76 No.23 雪見障子 (1/4) ◇5GkjU9JaiQ 06/12/10 02:35:50 ID:cQlvBXis
「じいちゃ、あのね」
「ユウタ」
低く、重い声で謙蔵が言った。ユウタは虚をつかれ、その場に固まってしまう。
「座りなさい」
有無を言わさぬ口調だった。普段の優し気な祖父からは想像もつかない厳しい表情に、
ユウタは脅える。少しの間を置き、謙蔵はため息混じりにその場に座った。
「何で破ったんだ?」
そう言って謙蔵は障子の方に顔を向ける。自慢の雪見障子が、派手に破られていた。ユ
ウタは中途半端に口を開くが、そこからは何の言葉も出てこない。
孫の目が潤んだのを見て少々怯んだが、謙蔵はうつ向いて首を振る。
「……じいちゃんはな、ユウタはそんな子じゃないと思っていたんだが」
ユウタの表情がくしゃくしゃに歪む。謙蔵が目を閉じるのと、ユウタが大声で泣き出すのはほぼ同時だった。
77 No.23 雪見障子 (2/4) ◇5GkjU9JaiQ 06/12/10 02:36:03 ID:cQlvBXis
使い古された石油ストーブの上で、やかんがかたかたと音を鳴らし始める。昨日まで
の賑やかな雰囲気は、もうそこにはない。どこか落ち着かない空気に、謙蔵は居心地の
悪さを感じていた。
謙蔵の妻、則子がやかんの音を聞き付けてそいそと台所から現れる。
「あんた、良かったのかい?」
布巾越しにやかんを持ち上げた則子がしかめ面で言うが、謙蔵は何も答えずに新聞を
見下ろしている。
「たかが三歳の子供のちょっとしたいたずらじゃないか。折角遠くから来てくれたのに、帰すこともないと思うんだけどね」
分かっている。――分かっている。
無言で頷く謙蔵。則子はその挙動に対して小さく溜め息をつき、台所に戻っていく。
親の躾がなっていない、そう言って息子夫婦ともども帰らせたのだ。一度意固地にな
ると、てこでも動かない。齢六十にして、自覚しつつも未だ曲げられぬ性分。明日から
始まる大掃除ともなれば、障子紙など嫌でも張り替える。しかし障子云々よりも、ユウ
タの口から、一言。ただの一言だけが謙蔵は欲しかったのだ。
「……めがねがなくても読めるのかい」
振り向くと、則子が老眼鏡のケースを片手に後ろに立っていた。
ばつが悪くなり、謙蔵は唸りながらそっぽを向く。
78 No.23 雪見障子 (3/4) ◇5GkjU9JaiQ 06/12/10 02:37:33 ID:cQlvBXis
その夜は音もなく雪が降り積もっていた。謙蔵が白い息を吐きながら縁側の雨戸を閉
じようとすると、電話が鳴る。あ、と思う間もなくベルは鳴り止む。居間にいた則子が
取ったようだった。
せがれだろうか。
続いて頭に浮かんだ孫の顔に、謙蔵は何となく気恥ずかしくなる。
「あんた」
則子の呼び掛けに、謙蔵は咳払いを一度挟んで、居間に向かう。
「ああ、いや。うん。分かった。……それで、ユウタは」
謙蔵がそう聞くと、息子は代わるよと言う。少しの間が空き、幼い声が受話器から響いた。
「じいちゃ、怒ってない?」
ユウタだ。謙蔵は微笑んで小さく頷く。
「ユウタか。もうじいちゃんは怒ってないよ。けどね――」
「あのね、じいちゃがね、暗くて読めないって言ってたから、ユウタね、開けたの」
79 No.23 雪見障子 (3/4) ◇5GkjU9JaiQ 06/12/10 02:38:18 ID:cQlvBXis
はて、何のことか。
そう思ったが、すぐにぴんときた。昨日の晩に、息子と冗談で話していたのをユウタ
は聞いていたのだ。
老眼が酷くなってきて、また眼鏡を変えた。
昼間でも部屋の灯かりだけじゃ新聞を読むのに心許ない。いっそのこと障子紙は外し
てしまおうか、と。
「そうか」
謙蔵は至極真面目に頷いた。元はと言えば、俺が悪かったのか。
「じいちゃんのためにやってくれたんだな」
「うん。んっとね――」
舌足らずなユウタの言葉に、一々相槌をうつ謙蔵。ふと自分の部屋を見ると、雪見障
子から白く染まり始めた庭が見えた。
「ユウタのおかげで、明るいよ」
謙蔵は呟く。
年が明けたら、こちらから出向こう。そして、ユウタに求めていた言葉を自分から。
則子が横から微笑みながらお茶を出す。
謙蔵は、照れながらそっぽを向いた。
―了―