脚は、順調すぎる経過を見せていた。怪我の
回復を止めることはできない。あたしにできる唯一のことは、このノートだけだ。もしこ
のノートまでもが、すべて書ききられてしまったならば。
 彼の指に手を添えて、あたしはいつもの言い訳を告げた。明日はもっと、いっぱい書く
から。たびたび繰り返されるその約束は、今まで一度も果たされたことはない。
「だめだよ、作家がそんなに読者に媚びちゃったら」
 楽しそうに笑う彼の姿。その微笑みは、『まるで透き通る水のように繊細で』。思わず
頭に浮かんだのは、あまりに陳腐すぎるその表現。この気恥ずかしさを、頬の熱を、すべ
て文才のなさのせいにしてしまう――そんな意気地のない自分に腹が立つ。ペンはたしか
に強かった、それに引き換えあたしはどうだ。
 彼の望んだ幸せな結末。それはもう、最後まで考えてある。でもあたしには、どうして
も書くことができなかった。ハッピーエンドなんて、残酷すぎる。ハッピーはともかく、
エンドはいらない。わかりきっていたこととはいえ、それでもあたしは拒み続ける。
 あたしの物語は、彼を残して終われなかった。
         *

108 No.32 その手のひらはペンよりも強くて (4/5) ◇wDZmDiBnbU 06/12/10 20:59:42 ID:4McSGALH
 重いのは脚ばかりでない。気持ちはそれよりも沈んでいた。
 いっぱい書くという約束を裏切り続けて一週間、あたしは失意のどん底にいた。もう文
才のなさなんてどうでもいい、欲しいのはたった一つの勇気なのだ。彼の容態はただ悪く
なるばかりで、もうあたしにはどうすることもできなかった。
 真夜中の病室で一人泣く、そんな行為になんの意味があるのか。自分の臆病さに嫌気が
さす。いつまでも物語の中にいられたらなんて、あたしはどれだけわがままなんだ。
 終わらない物語なんてない。だから、あたしは覚悟を決めた。彼とあたしを結びつけた、
この一本のボールペン。もし本当に剣よりも強いなら、恐れることはないはずだ。
 暗い廊下を忍び歩き、彼の病室のドアに手をかける。その向こうには、前と変わらない
彼の笑顔。その隣に腰を掛け、あたしは黙ってノートを開く。この期に及んで言い訳はい
らない。いま書かなければ、いつ書くんだ。
 もはや動くことも、話すこともままならない。その彼はただ、優しい視線であたしを包
む。その優しさに、温かい心に、いま一時だけ甘えさせてほしい。あたしはポケットから
ペンを取り出した。物語の終幕を記す偉大な剣、それを勢いよく鞘から抜く。
 書き上げる。いま、この場で。だから、あたしにその勇気を下さい。
 剣が宵闇を裂き、閉じようとしていた世界を紡ぐ。このひとときを惜しむように、やが
て訪れる夜明けを拒むように、ただ勢いに任せて文字を叩き付ける。ペンは強く、美しく、
そして限りなく自由だった。動かない彼の体、怯えるあたしの心、その全てを飛び越えて、
広く遠くどこまでも羽ばたく。どのくらいの時間が経ったのか、もうあたしにはわからな
い。
 東の空が淡く輝き始めた頃、ノートの中の物語は、もうほとんど書き上げられていた。
 あと一文で、終わるよ――。
 そう言いかけた瞬間。あたしの視界が、ふいに滲んだ。もう動けないはずなのに。ぼや
けた視界の向こうには、身を起こしノートに手を伸ばす彼の姿。震える指が虚空をさまよ
い、そしてあたしの頬に触れた。
 響き渡る電子音。倒れ込む彼の体重。その全てが、彼の状態を物語っていた。涙を拭う
ことすら忘れ、あたしは彼を抱きしめた。名前を叫ぶあたしの声は、彼に届いているのだ
ろうか。

109 No.32 その手のひらはペンよりも強くて (5/5) ◇wDZmDiBnbU 06/12/10 21:00:19 ID:4McSGALH
 脳裏に浮かんでは消えてゆく、数々の思い出と、大きな後悔。いっぱい書くという約束
も、書き上げるはずだった物語も、あたしはまだ何一つ果たせていない。言わなきゃなら
ないことがいっぱいある。でも違う、言いたいことはそれじゃない。あたしがいますべき
ことは、許しを請うことなんかじゃないはずだ。
 悲劇のラストに誘う弱い心を、あたしは一刀の元に切り捨てる。そのための武器も、そ
れを振るう勇気も、全部きみに教えてもらった。だから、もう逃げない、負けるもんか。
最初にきみと約束したんだ、最後は必ず、ハッピーエンド。
 小さく震える彼の手のひら、ペンの切っ先がその上を走る。沸き上がる恐怖を押さえつ
けるように、溢れ出る予感をせき止めるように、あたしは全てを刻み込んだ。どうしても
書くことができなかった一文。間に合わなかった小説の最後。
 その言葉が伝わったのか、それとも彼自身の気持ちなのだろうか。もはや意識もないは
ずの、彼の唇が動くのが見えた。声にならなくても見ればわかる、いましがた手のひらに
刻んだばかりのその一言。嘘偽りのないあたしの気持ちは、言葉にすればたったの五文字。
『   ありがとう   』
 駆け込んだ看護士が何かを叫ぶ。あたしにはもう、それを理解する余裕もなかった。た
だ大声を上げて泣き、彼に必死ですがりつく。そこから先は、もう憶えていない。
 輝く太陽が上りきる頃、彼はその彼方へ迎えられ、旅立った。
            *
 春の風が再び訪れ、草木が目を覚ますその明け方。あたしは再び、病院の前にいる。
 初めての恋と、初めての別れ。その日から丁度、一年が経った。
 数学のノートは、もう十冊を越えていた。当然名前は書いていない。あたしがここで、
一番最初に学んだことだ。もし名前を書いたところで、もう拾ってくれる彼はいない。そ
れは悲しいことだけど、でもあたしは振り返らない。文字の中に彼は、生きている。
 胸ポケットに、ボールペン。その切っ先が雲を裂いて、彼の元へと橋を架ける。でも、
それを渡るのはまだ先のこと。エスコートもなしに会いには行けない。だからそれまでも
うすこし、待っててもらってもいいだろうか。
 未完のままの一編の小説。その文才のないラブレターは、手渡しするって決めたから。

<了>



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