【 憎んでなんかないよ 】
◆DzHpA/9hyM




102 No.31 憎んでなんかないよ (1/3) ◇DzHpA/9hyM 06/12/10 20:46:09 ID:4McSGALH
 「私は母親失格。それどころか女性失格。いえ、人間失格だわ」
 墓前にいた女は、そう話し始めた。
 私がそこの前を通ったとき、女は既にそこにいた。年は見た目、二十代後半ぐらいで、私よりいくつか年上に見え
た。でもそれは、不似合いなほどやつれているからかもしれない。花も供え物も持参してなかったようで、ただ目の
前の墓を悲しげな表情で、見つめているだけだった。
 「私の話聞いてくれますか?」
 訳ありなのはすぐにわかった。この墓に、大事な人が入ってるのだろうか。
 私はその女の第一声を思い出して、ばつが悪い顔になった。女は私の顔を祈るように見ていた。
 もし、話すことで楽になれるのなら、聞こう。私はそう思った。
 「私でよければお聞きしますわ」
 私が微笑むと、女は安心したような顔をになった。そのあと、ふたりは近くのベンチに腰を下ろした。
 「私には、会ってちゃんと謝りたい人がいます。そして、許して欲しい人がいます。でもその人は、もう会えない
存在なんです。それでも少しの可能性を信じて、毎日ここに顔を出していました」
 「それは、お子さんですよね」
 私は少しの間を埋めるように言うと、女は頷いた。
 「その通りです。医者は女の子だって言っていました。でも、その子は望まれた子ではなかった」
 「望まれない子?」
 女は歯を食いしばった。私はとことん聞くつもりだった。それが女のためであると思ったから。
 「私、数人の男性から性的暴行を受けたんです。彼らの部屋に連れ込まれて、監禁状態でした。やっとの思いで逃
げて、警察に駆け込み、男たちは逮捕。それでその事件は終わったんですが…」
 「妊娠を?」
 「ええ――。結局父親はわかりませんでした。いえ、解らなくてよかったのです。それから私は、その子を産むか
産まないかで悩みました。そして、当時すっかり男性恐怖症に陥っていた私は、逆にこう思ったのです。――女一人
で育ててやる。父親なんているもんか――って」
 女のやつれた顔が、やけに私の心を締め付けた。その冷たそうな手を見ていると、私は悲しくなり、鞄から出した
使い捨てカイロを渡した。すると、女は、ありがとうと言って微笑んだ。

103 No.31 憎んでなんかないよ (2/3) ◇DzHpA/9hyM 06/12/10 20:47:41 ID:4McSGALH
 「でも、それはあまりにも無謀なことでした。私の父と母は、そのころにはもう、すでに死んでいて、頼れる親戚
もいませんでした。貯金があるわけでもなく、当時していた仕事は、私の妊娠を期に解雇されてしまいました。だか
らもしかしたら、いえ、ほぼ確実にそういう施設のお世話になってしまう事だろうと思ってました。産むかどうか、
もう一度、冷静に考えたころには、すでに胎児は大きくなっていて、堕ろせなくなっていたんです。私は、もう自分
がどういう目で見られようがかまわない、この子さえ生きてくれれば、と願うようになっていました。母親失格。人
間失格。それでもいい。それでも、この子は、子供失格な訳がないのです。だから、生きて欲しい、と」
 そして、女は悲しそうな表情になり、墓があった方向を見つめていた。
 「その後、なにがあったんですか?」
 女はようやく暖まってきたカイロを、目に当てた。その深い意味はわからなかった。意味なんてなかったのかもし
れない。
 「あっという間に、時間が経って、お腹も大きくなりました。日々の嫌な事は、子どもの顔を見ると、全て忘れら
れるそうです。私はもはやそれに頼ろうとしていました。早く、自分の子どもに会いたいと。私は仮初の母親気分を
味わっていました。ところが――出産日まで一ヶ月前に、私は突然倒れて病院へ担ぎ込まれました。そこで、重大な
ことを聞かされたのです」
 母が死ぬか、子が死ぬか。
 女はそう言って私の顔を見た。私は顔を背けたくなった。それ以上聞くのが怖くなった。なぜ、彼女が墓に訪れい
ていたのかを、わかってしまった。
 「私の、子宮は暴行事件の時にだいぶやられていたらしくて、出産は不可能と言われました。そして、血小板か何
かの理由で、切開をすると私の命が無いと。そしてその選択はすぐに下さなければいけないと」
 私はもう何も言えなくなっていた。
 「選択――と言われましたが、それは選択ではなく覚悟でした。子ども一人だけではまともに生きていけるわけが
無いのです。絶対に苦しい思いをさせる。だから――自分の子どもを殺す覚悟を…」
 私は耐えられなくなって立ち上がり、女のほうを向いて怒鳴った。
 「その選択。子どもを助けるほうを選んでよかったんじゃないでしょうか」
 女は驚いた顔を見せた。
 私は続けた。
「というのも、私も産まれた時から母がいません。ずっとそういう施設で暮らしてきました。それでも仲間がいて、
好きな人がいて、素敵な生活を送っています。就職もして、恋もして、今はとても幸せに暮らせています。子どもは
母親がいなくても大きくなれるんです」
 そう言った後、いきなり熱くなった自分が恥ずかしくなった。

104 No.31 憎んでなんかないよ (3/3) ◇DzHpA/9hyM 06/12/10 20:48:51 ID:4McSGALH
それをみて女は優しく微笑んだ。その時、女の真意はわからなかった。
 「あなたは幸せに暮らしているんですね?」
 女は立ち上がり、私のほうを向いたまま、後ろへとゆっくり歩き始めた。そしてさっきの墓の前まで下がった所で、
もう一度口を開いた。
 「それを聞ければ充分です。私は、子供を産むほうを選んでよかった、自分が死ぬほうを選んで本当によかった」
 「自分が死ぬ方?」
 その女の像が半透明になりゆらゆらとゆれ始めた。
 「ずっと待ってた。いつかあなたがここに来てくれると。そして、今日、会えてよかった。幸せに暮らしていてよ
かった。あなたを産んでよかった」
 私は、女が立っている墓を見た。それは私が探していた、母の墓だった。
 「お母さん…?」
 女はゆっくりと、かぶりを振った。
 「私は母親失格。あなたにつらい思いをさせた張本人。そう呼ばれる筋合いはないわ」
 私は母に駆け寄った。そして何度も母を呼んだ。お母さん――お母さん――。
 日は既に沈もうとしていて、夕立のオレンジ色が、徐々に母を溶かしていった。
 私は母のその冷たそうな手を必死で掴もうとしていた。でも、ただすり抜けるだけだった。
 「お母さんは、許して欲しいって言ったけど、私、憎んでなんかいないよ。それどころか… ありがとう! 私を
産んでくれて。ありがとう!」
 私は大きな声で叫んだ。産まれてから、ずっと言いたかった言葉。
母はにっこり微笑んで、やがて、消えた。

 お母さん――。あなたは母親失格なんかじゃないよ。そして、私もちゃんと生きてるからね。私が、そっちに行く
時、きっとお母さんよりおばさんになってる。それでも、あなたは大切なお母さんだからね。
 私は、持ってきていた花を墓に添えた。ふと地面に残っていたカイロを見つける。それはまだ温かみを帯びていた。 (缶)



BACK−beyond the uld ◆JBE2V7aE2o  |  INDEXへ  |  NEXT−その手のひらはペンよりも強くて ◆wDZmDiBnbU